『鯛百珍料理秘密箱』

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『鯛百珍料理秘密箱』とは?


『鯛百珍料理秘密箱』とは、1785年(天明5年)に出版された、上下2巻で103種類もの鯛料理レシピが掲載されている料理本である。江戸時代(天明年間)は「百珍」と題し様々な料理本が世に出た時代だった。大ベストセラーとなった『豆腐百珍』を始め,『大根百珍』,『甘藷百珍』,『卵百珍』,『そば百楽』など、百珍をタイトルに掲げる料理書籍が好評を博して多くの人々に読まれたのである。

『鯛百珍料理秘密箱』


この時代の料理の特徴は、今までにない華やかさや驚きのような「遊び」の要素が盛り込まれるようになったことである。例えば料理素材に変わった色をつけたり、手の込んだ調理方法を施すことで斬新さが実現されている。こうした要素は『鯛百珍料理秘密箱』にも含まれていて、一連の百珍物の料理本の特徴を示すものとなっている。

しかしこうした食における「遊び」の要素というものは、あくまでも贅沢さや経済的な豊かさがあって始めて成立するものである。よって食べることにすら困窮していたり、貧困や飢餓状態にあれば、「遊び」の要素のあるような料理への追求など行われるはずがない。
こうした食と経済への関係を念頭に置きながら、『鯛百珍料理秘密箱』が出版された時代背景を少し考えてみることにしたい。


飽食と飢餓の天明年間


『鯛百珍料理秘密箱』を含む一連の百珍ものの料理本が出されたのは、1785年(天明5年)である。この頃はどのような社会背景があったのかを以下の年表から確認して頂きたい。

・天明2年-8年(1782年-1788年): 天明の大飢饉
・天明2年(1782年)5月 : 『豆腐百珍』刊行
・天明3年(1783年)7月6日 : 浅間山で大噴火。死者約2万人
・天明3年(1783年)9月 : 『豆腐百珍続編』刊行
・天明5年(1785年)7月 : 『萬寶料理秘密箱』刊行
・天明5年(1785年)7月 : 『鯛百珍料理秘密箱』刊行
・天明5年(1785年)7月 : 『柚珍秘密箱』刊行
・天明5年(1785年)7月 : 『大根料理秘伝抄』刊行
・天明6年(1786年)8月 : 田沼意次が失脚
・天明7年(1787年)5月 : 天明の打ちこわし
・天明7年(1787年)6月 : 松平定信が老中になり寛政の改革を行う

天明年間は、大きな災厄が訪れた苦難の時代であった。まず絶対に外せない大きな出来事が飢饉である。これは「天明の大飢饉」と呼ばれており、1782年(天明2年)- 1788年(天明8年)迄の6年間も不作が続いた為に多くの人々の食料が尽き餓死者を増加させた。他にも江戸時代には度々飢饉が発生しており、寛永大飢饉、享保大飢饉、天保大飢饉を合わせて江戸四大飢饉と呼ばれている。取り分けそのうち「天明の大飢饉」が最も被害が甚大で、深刻な飢饉となったことが様々な文献に記録されている。

凶荒図録

『凶荒図録』小田切春江


天明の大飢饉は特にその被害が深刻で、全国的に飢饉と疫病が広がった為に天明年間だけで人口が約90万人減少したと『旺文社日本史事典 三訂版』は述べている。飢饉による被害は東北地方が甚だしく、1783年9月 - 1784年6月にかけて、津軽藩では8万1100人余が飢餓・病気によって死亡。八戸藩では飢餓による病死者が3万人余出たと記録されている。


杉田玄白が記録した飢餓


こうした飢餓状態によって日常食が底をついてしまい、食を求める人々によって食人(カニバリズム)が横行することになった。このような事態を医師の杉田玄白は『後見草』の中で次のように述べている。

【 後見草 】 下巻
貧しいものたちは生産の方法も尽きはて父子兄弟を見捨てて、我先にと他領地に出て行き、嘆いて食物を乞うのだった。しかし行く先々も同じ飢饉なので他領から来た者などは目もかけららず、一飯を乞い願ってもそれに応えられる人もいない。こうして毎日、千人あるいは二千人の流民が餓死した。
また領地を出ずに残った者達も、食べることが出来るものは食べ尽くしてしまい、先に死んでしまった者の屍体を切り取って食べた。或いは小児の首を切り、頭面の皮を剥ぎ取って、火の中で炙り焼いて、頭蓋の割れ目にヘラを差し入れて脳味噌を引き出し、草木の根や葉と混ぜて炊いて食べる者もいたという。
また或る人の話では、その頃に陸奥のと或る橋を渡っているとその下に餓死した人の屍体があり、これを切って股の肉を塩漬けにする人があったので、何にするのかと問うたところ、これを草木の葉と混ぜて犬の肉として売るのだと答えたと云う。


このように杉田玄白は飢餓によって陸奥で凄惨な人肉食が横行していた状況を記している。天明の大飢饉とはこれほど人々を飢餓状態にへと追い込んだ未曾有の災厄だったのである。しかも1783年(天明3年)には浅間山が噴火し、大気中に大量の微粒子が噴上げられたことで、さらなる冷害が引き起こされてしまい、その後も数年間、冷害による不作となってしまった。

杉田玄白と『解体新書』



高山彦九郎が記録した飢餓


このような深刻な飢饉について、高山彦九郎も『北行日記』のなかで記録している。高山彦九郎は京都・三条大橋に土下座しているインパクトある銅像で知られている人物である。(実際には土下座しているのではなく、御所に向かって拝している姿である)

尊皇思想家であった高山彦九郎は、蝦夷へ渡ろうとして東北地方を北上したが、その時の足跡の記録が『北行日記』であり、その日記の中で南部藩の飢餓の惨状を次のように記録している。

【 北行日記 】
飢年には野草禽獣も食ひ尽し親は子か死せは食はん事を思ひ、子も又た親の肉を食んとす。候の制禁を出たされて人の肉を食ふものをは捕へて刎首す、され共人の肉にて命をつなぎ今に存命のものもありと聞ゆ。是れより二十里西の方苅米の辺大沢といへる所にては人の肉を食ふ事の役人へ聞へ 捕手のもの来り捕ふ、家に死人十二俵貯へ置きたり。一軒には二俵あり、一軒五人暮にて二軒にて十人暮しなりけるを役人立合にて打殺し其の家に其侭埋めもせで置かれしよし。
八ノ戸在孫を失ひたるもの有りける。 あるもの二人来りて其亡孫の死骸を乞ふ。与えずは事にも及はんと恐れて許したりけれは葬埋の所より掘り出だし食ひけるに壱人は死す一人は生きて今に徘徊す。孫食はれたるもの其のものの面体を見れはうらめしく思ひぬると村上氏へ語りしとそ。人の肉食ひて今に存命するもの幾許といふ事を知らず。人は五穀にて養ふもの故か味ひ是れに勝るものなし と人食ひたるもの語りしとあるじか咄也。

【 訳文 】
飢饉の年は野草も動物も食い尽くしてしまい、親は子を食うことを考え、子もまた親を食おうとした。人の肉を食った者は首を刎ねるとして禁止令が出されたが、それでも人肉を食べて何とか生き残った者もいるようである。ここより西に80kmほど離れた大沢では、人肉を食べる者たちがいるとの通報をうけて役人が駆けつけたところ、家に死体が12俵分も置かれていた。他もう一軒にも2俵あり、一軒に5人、2軒で10人が暮らしていたが、役人はそのものたちを皆打ち殺し死体はそのまま埋められず放置された。
八戸では、孫を失った人のもとに、ある2人が訪れてその孫の死骸を求めた。 死骸を引き渡さないと何されるかと恐れて許可したところ、2人は埋葬した死骸を掘って食べ、そのうちの一人は死に、もう一人は今も生きて徘徊している。孫を食われたものはうらめしそうだったと村上氏は語っていた。人肉を食べていまだに生き延びた者の数は不明である。人間は五穀を食べるため、その肉は他に勝るものがないと人を食べた者が語っていたと言う。


このように飢餓状態のために、人が人肉で命をつないでいた惨状が記録されている。さらに『北行日記』には次のような記述もある。

【 北行日記 】
小児をは生るを川へ流すもの多フし、人死すれは 山の木立ある所へ棄て或は野外に棄て川へ流すもあり。猪鹿狗猫牛馬を 食ひ又は人を食ふものも有り、子のありて其の親の屍をは其の子埋れ共 其余は皆ナ埋むる事なし、埋めたるを掘発して食ふものもあり、山中野 外の屍を食ふものもあり。煮ても焼ひてもなまにても食ふ。今マ其人に 尋ぬるに馬の味は猪鹿に勝り人の味は馬に勝ると語れり。己れが小児を 殺して食ひしものも有り人にして鬼の如し。当村にても二十軒斗り死絶 へたり、生るもの半はに過きぬ。十軒七八軒の村には壱人も残らす死失 たる所も有り。人の肉を煮るに水飛んで火中に入れは忽ち燃へ上る油の甚だしき 是れに過るはあらじ。

【 訳文 】
子供が生まれると多くのものが川に流した。人が死んだなら山の木立に捨てるか、川に流す者もいた、猪、鹿、キツネ、猫、牛、馬などの動物を食べたり、あるいは人を食う者まであった。子どもがいれば親の屍体は子どもが埋葬してくれるが、そうでもないと誰も埋めてくれるものがない。また埋葬されたものを掘り出して食べる者、山や野にある屍体を食う者もあり、煮ても焼いても生ででも食べた。その人に尋ねると、馬は猪鹿より美味であるが、それより人肉が美味とのことである。我が子を殺して食べた者もあり鬼のようである。当村でも20軒は死絶え、生きているのは半分ほどしかない。10軒あるいは7,8軒の村は残らず死絶えた村もある。人肉を煮るときに水が飛んで火に入ると、脂が多いので他に無いほどたちまち燃え上がる。


ここでも飢饉によって鬼のようになった者たちが、人肉食を行っていたことが記録されている。最近『鬼滅の刃』が大ヒットしているが、これもビックリするほど凄惨な状況が天明年間には飢餓によって引き起こされていたのである。
こうした状況のなかで人肉食が行われていても、その味についての興味や好奇心はぬぐえなかったようで、「五穀を食べている人肉は美味い」とか「馬は猪鹿より美味であるが、それより人肉が美味」など、どちらがグルメ本だったかと取り違えそうになることも書かれており、人間のさがというかごうのようなものも強く感じさせられる。

他にも菅江真澄が著した『楚堵賀浜風』や、橘南谿が著した『東遊記』写本の第10巻、さらには『天明凶歳日記』にも天明の大飢饉の惨状が記録されているので、深く調べたい方はこれらの文献を当たってみると良いだろう。


「天明の大飢饉」の原因


天明年間には冷害による不作が原因で全体的な米の供給量が低下した為に、日本中の米の値段が急騰することになった。さらにこうした事態を商機と見た米問屋が米の買い締めを始めたことから、さらに米価格は上昇することになり、市場の流通量が低下によって庶民が米を手に入れることが非常に困難になった。こうした不満から庶民たちによる「打ちこわし」が横行し始める。打ち壊しとは、不正を働いたとみなされた者の家屋などを破壊する民衆運動のことで、分かりやすく言うと暴動のことである。この時代の打ちこわしは「天明の打ちこわし」と呼ばれ、江戸時代を通じて最多の件数という最悪の事態となった。打ちこわしの件数に関しては以下のような統計が残されている。

・天明2年(1782年) 18回
・天明3年(1783年) 47回
・天明4年(1784年) 20回
・天明5年(1785年) 18回
・天明6年(1786年) 34回
・天明7年(1787年) 50回

こうした暴動は、飢饉に見舞われた陸奥地方ではなく、江戸や大坂といった大都市でも頻繁に発生した。このことは米不足が地方の農村部だけで限定的に起きたのでなく、大都市も含めた日本中で深刻な事態に陥っていたということを示している。

こうした飢餓状態の引き金は、冷害による不作によるものだったことには間違いないが、それ以上に、米価の上昇に伴い東北地方の各藩が、備蓄米を取り崩してまで米を取引のために都市部に回すことで大きな利益をあげようとしたことが飢餓を拡大させてしまった最大の理由である。こうした諸藩の明らかな失策のゆえに、東北地方では食料が極端に不足して飢餓状態になり、同時に大都市圏では不作を受けた極端な米価の上昇によって食えない人々が増加することになったのである。よって天明の大飢饉は、その原因を単に天災であるとするよりは、むしろ人災によって引き起こされた災厄であったと考えるべきであるように思える。

いずれにせよ、こうした飢饉の時代の真っ只中の、1785年(天明5年)に『鯛百珍料理秘密箱』が出版され、世に出たのだということだけは押さえておかなければならない。未曾有の大飢饉でバタバタと餓死してゆく人々があり、都市部でも米不足の不満から民衆による打ちこわしが横行するその最中に、一連の百珍物の食における遊びの要素が満載の料理本が刊行されたことは何とも皮肉な話と言えるのではないだろうか。

例えば百珍本の中の一冊に『万宝料理秘密箱 卵百珍』があり、このなかに卵の黄身と白身をひっくり返して茹で上げる「黄身返し」という料理方法が掲載されている。ただこれは味とは何の関係もなく、見た目の珍しさを追求した遊び要素の強い卵料理でしかない。しかしこうした珍しい料理方法が一生懸命に論じられ、それを本で読んで実践しようとしていた人々がこうした時代にもいたのである。だがそれと正に同じ瞬間に、何十万人もの人々が互いを食い合い、次々に餓死していったという事実があったことは大変に胸の痛くなる話ではないか。


食における倫理


近年、江戸料理の再現が行われ、江戸時代に人々がどのようなものを食べていたのかについての関心が近年高まっているようで、そうした流れのなかで『豆腐百珍』,『卵百珍』などの料理本が注目されているのは大変興味深いことである。しかし、こうした時代背景を無視して、この時代に発表された料理を単に珍しいものとして有難がり、この時代が飢餓の真っ最中であったことに目を背けてしまうのは倫理的にいかがなことかと思わざるを得ない。むしろこうした百珍本は必ず、出版された飢餓の時代の背景と抱き合わせにして語られるべきものではないかとわたしは思うのである。

ちなみに先には杉田玄白の『後見草』を引用してカニバリズムの実態を明らかにしたが、杉田玄白は同じく飢餓にあった民衆に幕府がどのような食を推奨していたのかも明らかにしているので、その部分も引用しておきたい。

【 後見草 】 下巻
次第に食べ物が尽きて果ててしまい草木の根や葉をまでもが食料となった。さらには松の皮を剥いで餅を作ったものを、公もお召し上がりになった。そして飢えをしのぐために藁餅を作って食べるようにと御触れが出された。その製法は良く藁の灰汁を抜いて、一升の藁に対して米粉を三合混ぜ合わせて蒸したものを搗いて餅とするというものであった。


ここで松の皮を剥いで作った餅と、藁でカサ増しした餅について言及している。現在でも秋田県由利本荘市鳥海の矢島地区には「松皮餅」が郷土菓子として伝えられている。この餅の作り方は天明年間に刊行された『飢食松皮製法』の中で説明されている。そのレシピは、松から剥ぎ取った内樹皮を柔らかくなるまで煮て、それを潰して餅に練り込むという製法である。明治31年に石川理紀之助という人物が記した『草木谷庵の手なべ. 後編』にも詳しく製法が書かれており、参考にして頂くと良いだろう。

もう一方の藁餅も同じく『飢食松皮製法』にそのレシピが記載されていて、そこには「穂先の部分は切り落とし細かく裂いて干し、乾燥したらこれを臼にかけて粉状にしてから、餅と混ぜて蒸し上げる」とある。いずれにしてもこうした方法で飢えを凌いでいたこの時代の困窮状態は相当に過酷だったということがはっきりと分かる。こうした料理を敢えて好意的に表現するならば、これらもまた百珍ものとまた異なる意味においての「珍食」ということになるのだろう。

しかし一方ではこうした飢餓の時代に、普通の食事に飽きてしまい百珍物にあるような「遊び」の要素をふんだんに取り入れた料理に対するニーズを持つ層があったことにも注目しておかなければならない。実際にそうした人々の好奇心を満足させることで、これら一連の百珍物の料理本は飢餓の時代に大ヒットしたのである。

このように天明年間は、美食と飢餓という極端に相反する要素が同時に存在した不可思議な時代だったのである。本来であれば、こうした百珍に費やされるような食の努力は、飢餓対策に費やされるべきであったのかもしれず、百珍の料理を支えた人々はその富や食料を再配分しなければならない倫理的に責任ある立場にあったはずである。そうであったとするならば、一連の百珍物のレシピは飢餓の時代に社会的責任を無視して百珍料理を楽しんでいたような人々によって支えられたものであったということになるだろう。こうした時代背景を考えると、百珍物の成立を華やかな江戸文化の一端であるとして手放しで賞賛するようなことに対して、少しわたしは違和感を感じてしまうのである。


江戸時代の格差社会


天明年間には大きな格差社会が見られるようになっていた。この時代は田沼意次によって重商政策が取られており、大商人による資本の集積が進むことになっていったが、これが大きな格差を生み出した原因のひとつである。こうした莫大な資本を持つ大商人が誕生することで、都市部では中小商工業者が没落し、都市貧民層が形成されるようになっていたのである。

これに加え地方では、宝暦から天明期に領主からの年貢と地主からの小作料という二重の負担に耐え切れなくなった多くの農民が没落・離農して都市に流入するようになっていた。こうした者たちも都市貧民層となり、自らの労働力以外に失うものが何もない下層階級を都市に誕生させることになった。ただこれが都市のおけるサービス産業が拡大してゆく契機になっていったことも事実である。
しかし都市下層民の生活実態は極めて不安定なものであった。ゆえに飢饉、災害、給料の減少、銭相場の下落などが起きると容易に困窮状態へと陥り、無宿人などに転落することになったのである。

天明年間に起きた「打ちこわし」は、こうした都市下層民の米価高騰に対する不満が爆発したことに起因したものであり、こうした格差社会によって、富者と貧者の二極化が進行していることを顕在化させるものとなった。こうした貧富の差は、食においても格差を生み出す事に繋がったものと考えられる。貧者は飢え、富裕層は通常の食だけでは飽き足らずに「遊び」の要素を取り入れ、より珍しさと驚きを満ちた料理を追求していったのである。

特に江戸時代になると鯛が特別な魚として価値が高いものとされるようになった。こうした時代の追い風を受けて日本橋の魚河岸では鯛が消費され、高額で取引されるようになっていったが、こうした鯛の主な消費者とは、幕府や大名家や上級武士、さらには大商人といった富裕層であった。そうした高消費者層がまずは『鯛百珍料理秘密箱』を購入したと考えられ、彼らは自分たちの食べる料理のレパートリーを広げることにこれらの本を役立てたことだろう。このように食と云う観点からこの時代を見てゆくと、そこには確かに大きな格差があったことが見えてくるのである。


作者の器土堂主人きとどうしゅじんとは?


初版から10年後の、寛政7年(1795)版本に追補された『鯛百珍料理秘密箱』には、京の文林堂の書肆 中川藤四郎による跋文があり、ここで著作が器土堂主人であることが明らかにされている。しかし器土堂主人という人物そのものについては、ほとんど何も分かっていない。器土堂主人の著作の最初の版元が西村市郎右衛門(同堀河通錦小路上ル町)であることや、跋文を書いている中川藤四郎(同堀河通六角下ル町)が必ず絡んでいることから推測すると、器土堂主人は京に住む人物だったのではないかと推測されるぐらいである。

1785年(天明5年)に刊行された『鯛百珍料理秘密箱』は、以下のような書店の版元と売出によって市場に流通することになっている。

 版元 西村市郎右衛門(京 堀河通錦小路上ル町)
 売出 木村吉兵衛(京 東洞院通二候上ル町)
 売出 中川藤四郎(京 堀河通六角下ノレ町)
 売出 内神屋三四郎(伊勢)
 売出 岡田茂兵衛(大坂心斉橋馬喰町南入)
 売出 西村源六(江戸 通本町三丁目)

全国5つの書肆がこの本の刊行に関係しているので、非常に良く売れた本であったことには間違いないだろう。また初版から10年後の1795年(寛政7年)正月に『鯛百珍料理秘密箱』の補刻がなされているが、こちらは書肆の中川藤四郎(京堀川通六角下ル町)が版元となり、須原茂兵衛(日本橋通一丁目)が売出として販売していることから、その後も上方でも江戸でも『鯛百珍料理秘密箱』は良く売れていた本だったことがうかがえる。

器土堂主人は長崎で卓袱料理を学んだとされている。器土堂主人の著作に油で揚げる料理や、カステラのレシピなどが記されているのは、恐らく長崎で学んだことが理由であろう。卓袱料理とは長崎発祥の大皿に盛られたコース料理を円卓を囲んで味わう形式の料理のことである。日本、中国、オランダの食が混在したスタイルの献立料理で、江戸は日本橋にあった高級料亭の百川などで導入され大いに好評を博していた。『鯛百珍料理秘密箱』にはこうした卓袱料理に基づいた料理が多く収められており、器土堂主人が長崎に滞在していた可能性を感じさせるものとなっている。

『鯛百珍料理秘密箱』は、景甫という人物が序文を書いているので以下に引用しておきたい。

【 鯛百珍料理秘密箱 】序文
この書では鯛一種類だけを取り上げて百種に及ぶ料理法を記しているが、言葉をたくみにし、文章を飾ろうとするものでもなく、ただいにしえから名家に秘密にされてきた蔵書を探り、それに加えて諸国の名物を、あまねく集めてこの書物のなかにたくさん記載した実に珍しいものである。よってここから秘密箱と名付けたのである。世には料理書は多いが鹿を取りあげて馬であると言うようなことはしない。(中国の秦の趙高の故事)


きのとのみ(乙巳:天明5年)秋季 (七月)

景甫書


この序文から景甫という人物が様々なレシピを各地から集めたことが分かる。こうして集められたレシピを器土堂主人が文章にして『鯛百珍料理秘密箱』は出版されることになったというのが経緯のようである。

器土堂主人は1785年に『鯛百珍料理秘密箱』を出版したが、同じ年に『萬寶料理秘密箱』,『萬寶料理献立集』,『柚珍秘密箱』,『大根料理秘伝抄』と立て続けに料理本を記している。
また同じく1785年に『大根一式料理秘密箱』という著者不明の本が出版されているが、この本も器土堂主人が書いたものであると推測すべきだろう。なぜならこの本も、先に挙げた各本と同じ年に出版された料理本であること、さらに器土堂主人は『大根料理秘伝抄』を書いており、同じく大根料理であるという共通性があること、最後に本のタイトルに料理秘密箱という言葉を使っており、これが『鯛百珍料理秘密箱』および『萬寶料理秘密箱』との関連性を示唆しているからである。ちなみに器土堂主人の著作以外では料理秘密箱というタイトルは、作者の分かっているどの料理本にも使われていない。

さらに言うと、『大根一式料理秘密箱』の序には「天明五年季秋 景甫題」とあり、『鯛百珍料理秘密箱』と同じ人物である景甫の名が記され刻印が押してある。それだけでなく『柚珍秘密箱』の序文は虚斎山人という人物によって書かれているが、刻印は「世美」となっており、そこから判断すると『鯛百珍料理秘密箱』,『柚珍秘密箱』と同じ刻印を使う人物が序文を書いていることになる。

刻印:世美

刻印:世美


こうした序文と本文の関係と刻印の使われ方から、わたしは景甫と器土堂主人は同一人物なのではないかと推測しているのであるが、これに関してはまだ調査が必要であろう。
それでも出版されている様々な書籍の共通点から考えると、やはり器土堂主人がこれらの本の著者であるとする方が理にかなっており、器土堂主人というペンネームを持つ人物が1785年にこれらの料理本を集中的に執筆・出版したと思われる。


作者の匿名性


そもそもこの時代の料理本というのは匿名で書かれる風潮があった。名著とされている『豆腐百珍』の作者も醒狂道人何必醇(せいきょうどうじん かひつじゅん)という名前で書かれているが、実際の作者は篆刻家の曽谷学川ではないかと考えられている。

原田信男は『芸能史研究』第70号に掲載された「天明期料理文化の性格 - 料理本『豆腐百珍』の成立」のなかで、『豆腐百珍』は著者と思しき先の曾谷学川一人による著述というよりも、彼を含む文人サークルの活動の所産として生まれたものではないかという考えを述べている。実際に『豆腐百珍』には多くの料理法が掲載されているのでが、その作者は料理人であるというよりも明らかに文人的な傾向を強く示して著述されている。よって原田信男が指摘するように『豆腐百珍』という書物が、実際には軽妙な文人らの緩やかで豊かな交友関係の教養に裏打ちされた教養の産物、つまりこうした人物たちのネットワークあるいはサロン的な雰囲気の中から醸成された成果物であったとするならば、複数の文人たちが集まったグループが醒狂道人何必醇という匿名を使って『豆腐百珍』を書いたことには十分に納得がいく。そこに含まれている通人としての知識は、そうした文人たちの関係性の中にあった共通言語としての「粋:いき」に裏付けされたものであったことは間違いないだろう。

こうした『豆腐百珍』における先例を踏まえて考えると、その後に出版された『鯛百珍料理秘密箱』も、それと同一線上のコンセプトで出版された本であることが理解できそうである。著者は器土堂主人ということになっているが、序文を書いた景甫もそこで諸国の料理法を自分が集めたのだと自身で述べている。つまり器土堂主人とは、景甫も含む文人の集合体の可能性があることが『豆腐百珍』とその作者が複数人であったことと照らし合わせて考えると、見えてくるのではないだろうか。

器土堂主人は長崎で料理を学んだ人物であるとか、あるいは『鯛百珍料理秘密箱』はより具合的な料理方法が記されていることからその著者は文人というよりは料理人だったと考えられているが、もし『鯛百珍料理秘密箱』が複数の人物が集まって著述されたとするのであれば、こうした様々な異なる人物像も、器土堂主人というペンネームを有する複数人の集合体のなかのひとりに吸収された結果だと考えられるのではないだろうか。


器土堂主人を複数人とする理由


器土堂主人が複数人であると考える3つの理由を述べておきたい。


① 『豆腐百珍』と同一コンセプトである

まず最初の理由は、先に述べたように醒狂道人何必醇が書いた『豆腐百珍』コンセプトの延長線上に、器土堂主人の『鯛百珍料理秘密箱』を初めとした一連の書籍が出版されていることである。これには当然のように版元の意向が反映されており、版元は『豆腐百珍』のようなヒット作を狙って器土堂主人に作品を書くように依頼したに違いない。 こうした百珍物のコンセプトは、一つの素材から百種類もの料理をつくりだすというところだけに止まっていない。これに加えて日本全国の各地の産物・料理法が広く網羅されることにも注目すべきである。
このような広範囲の情報を収めようという試みがなされていることも、匿名性の高いこの著者が実際には複数人の集合体であったはずだと考える理由である。広範囲の地域の情報が収められているのは、複数人による各地での経験に基づいたものだからと考えられないだろうか。


② 『豆腐百珍』と同一の版元

もうひとつの理由は、『豆腐百珍』も『鯛百珍料理秘密箱』も版元が同じところから出版されていることである。『豆腐百珍』の版元は大坂の春星堂藤原善七郎であったが、天明3年(1783年)9月に出版された『豆腐百珍続篇』の版元は西村市郎右衛門(京 堀河通錦小路上ル町)であり、この版元は2年後の天明5年(1785年)に『鯛百珍料理秘密箱』を出した版元でもある。

版元というのは本を作って売ることがビジネスであり、ベストセラーを作り出すことが大きな利益に直結する。『豆腐百珍』,『豆腐百珍続篇』というベストセラーが先行事例としてあるのならば、このモデルに従って同じセオリーで新しい書籍を出版しようと版元は考えるはずである。

よって『豆腐百珍』,『豆腐百珍続篇』の成功を下敷きに、『鯛百珍料理秘密箱』も同じような構成で作成されたと考えることができるのではないか。それは同一素材で百種類を集める事、さらには各料理のレシピを複数名が持ち寄り、それを合わせて一人の匿名著者の作として世に送り出す方法である。これが著者が器土堂主人という匿名の著者であり、これが複数人によって書かれたものであると考える理由である。


③ 1785年秋という短期間で発表されたコンテンツ量

最後に器土堂主人が複数人であると考える理由は、コンテンツを生み出す量の多さである。器土堂主人の著作は1785年(天明5年)の秋に集中的に出版されている。この年の器土堂主人の著書は以下の通りである。

 『鯛百珍料理秘密箱』
 『萬寶料理秘密箱』
 『萬寶料理献立集』
 『柚珍秘密箱』
 『大根料理秘伝抄』
 『大根一式料理秘密箱』

これら上記6冊である。一年でこれらをひとりで残らず著述したとするならば、かなり多産な作家だったということになる。しかしその内容から考えると、これを一人だけですべて書いたと考えるのには無理があるように思える。これほどの分量を短期間で書きたことを考えると、器土堂主人は料理人であるというよりは、むしろ専属作家業の人物(文人)であったという人物像により近いイメージとなりここに矛盾が生じる。よってこうした記述量や内容から考えても器土堂主人とは複数の著者の集合体だったのではないかと推測できるのではないか。


天明年間出版の百珍本の価値


器土堂主人がどのような人物だったのか、あるいは版元がどのような意向で出版ビジネスとしてこれらの書籍を手掛けていたのかを理解することで『鯛百珍料理秘密箱』という本の読者層がどのような人々だったのかが見えてくるのではないか。

まず器土堂主人の一連の百珍物の著作が、醒狂道人何必醇の記した『豆腐百珍』の延長線上にあることから、少なからずその各書の背後人には文人趣味が反映されていることを認めておかなければならない。器土堂主人は料理人であった可能性はもちろんあるのだが、多分に文人的なセンスもこれらの著書の中には認められる。器土堂主人が複数人である可能性については先にも述べたが、こうした文人的なニュアンスはメンバーのなかの文人が手掛けたものから発しているとみて間違い無いだろう。

先に「天明の大飢饉」のさなかに出版されたこれらの書籍と、それを実際に料理することによって楽しむという消費的な感覚をもった富裕層の倫理性の欠如の可能性について言及した。しかし『鯛百珍料理秘密箱』を文人による著作として新たな観点から見直すことで、先に述べたような倫理的なこの著作における感想に修正が求められることになる。つまり『鯛百珍料理秘密箱』が、贅沢な料理のための実践の料理書ではなく、文人趣味に裏付けされた観念的な料理書だったとするならば、また話は違ってくるのである。

もし『鯛百珍料理秘密箱』が実践的な料理書であったとするのであれば、主に料理人たちが読者だったことになり、彼らは台所においてこの書籍を参考にしながら主人のために珍しい料理のために腕を振るったことであろう。料理人は主人の好みに合わせて、あるいは主人を飽きさせないように100種類のレシピの中から選んで自在に料理を作ったはずである。

それに対して『鯛百珍料理秘密箱』が文人趣味に裏付けされた観念的な料理書であったとするのであれば、ここに収められているレシピは実際に料理されることで贅沢のために消費されたというよりは、むしろ珍しい読み物として知的に消費されたと考えられるだろう。

実際に先行して人気を博していた『豆腐百珍』は、そうした文人による軽妙さや、同一素材を様々に扱うというコンセプトが当時の文化人たちにウケていたのである。確かに『豆腐百珍』は料理書としても優れてはいたが、単なる料理書だとしたら後世に残る名著として認められることはなかっただろう。
器土堂主人の著作にも文化的な要素と、時代の求めるエッセンスのようなものがあり、それが人々を引きつけたのである。当時の文化人たちはそうしたセンスに惹かれて、この本を手に取ったのではないだろうか。


天明年間の飢餓時の読書


先に述べたように天明年間には「天明の大飢饉」が起こり、多くの人々が飢餓のために命を落としている。東北地方での飢餓状態は特に甚だしく、特に多くの死者を出しているが、こうした食糧の不安定さは、この地域だけに限られていたのではない。飢饉によって米価が不安定になり、全国的に食料としての米が不足し、貧民層による不満が爆発して打ちこわしが各地で発生していたのである。

こうした食の不安定さのなかで『鯛百珍料理秘密箱』がどのように読まれていたのかは先に述べた二つの観点によって大きく分かれることになる。もし鯛を贅沢に食べるための実践的な料理本としてこの本が求められたのであれば、必然的に読者層はかなりの富裕層に限られたものとなっただろう。そうであれば飢餓の天明年間に『鯛百珍料理秘密箱』はそこまで売れなかったに違いない。ごくごく一部の好事家だけのものとして、富裕層だけの楽しみを満たすことになったはずだからである。

しかし『鯛百珍料理秘密箱』が、センスの良い文人趣味を反映した本として捉えられていたならばどうだろうか。天明年間の食の不安定さと米価高という問題や、自然災害(浅間山噴火)や疫病といった不安な社会情勢のなかで、知的な娯楽のようなものを求める人々によって読まれるものとなったに違いない。そのような読まれ方がなされた場合は、必ずしもそこに掲載されているレシピは料理として具現化される必要は無く、むしろ観念のなかでそうした料理のありかたを楽しむというような感覚だけでも楽しまれていたと考えられる。

しかし料理本というものは、本に記載されたレシピで料理されたものがつくられて食べることにこそ意味があると考える人もいるかもしれない。なので料理を観念で楽しむという感覚がどのようなものかを旅行を例えにして説明しておくことにしたい。
人は誰しも皆が実際に様々な場所に旅行に行けるわけではないが、世界の絶景や世界遺産の写真集を見ること、探検家や冒険者あるいは登山家などの旅行記を読むことで、実際の旅の感覚や経験と同じものを体験できる。江戸時代には、メニューを読む、あるいはレシピを読むというのは、まさにこのような感覚に近いものがあったと考えられる。誰もが鯛のような高価な魚を買って100種類もの料理で楽しむことなど出来なかったはずだからである。

『豆腐百珍』や『鯛百珍料理秘密箱』が出版されてから約40年後、1822年(文政5年)に八百善が『江戸流行料理通』を出版することになる。この本は八百膳で出される料理の献立を記載したものであるが、それだけでなく当時一流の文人だった太田南畝と亀田鵬斎が序文を書き、画家の酒井抱一谷文晁葛飾北斎らが挿画を描くという超豪華なラインナップになっており、料理本としての枠を超えた総合カルチャー本の様相を呈している。こうした文化的な書籍が後に成立するようになる嚆矢として、『豆腐百珍』や『鯛百珍料理秘密箱』は、『江戸流行料理通』の成立に影響を与えたであろうことは言うまでも無い。

『料理通』八百善四代目 栗山善四郎 著


わたしは『美味求真』を拠り所としてその注釈としてこのような記事を書いているが、ここでは流行りの料理屋、流行りの料理店について書くことは無い。その理由は、このサイトは「観念上の美味」を語ることを目的としており、肉体的な味覚を満足させるためのものではないからである。このサイトの趣旨は知的かつ文化に基づいた味覚の追求を行うことであるので、もしそのような流行りの料理屋、流行りの料理店についてだけ書くのであれば、サイトに掲載する情報の価値(Value)は消費されるだけの情報となってしまうことだろう。

江戸時代(天明年間)に出版された百珍物の書籍というのは、それと同じく「観念上の美味」を語るものとして通の読者に読まれていたのかもしれない。それ故に、天明年間という飢餓や食糧の不安定な時代にあってもこの本は売れ続けたのだと考えられるし、発売から10年後の1795年(寛政7年)になって再版されることになったのはこうした理由があったからだとも考えられる。


『鯛百珍料理秘密箱』のレシピ分析


実際に『鯛百珍料理秘密箱』にどのようなレシピが掲載されていたのかを明らかにすると共に、その料理の内容を分析してみることにしたい。


着色の料理法


『鯛百珍料理秘密箱』には鯛に着色する料理方法が20回も載されている。鯛に着色しても味付けとは関係ないので、これは見栄えを良くするためだけの方法でしかない。

着色

着色法説明の比率


着色は赤色(紅色)、黄色(山吹色、黄金色)、青色、みどり色、黒色と様々であるが、主に染め色として用いられているのは赤色(紅色)である。こうした着色を行った目的は、最初は鯛の持っている赤色を強調することだったと思われる。しかしやがてこれに「遊び」の要素が含まれるようになり、自然には含まれていない、多くの色に染められるようになったのだろう。

ただ美味求真という観点からみると、鯛に着色することは味には無関係なことであり、料理を過度に飾ろうとしているだけのNG行為であると言える。しかも青色や緑色に鯛の身を染めることは、現代では悪趣味であるとしか受けとれない調理法である。こうした料理の本質とは関係のない分野で、熱心な取り組みが飢饉のさなかに行われていたとするならば、これは料理素材へのアプローチそのものへの大きな問題であると言えるだろう。


卓袱料理の影響


『鯛百珍料理秘密箱』の料理の提供方法には、大皿や大鉢が用いられており卓袱料理の影響があることが分かる。また基本的に長崎の名前が料理に付けられている場合は卓袱料理に基づいたレシピである。これは江戸時代に長崎の出島でのみ国際貿易が行われており、ここに入ってきた中国料理やポルトガル料理の影響を受けて、卓袱料理が誕生したことに基づいている。
『鯛百珍料理秘密箱』には、実際に数えてみると20種類の卓袱料理が含まれている。また料理の中には各地の地名が付けられた料理が掲載されているが、その中でも長崎の名前が付けられた料理は全体の1/3を占めている。

卓袱料理の影響

地名入り料理の比率


『鯛百珍料理秘密箱』の著者であるとされている器土堂主人は、長崎で料理を学んだ料理人であるとする説もあるが、『鯛百珍料理秘密箱』に収められている料理の多くが卓袱料理の影響を受けたものであることからも、そのように考えられるようになったのだろう。

卓袱料理の特徴としては、油で揚げるという手法が良く用いられていることである。ただ油で揚げるだけでなく、それをさらに厚い味付けされた汁で煮込むような手の込んだことが行われており、これも卓袱料理の特徴であるとも言える。


油で揚げた料理


卓袱料理の特徴に油で揚げる料理過程があると述べたが、こうした卓袱料理の影響を受けて、江戸時代になって油で揚げる料理が広く行われるようになった。天麩羅はまさにそうした料理のひとつであり、この時代から始められた最新料理方法であった。『鯛百珍料理秘密箱』には11種類の油で揚げる調理法が案内されている。

現代の天ぷらとほぼ同じ調理法が詳細に書かれている文献は、1671年(寛文11年)に出版された『料理献立抄』である。『鯛百珍料理秘密箱』はその14年後の出版であるので、やはり天麩羅はこの当時はまだ新しい料理だったということになる。『鯛百珍料理秘密箱』にも「てんふら」の名前が付けられたレシピが含まれており、最新料理法に基づいた鯛料理が紹介されている。


最新料理の数々


このように素材に色づけする、卓袱料理の影響がある、さらに油で揚げた料理というように、今までにない最新の技法や調理方法が『鯛百珍料理秘密箱』には満載なのである。

料理内容の内訳

料理内容の内訳


こうした最新の技法や調理方法の例は、卵の使用にも見ることが出来る。かつての日本人は鶏肉や卵を積極的に食べてはいなかったが、江戸時代になってから料理に多く用いられるようになっていった。『鯛百珍料理秘密箱』と同じ時期に出版された『萬寶料理秘密箱』は別名『卵百珍』とも呼ばれ、数多くの卵料理のレシピが収録された本である。新しい卵という素材を様々に調理するという方法は、斬新な料理として人々を驚かせたことだろう。
『鯛百珍料理秘密箱』では鯛料理のレシピの中でうまく卵も使いこなしている。焼くときに表面に白身を塗って照りを出したり、衣に混ぜたり、着色に使ったりと様々で、全部で20種類の卵を使うレシピが記載されている。これも最新の料理レシピが記載されている事の証として挙げることが出来るだろう。

現代ではスペインのフェラン・アドリア(Ferran Adrià)や、イギリスのヘストン・ブルメンタール(Heston Blumenthal)が、ひと頃「分子ガストロノミー」を提唱しエスプーマなどを使った新しい調理方法を推進していたが、江戸時代における『鯛百珍料理秘密箱』も、これと同じように今まで食べた事もないような最新の調理方法が書かれた本として江戸時代の人々には大きな驚きをもって迎えられたに違いない。

以下、103種類の鯛料理のレシピを現代語訳にしたので掲載しておく。



『鯛百珍料理秘密箱』上巻



1. 紅粉鯛

鯛を三枚におろして、よく洗い、皮をとって血骨を除いて作取りをしておく。刺身であれば煮え湯に入れて、すぐに引き上げてから燕脂(ゑんじ)に漬ければ良く色が付く。
さしみ、小皿もの、提重には、切って重ねた上に焼き塩を振りかけておけば、非常に美しい。紅は塩気があると色が悪くなってしまうが、塩をよく洗って、皮に少し紅を塗ると良い。紅カレイ、紅鱸、紅キスゴやマナガツオも同様の方法で色を付ける。
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2. 浅黄鯛

黒豆を二合ほど、汁が黒くなるまで炊いておき、鯛は良く染まるようにうす塩を振っておく。これを煮え湯に漬けてから直ぐに引き上げ、黒豆の汁に漬ける。料理への使い方は、さしみ、小皿もの、提重など、料理人のそれぞれの調理方法にまかせて行っても良い。
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3. 山吹鯛

さしみにする調理法である。くちなしを煎じた汁に漬け、また卵の黄身を塗って弱火で炙っても良い。ただこの方法は焦げないように火加減に注意しなければならない。これを、切り重ねにして、さしみ、平皿、茶碗もの、菓子椀、取肴、台引きなど様々な料理に用いる。


4. かきもち鯛

鯛の皮を取り去り、幅は1.5cm,長さは6cmほどに切ったものに塩を振り、しばらく置いてから水で洗い、葛粉をまな板の上に振って、鯛にも両面に葛を振り、スリコギで優しく満遍なく薄くなるまで叩いてから、風に当てて乾かしてから、薄刃庖丁でかき餅のように切って、助炭に入れておく。提供の仕方は、取肴、台引き、大硯蓋に飾るなど、どのような方法でも映えるので見事なものとなる。


5. せんべい鯛

鯛は皮を除いて、少し濃いめに塩をしておき、3cm四方に切ってから、葛を振り、優しく叩いて薄く平たくなるようにしてから蒸籠に藁を敷いて蒸す。
それから蒸したものを、乾かし、少し焼いてから形を整えて重石をかけてから、はしげやに入れておく。提供の仕方は、取肴、台引きなどであるが、特に大硯蓋に飾る方法が一段と良い。


6. みどり鯛

塩をして身を二枚におろし縦に切る。取肴の場合は4.5cmぐらい、また台引の場合は7.5cmぐらいに切る。魚の端の部分も見合うように四角に切って、細い串に刺して、焦げないように火取して卵の白身を塗りる。
また葛を振りかけ、甑(こしき)に藁を敷き、その上に並べて蒸す。これを歪まないようにして助炭に入れて水分を飛ばせば、本当に干菓子ような緑のようになる。供するのはどのような方法であっても良い。


7. 長崎ふくみ鯛

鯛は大きいものであっても小さいものであっても鱗をよく取り、腹は開けずに、そのまま塩をたくさん振ってしばらくおき、塩が効いてきた頃に、エラから細長い包丁で背骨の際から切入れて内臓を抜き、三つ骨の所を6cmほど空けて、小刀で背骨を尾まで空くようにする。裏も表も両方同じように処理してから、身には小刀があたらないようにし骨をひとつづつ切り取り、尾の方の骨は上から指で折る。頭の方の骨は庖丁を入れて切る。小骨は小刀で切り取り、よく水で洗っておく。
腹に入れる具は、焼栗、はり生姜、いり豆、青豆、その他は料理人の思いつくものを入れて、これらのものを白味噌に混ぜて、鯛の背から腹の中に入れ、味噌もつめて背の切り口には葛と小麦粉を半々に混ぜたものを振りかけておき、大きな竹の皮で包んで、尾が折れないようにして藁でも括って蒸籠に入れて良く蒸す。
出す時には竹の皮を取って、鯛を鉢に入れてそのまま供する。背中の合わせ目は見せないようにして、口から入れたように見えるようにする。卓袱料理として供してもよい。また大平、長なえ物、汁にしても良い。


8. 長崎やわり煮鯛

鯛は大きいものであっても小さいものであっても腹を開けずに、よく鱗を取り、エラも取る。またエラからはらわたを取り出し、水でよく洗って水気をきっておく。それから油で揚げてから、また酒でよく煮て、後から醤油をさすと、大骨、小骨も綿のようになる。火薬は、にんにくかネギの白根かを入れる。またコショウを割って振りかける。頭の部分も綿のように煮ると、一段と風味が良くなる。


9. 鯛の青淵汁とろろじる

鯛の身を少し炙り、すり身にしたものを酒で伸ばし、宇多芋をよくすり合わせてから、たれ味噌で溶き合わせる。そうすると仕上がりは普通のとろろ汁のようになる。火薬の類は、針栗、生姜、青苔の粉またはコショウの粉。これらを小皿に入れて出す。この作り方であれば少しも生臭さがない。


10. 鯛の古実こじつの料理

土筆の入った鯛を野煎りという。
かだ海苔の入った鯛を、藻塩煎りという。
芹の入った鯛を磯煎りという。
もっともこれらは古実である。


11. 鯛の紅焼べにやき

焼きもの小鯛や、また塩焼き物にする大鯛を、鉢か大硯蓋で調理して出すような場合には紅焼きにして出すと良い。あしらい物はとう菜の茎か、うどの味噌煮か、青唐辛子の粕漬か、百合根か蓮根の酢煎か、せんたく茄子か、いずれであってもその季節のもので思いついたものを、鯛の頭の部分から腹の方に置いて肴として出す。
この焼き方は、大鯛であっても、小鯛であっても、しばらく塩によくなじませておき、塩がよく染みた頃に、塩をよく水で洗い、よく乾かしておく。
焼火鉢にたくさんの火をおこしておき、大きな鯛であれば、湿気のない庭を大きく掘り、その中で火を沢山起こしておく。
鯛を竹串に刺しておく。串は90cm程の竹を割ってつくり、串の前後を細く削って尖らせておく。この串を鯛の身の下の部分から、目から尾まで鯛をたわめてるようにして刺す。この串を火の上へ少し傾けて地面の淵に深く刺す。大鯛であれば、火から鯛の体を66cm~70cm空けて焼く。
少し赤みがついて焼けてきた時に、上等な酒に白砂糖を少し混ぜたものを、新しい荒神箒で塗って焼く。3,4度も塗って焼くと、鯛は紅色になる。この間に鯛の身の中によく火も通る。焼き上がってから、ゆっくりと熱いうちに串を抜く。小鯛でも同じように酒を塗って焼く。それが名酒であれば尚良い。また糸よりであってもこれと同じように調理する。


12. 巻鯛

鯛の皮を取り、身を二枚におろして裏表ともに塩をよく振り、これを板に押し付け、小石を重石として置く。これを取り出して水で洗い、布巾でよく拭いてから、少し日に当てて、鯛の身に卵の白身を塗り、葛に饅頭の粉を半々にして混ぜ、卵の白身を塗った鯛の上に少し振りかけてくるくると巻く。巻く時には、ぎっしりと丸めてから竹の皮で巻き、その上から藁でくるくると括って蒸す。
ただし、台引に使うのであれば、鯛の身は少し厚くして巻く。また提重ものや取肴の場合は薄く切って巻くようにする。平皿物であれば、それに見合った厚みにする。
何に使うにせよ、小口切りにして、切り口には少し酒を塗って、焼色のつかないように火で加熱すると切り口は綺麗(清潔)になる。供する方法は、刺身切り重ねにする、取肴もの、台引もの、寄せ焼き物。また吸い物にするには二切れを入れる。本汁も同様に二切れを入れる。これらは御大名料理であり、お望み次第で工夫しても良い。


13. 黄金鯛

この調理方法と提供方法は山吹鯛と同じである。料理人の心にまかせるべし。


14. るりやき鯛

これは調理方法、提供方法とも、山吹鯛と同じであるが、くちなしの煎じ加減、または火取の仕方が少し異なる。とにかく焦げないようにすることが第一である。また卵の黄身を塗るにしても全体にまんべんなく塗って火で炙るようにする。切り重ねにして刺身にすると美しく、供し方は同じである。


15. 花見鯛

これは紅の汁を少しこしらえ置く。さて、鯛は打ち鯛の通りにして(注:煎餅鯛のことを意味していると思われます)叩く時に、紅汁を少しずつ打ちかけて、さて、湯葉と浅草とをこまごまにして振りかけ、打ち付ける。これを蒸篭で蒸して水で冷まし、取り上げて風に吹かせて乾かすと良い。使い方は、刺身の類、小皿物にはこれの冷ました物を使う。また、菓子椀、茶碗の類には蒸しながら使う。


16. 五色ごしき

鯛の片身を三枚におろす。染め色は、白はそのままでよく。赤は紅鯛の方法。黄はくちなしの汁で染め、青は大根の葉か、菜の葉を細かくし切ってその汁を絞って鯛を漬けておく、黒は黒豆の汁に鍋炭をあわせた汁に漬ける、これに酒を少し入れても良い。さて白身をまずは広げて、その上に葛粉をふりかけ、卵の白身を塗って段々に重ねる。さらに葛粉をふりかけ、同じように卵の白身を塗り、一枚ずつ重ねて、五色合わせて竹の皮で巻いて締めて、布で包んで甑で蒸し上げから取り出して水で冷ます。切り方は供仕方次第である。
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17. 三色鯛

これは五色鯛と同じ仕方である。染汁は好みにまかせるべし。


18. 横雲鯛

これも五色鯛と仕方は同じ。ただし、身はうすく切る。染汁は三色でも五色でも好みで良い。


19. 紅葉鯛

鯛を三枚におろし、皮を取り去ってお造りにする。生湯葉か、卵の薄焼きかを適当に切って鯛と良く混ぜる。これに紅粉を固めに溶いたものを、ところどころまだらに流し、その上に葛をふりかけ、また卵を割ったままで同じく流し入れ、薄い器に布を敷き、これをよく混ぜ合わせて蒸す。ただし、刺身、台引の類はこれを冷まして切って使う。また、品によっては蒸しながら切るのも良い。


20. 糸作り鯛

鯛を三枚におろし、塩水にしばらく漬け、よくかき回しておく。取り出してから乾かして、薄く削いで、平めに切り、紙の上に広げて、水と、酒と、塩とを少しずつ打ち、しばらくして水で洗ったものを、また風にあてて少し乾かしてから糸作りにする。これは素麺のようにも作る。
刺身の類は、水で冷やして、小皿に盛るかまたは蒸しても良い。あるいは糸作りにしてから染めても良い。


21. 薄身伝

鯛を三枚におろし、薄身ばかりを取って、他の身は使わない。これは古実である。この吸い物、並びに刺身などは上々様のお料理として供されている。


22. 小附鯛

鯛を三枚におろす。
塩湯に酒を入れたものに鯛の卵を入れて煮る。水で冷まして、布で絞り、すぐに助煖(はしゃげ)に入れて乾燥させ、しばらくして、温めた酒に漬け、また布で絞る。
魚を薄く造り、これに卵を混ぜて使う。この卵は色が赤くなる。


23. 洗い鯛

これも鯛を刺身につくり、それを直ぐに水に入れて、4,5回水を替えて、井戸に釣り下して冷やしておく。これはずいぶんと薄く作ると、身がはぜて縮んでしまう。


24. 嶋鯛

これも三枚におろし、薄塩をして水で洗い、しばらく乾かしてから、血合いを捨てて縦に切って筋を入れ、この筋に葛粉を振りかけて卵の汁を流し入れる。染め汁は五色鯛の通りである。しかし青は、青どりの粉にすり身を入れる。色はいずれも工夫次第である。竹の皮に包んで巻き絞めて蒸す。供しかたは先に説明した五色鯛と同じである。硯蓋に盛ると美しい。


25. 鯛麪たいめん

中鯛であっても大鯛でも、鱗を取り去りエラを取って腹をあけて臓物を取り出して、水でよく洗ってから水気を切る。この鯛の両身と腹の内側に酒を塗ってから焼く。酒が行き渡って色がついた頃に、今度は鯛にごま油を塗って、裏表から串で突き、この穴から油が染みわたるように焼く。ただし、火が強いと魚が焦げて悪くなるので、よく気を付けて焼くようにする。焼いてからしばらく外に取りおいて風にさらしておいておく。
鍋に出汁醤油を辛めにして熱したもので、そうめんを長いまま茹でる。、それを先の鯛の頭から尾まで幾重も巻き付けて、先に作った出汁醤油で煮る。
火薬は、三つ葉の軸、新菊、シイタケの千切り、いりこを醤油で味付けして千切りにしたもの、平焼き麩の千切り、焼き栗の大きめの千切り、その類を鯛の腹へ入れて、薄焼き卵の千切りを出す時に鯛の上にかけて出す。
また、別途小皿に糸切り唐辛子、練り胡椒、にんにくの細切れか葱の白根を細切りにしたのを入れる。小汁に煎り酒か、南蛮酢か、一色入れて出す。また別に辛み大根のおろし汁を小汁の次に出す。このあたりは、時節によって見合ったものにすべきである。


26. 塩やき鯛

これは良く知られた料理である。鯛をよく洗ってから塩を振り、しばらくして水でまた洗い、焼き塩をふってから、遠火で焼く。焼き塩を使わないと、白くはならない。


27. 水煮鯛

鯛をよく洗って、大鍋に水を入れて、酒を三分一ほど入れて煮る。魚がずぶっと漬かるほど鍋には水を入れ、かなり弱火でゆっくり煮る方が良い。夏なら水で冷まし、大鉢に水をためて出す。かけ汁は猪口にワサビ醤油が合う。冬であれば、湯をためそこに極上の葛粉を入れ、少し粘りを出した方が良い。現在、湯鯛と言われているものはこれが始まりである。


28. 南蛮漬

鯛を三枚におろし、しばらく塩をしてから良く水で洗い、日干ししてから、小才切にし、生姜の汁に漬けておく。これを行うのは寒中が良い。一夜漬けして、翌日また日干しして、少し温まってきた頃に古酒か甘酒に漬ける。
これを一夜漬けにして、煎り酒で出す。この煎り酒は、鰹節を7g~8g、大梅干しを7つ入れ、酒一桝を三合に煮詰めたものである。この煎り酒の中に布袋に入れた橄欖(カンラン)と、魚と一緒に漬けておく。およそ三日三晩ほどつけてから使う。


29. はぶし鯛

鯛の鱗を取って良く洗い、水気を切ってから、古酒を塗って火にかける。その後、胡麻油も塗って火で炙る。こうして酒と油を塗って焼くことを三回繰り返す。この時に串で刺してところどころ穴をあけておくと良い。
しっかりと焼けたならば、水をかけて火で乾かし、それから紅を塗って遠火にかける。もっとも珍味である。


30. 切重盛鯛

これも三枚におろし、良く洗い、しばらく風で乾かしておく。血合いを取って、大ぶりに作り、平皿に3~4枚を切り重ねたものを板に乗せて、蒸籠で蒸す。それを刺身として出す場合には、蒸した物を取り出して、紅汁か、黄か、青かをかけてから、しばらく冷まし、水でちょっと洗ってから直ぐに盛り付ければ一段と美しく仕上がる。


31. 生造いけづくり


大鯛、中鯛ともに、鱗を取らずにエラだけを取ってよく洗う。上身の背に 包丁を入れ、エラの際から尾の方まで鱗ごと皮を引きはがす。しかし、腹からエラの所、また尾までは、鱗付の皮を切り離さずに付けておく。中の身の分部を梳き取り、腹の臓物も取ってからよく洗う。上身の中骨が見えるように片身だけを梳き、梳き取った身の方は捨てる。
別の鯛の身をお造りにして、上身の骨の上に切り重ねて並べる。腸のところには柚子、橙などの中身をくりぬいて、その中に酢味噌を入れて蓋をする等、何らかのあしらい物を付けて傍に置く。
先ほどの鱗付の皮をもとのように着せて、尾の所を水引で括り、生の掛鯛のように糸で掛ける。
この生け造りは片身だけで行う。両身とも料理で供する場合は、下側の身の部分に塩をして焼いておく。この際には鱗付の皮が損なわれないよう、布巾を濡らしたもので包んで焼くこと。


32. 三道具みつどうぐ

鱗を取り、腹を開けて臓物を出し、良く洗って、切るときには下腹のひれから、上身の方へ丸めに切る。さらにここから両側のヒレを切り取る。また尾際より背びれまでの間を切り取り、これで尾側の身とヒレ側の身のセットになる。鯛の頭を前に直す。これを塩蒸しにして、身を小才切りにして器に入れて出す。
料理の時には鯛の背から鋤鍬(三つ道具)を出し、洗って取り分けておくと、いろいろなまじないになるので保管しておく。
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33. 白瑠璃鯛


鯛を三枚におろし、少し塩をして、水で洗う。これを適当に切ってから細い丸串にさし、卵の白身を溶いたものを鯛の表面に塗って焦げないように火で炙る。供しかたはどのような方法でも良い。


34. 紅るり鯛


白瑠璃鯛と同じであるが、違いは生臙脂(ゑんじ)を生ぬるい湯で絞りだし、酒を少し入れて、卵の白身を溶きあわせたものを鯛に塗って炙るところである。他は白瑠璃鯛の調理方法と同じである。


35. 紅かまぼこ


鯛を下ろし、小骨を良く取り除いてから、身をすり鉢で摺る。塩は見合った分量を入れ、海苔のようになるまで摺り、そこに生臙脂を溶いて入れる。板に付けて、板の裏から遠火でゆっくりと焼き、次に周りを焦げないように火で炙ってから蒸す。あまり蒸しすぎると、傷つき、破れるので注意する。供する方法はいかようにしても良い。


36. 利休かまぼこ


これも紅かまぼこと同じである。ただし摺った鯛の身を白板に山高に盛って、上に黒ごまをたくさんに振りかけてから上皮を火で炙ってから、蒸すようにする。


37. 栗子蒲鉾


鯛を良く摺っておく。また鯛の卵を塩で一度茹で、水で洗ってほどいておき、布に入れてよく水気を絞っておいてから、鯛のすり身の中に沢山入れる。板に付けて周りから一度焼く。ただし、細い竹串6,7本で上や横からも突いておかないと、皮がふくれあがって破れてしまう。これを蒸してから切ると、鯛の子の色が出て粟のように一段と美しくなる。


38. 沖煮おきに


鍋に水を沢山入れ、そこに三分の一ほどの酒を加える。新しい鯛を、鱗もエラも腸もそのままにして常温から鍋に入れて煮る。
煮あがったなら、一旦鍋の水を空にしてからまた水を差して、ぬるま湯になった時に、鯛の鱗を箸でこそげ取ると、鱗はよく取れる。エラと腸はそのまま残しておく。この中にすぐさま醤油を入れて食べる。これは船中で船子の食べる料理であり、風味が一段良いものである。


39. 南京煮


中鯛の鱗、エラ、腸をよく取って一時間ほど水に漬け、水気を無くしてから上等の酒を二回ほど塗って遠火で焼く。また火にかけてからも一度酒を塗り焦げないようにして焼く。途中で油も三回ほど塗る。また、腹の中へも油を塗って焼くようにする。
鍋に昆布を一枚敷き、この焼いた鯛を入る。この鍋に、醤油杯1杯、水1杯、酒杯1杯の3つを注いで炭火で煮る。
煮あがった鯛を南京の大鉢に入れ、その上から自然薯をよく擦って、自然薯で鯛が見えなくなるまで入れる。中皿に火薬を準備する。火薬は陳皮の細切れ、にんにくの細切り、コショウの粉、おろし大根、とうがらしなどである。これは卓袱物、大鉢物と呼ばれる美味な料理である。


40. 長崎鯛麪


鯛に油を塗り、焼いて、長いそうめんを茹でて、鯛の頭から尾まで巻き付ける。鍋底に春菊か三つ葉を敷き、鯛を入れ、しいたけの千切り、薄焼き卵の千糸切り、大根六角に切ったものの薄切り、金子(ナマコの乾燥品)の小口切り、花かつお、焼き栗の小口切り、むしり鳥、この他に何でも見合った物を入れる。だし醤油に酒三分の一を合わせて煮る。少し甘めにして良く煮て提供する。前の鯛麺とは少し違っている。


41. 長崎シウベイ


鯛を二枚におろし角切りにする。饅頭の粉を酒で溶き黒ごまを入れたものに、角切りにした魚を混ぜて胡麻油で揚げる。また白餅を角切りにして、揚げてから少し炙って焦がしおき、熱湯に漬けておく。
だし汁を準備し、ごま油で揚げた先ほどの魚を、だし汁で煮なおし、取り出してから、その中へアヒルの卵を割り溶いて入れ、出すときに揚げた鯛と、揚げ餅とに、この卵を汁と一緒にかけて出す。上におろし大根を置いて出す。冬なら、柚子を絞ってかけて出す。長崎では大根が少ないので珍物である。


42. 利休ほうろく煮


鯛を三枚におろし、血合いの骨を取り、皮を取り、1cmぐらいの細さで小口切りにして、しばらく水に漬けておく。焙烙を火にかけ、昆布だしを入れて、酒を入れて煮返しておく。白豆腐一丁を、およそ60ぐらいに小才切りにして、先ほどの汁のなかに入れ蓋をして煮る。煮あがった時に、蓋を取ってからまたしばらく煮て、漬け置きしていた鯛を水から取り出し、この中へ入れて煮る。秋の頃ならば、松茸を割いて入れる。または初茸かシメジを入れて、蓋を取って炊く。
これには上等の葛を引くこと。また、榧(かや)の千切りをふりかけ、小皿にねり青辛子を入れて、この焙烙に添えて出す。


43. 小倉蒸おぐらむし


小鯛あるいは中鯛の鱗を取り、エラ、腸を取り除く。下身の背から包丁を入れ、大骨と薄身の小骨を取る。はら両身ともに、塩沢山をして、しばらく押しつけておき、塩が行き渡った頃に、水でよく洗い、腸の内側をよく拭いて水気を切っておく。
上等の白みそをよく擦って、これに酒を加えてゆるめておく。
小豆の大粒の物をよく煮て、この味噌の中に入れ、これを鯛のエラや尾の最後の方までよく詰め、背びれのところに葛をふりかけ、竹の皮で堅く包み細い紐でくくって蒸籠に入れて蒸す。蒸しあがったら包んだ皮を取り、尾も頭も壊さないようにして大鉢に盛りつける。


44. かき鯛蒸し


小倉蒸鯛のように鯛を洗い、図のように薄く切る。俎板の向かい側の角に、図のように鯛の薄造りにした刺身を、三映(三枚ずつ)に山なりに重ね、杉板に付けて蒸籠に入れて蒸す。
菓子椀、茶碗、大平、吸い物においてもこのまま三枚ずつ山なりに重ねたものを入れる。他の具は入れずに、菓子椀、平皿には葛をかけ、茶碗物には、しき鼓、梅にん鼓、山椒鼓、生姜鼓、こしあん鼓の類をかけても、あるいは敷き味噌にしても良い。吸い物には、糂粏味噌、赤味噌、たれ味噌、澄まし汁の類が良い。


45. 鯛鰊鯑醬かずのこあえ


鯛を三枚におろし、一日ほど塩をしておく。数の子の塩漬けを良く水で洗い、良く絞ってバラバラにほどき、粒辛子ぐらいにする。
鯛は細く横造りにし、長さ3cmぐらいに切る。
酒1杯、醤油1杯、酢1杯、この3つを煮返してから、良く冷まし、塩を少し入れ、細切りにした鯛を入れて、良く汁にしみこませ、汁を切ってから、おろしわさびを数の子にまぶしたものを鯛にかけて、これらをよくよくかき混ぜて出す。ただし、数の子をバラバラにしたものに煎り酒を少し混ぜるとなお良い。


46. 蠟醬ろうあへ

これはカラスミ(ボラの卵巣)で鯛を和える料理である。
カラスミの上皮を剥いで、わさびおろしでおろせば、カラスミはバラバラになる。これを鰊鯑醬(かずのこあえ)のように鯛に混ぜて和える。肴物や大鉢物、小皿物、手取り肴、猪口ものだと一段と良い。



『鯛百珍料理秘密箱』下巻



47. 長崎糟煮鯛


中鯛の鱗、エラ、腸を良く取ってから一夜塩押をして、翌日水で洗い、水気を切る。これを酒粕に二日ほど漬け、よく押し付けおいてから取り出し、これを水で洗って鍋に平昆布を敷いて焦げないようにし、酒を沢山に入れて煮る。酒の煮汁がなくなった時に出汁を入れる。
他の鍋で酒粕を良くすりほどき、水をひたひたに入れて煮返しをしておく。
鯛を南京の大鉢に入れて、煮返しておいた酒粕と、青のり粉、ごまを沢山かけて出す。外の火薬はコショウの粉だけを折紙包みにして小皿で出す。


48. 長崎後藤流漬鯛


これも、鱗、エラ、腸をよく取って、水でよく洗い、水気を切る。糠味噌にネギの白根をみじん切りを混ぜて、一夜前から鯛の腹にその糠味噌を詰め、入れ子に蓋をして漬けておく。さて、翌日使う時に取り出して水でよく洗い、しばらく乾かしてから遠火にかけて油を塗って焼く。
焼きあがった鯛を今後は鍋に入れて、酒でよく煮てから水を入れて一度洗い、また水を入れてから煮る。火薬、汁は前と同じ。


49. 長崎甘露煮


中鯛をよく洗っておく。 かつお、醤油、酒を等分を合わせて、炭火でしっかり煮る。弱火にして煮汁がゆるくトロッとなったものを、鯛の上から沢山かけて蓋をし、しばらくしてからこれを大鉢に入れて出す。
火薬はおろし大根、練り胡椒、陳皮を細切れにしたもの。本来は唐辛子の粉を入れる料理であるが、この粉末があまりにも高価なので、その代わりとして飴を使う。


50. 長崎てんふら

鯛を三枚におろし、見合うように切っておく。
うどん粉に薏苡仁の粉を半分入れ、黒ごまを入れたものに、切った鯛を入れてかき回して、油で揚げる。これが後藤流天麩羅である。
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51. 長崎鎧煮


小鯛あるいは中鯛の鱗を取り、丸洗いにしておく。この鯛をさばいてその身を1.5cmほどづつ小口切りにし、しばらく塩をしておいてから水でよく洗う。
うどん粉に米粉を三分の一ほど混ぜ、卵1つを入れて水で溶いたものに、切っておいた鯛を入れて混ぜる。これを胡麻油でよく揚げる。昆布出汁に醤油を入れたもので揚げた鯛を煮て、出す時にコショウの粉をかけて出す。少し辛めにした酢を小徳利に入れて一緒に出す。


52. 利休そぼろ煮


鯛を三枚におろして、薄身の分部を切り取り、皮を取り除いた身の分部を、酒袋に入れて俎板上で何度も打ちつけると、中の身がバラバラになるので、それを取り出して、これに熱湯を入れて、先ほどの身を再び入れてかき回してから、この酒袋を煮だし籠に入れて、水を1,2度かけておく。
味付けは豆鼓でも、醤油でも、または薄葛、赤味噌汁でも後藤味みそでもよい。具、火薬も何でも良い。いろいろな合わせ方がある。


53. 小笠原流煮鯛

鯛を三枚におろし、薄身を捨てて、四角になるように切る。
煮え湯に上等の葛をひとつ入れ、この中へさきほどの鯛の切身を入れて、すぐに引き上げておく。 こうした処理をしておくと、味噌汁、吸い物、何にしても良く、後は普通通りに煮ることが出来る。
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54. なる戸煮


中鯛の鱗、エラ、腸をよく取り除いて、水でよく洗い、塩水にしばらく漬けておいてから、取り出してまた水で洗っておく。
鍋に水と酒を等分に入れてこの鯛を煮る。
大鉢に湯を入れ、そこに焼き塩を少し加え、煮ておいた鯛を入れて出す。火薬は、おろし大根、唐辛子の粉を小皿に入れて出す。汁は生醤油に水を少し混ぜてから火を1,2回入れ、焼き醤油にして出す。


55. 吹上鯛


これも中鯛の鱗を取り、腹の臓物を出して、6時間ほど塩をしておいてから、その後に水にて洗い、蒸篭に藁を敷いて蒸す。この時に酒を少し振りかけておくと良い。
蒸した鯛を取り出して、平鉢か、大硯蓋に入れ、鯛の上に、生の海松みる(海藻)をパラリと散らし、猪口には煎醤油を入れておく。また他の猪口にも煎り酒を入れ、おろしわさびを傍に沢山付けて出す。生の海松を上に散らすことは、磯臭いのを賞玩するためで、定家料理に基づいた料理法である。


56. 浜焼鯛


これは浜でする料理である。鯛のエラ、腸を手で取り出し、そのまま水で洗い、塩を沢山振り、鱗、臓物はそのままにして、塩俵1枚を取り寄せ、塩でこの鯛を包んで、強火で燃える片脇へ放り込んで焼く。
また漁師や船頭などの調理方法に、鯛を取って浜へもっていき、石を火盾にして、浜辺の芥(ごみ)を燃やし、その中へ鯛を入れて焼く方法があるが、これだと少しも煙臭さがない。火盾の石は、魚を立てかける為のものである。最後に皮をこそげとって、鱗を取り除いて食べると塩加減が大変良い。


57. 山焼鯛

播州の布賀という浜辺の名物。
大鯛、小鯛ともに鱗を取り、エラから腹の臓物を取り出して、水でよく洗い、鯛の真ん中を二つに切って、しばらく塩にまぶしておいてから、水で洗い、はまぐりを煮だした汁で鯛を煮る。 出す時には、生醤油に生姜の絞り汁をかけて出す。家内で使う時は、ハマグリの中に鯛を入れて食する。 この地の神事では鯛を焼き物にする。この料理は妻鹿の名物である。この浜には漁師が多く、魚が沢山獲れるところである。 はまぐりの汁で煮ることや、丼に鯛の頭と尾を分けることには、布賀明神に謂れがあるとされている。
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58. 伊予干焼いよほしやき


小鯛の鱗を取り、腹を開け、臓物を出し、尾のところに穴をあけ、藁を通して吊るして日光の下で干す。晩に取り入れ、一夜酒に漬けておき、翌日また日光で干す。その夜もまた酒に漬け、翌日しばらく風に吹かせ乾燥させてから焼く。風味に格別のものがあり、和気の名物である。


59. 但馬子焼鯛たじまこやきだい


これは9月末あたりに、小鯛をよく洗い、水気を切り、松茸をあらく切ったものに小鯛を漬けるため、まずは塩を少しずつ入れ、層で鯛を挟むように松茸をたくさん入れて重ねて漬ける。9月神事の節には3日ほど前からこのようにして漬けておいて、当日になって取り出して、この漬け汁で鯛を洗って焼く。これは神事ための焼き物である。
この漬けた松茸には何を入れても良く、煮てもまた一段と風味が良い料理となる。


60. 土州名物麦焼鯛


小鯛あるいは中鯛の鱗を取り、腹の臓物を出して、水で洗い、塩を少し振ってしばらくおいてから水で洗い、水気を切っておく。
小麦に酒を少しずつ加えて煎ったものを加えて飯を炊いて、これにさきほどの鯛を鮓にするために漬け込む。
塩を少しずつ振っておき、押し石を軽くかけ、三日ほど漬けてから取り出す。飯を払い落として、火鉢の淵に鯛を串刺しにして立て焼けば、焦げずに紅色に焼きあがる。高岡では、どれほど高価であっても、この方法で神事の焼き物のためにこの鮓を漬ける。


61. 対州子蒸鯛


鯛の真子を沢山集めて、これを薄醤油で良く煮てから細かく砕いておく。
鯛を三枚におろし、3cm四方に切って、そこに砕いた真子をまぶす。鍋に水を少し、酒を少し、醤油を少しと青山椒を入れ、これを蒸し煮にする。
これを皿に盛って、おろし大根をかけて出すも良い。対馬では鯛が沢山獲れるので、塩をして大阪へ回している。大阪では、皆、これを干鯛にしている。
対馬では、鯛の子を生でつぶして、そこに身を切って入れ、塩と醤油を少し入れて水煮にして食べているが、これは非常に美味しいものである。


62. 淡州藻焼鯛あわじもやきだい


小鯛か中鯛を良く洗い、おおよそ焼いておいて、火の上に神馬草(馬尾藻)をおいて燃やし、その煙で鯛を燻す。
かけ汁は青海松を擦って、醤油を混ぜて出す。この浜の猟船の人々は、酒の肴やご飯を作る時に、流木を拾ってきたり、浜辺の藻屑を集めて燃やし、その中へ鯛を放り込んで焼いている。そうすると、藻の匂いが鯛にうつるので、風味が一段と良いものになる。


63. 泉州堺の名物生干鯛


鯛の鱗を取り、三枚におろし、薄身を取り去り、しばらく塩をしてから水で洗い、ふきんで水気を取ってから日に干しておく。これは他でやると風味が悪い。ただ新しい魚であれば、干し加減も風味も良くなる。


64. 肥前名物すっぽん煮

肥前の杵島という所にはすっぽんが沢山おり、女もすっぽんを食べる。鯛料理も同様である。

鯛を二枚におろして、これを胡麻油でさっと揚げておく。
鍋に油を熱しておき、その中にネギを3cmほど切ったものを入れ、醤油、酒、水を同量ずつを沢山入れて煮る。この中に先ほどの揚げた鯛を適当な大きさに切って入れて煮る。
出す時にはおろし生姜を置く。肥前の国は総じて魚類を煮ることをすっぽん煮と言う。これは杵島の名物で至極風味が良い。
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65. 若州名物小鯛漬

小鯛の鱗をつけたまま、腹を開け、そのままエラと腸を取り、洗わずに塩に石灰を少し混ぜたもので塩をする。
また早若狭小鯛にするには、熱湯にちょっと漬けて、すぐに塩を振り、水につけて取り上げて水気を切ってから、また塩を振って押し石をかければ、上等の若狭小鯛になる。
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66. 佐渡芋汁鯛

大鯛を三枚におろし、身を捨造りにする。
自然薯の皮をむき、とろろを擦る。酒出汁に醤油で味の加減をして、この汁にとろろを延ばし入れる。鯛をこの汁のなかにざっと漬け、すぐに取り上げて椀に入れ、最後に上からとろろをかけて出す。
油気がなく大変軽い料理である。火薬には青海苔の粉をかける。その他には唐辛子、ネギの細切れなどを入る。これはどんな人でも簡単に出来る料理である。


67. 佐渡黒干鯛

冬の頃(寒中の頃だとなお良い)、小鯛か中鯛の鱗を取り、腹を開けて、よく洗ってからしばらく風に吹かせ、腹に張り木をして、4,5日は日で干してから、釜の上の屋根裏で、鯛をさかさまにして釣るしておけば、薪の煙に鯛が燻されて干鮭のようになる。これを3月頃におろして、水に漬け、2,3度水を取り替えてから味噌汁で煮る。これは羽茂の庄ではいろいろなものと煮ている。
この釣鯛は金山の茶屋などへも売られている。またこれを、赤味噌で食べると冷え病の薬となる。


68. 薩摩ころ煎鯛

鯛を三枚におろし、3cm四方に切る。この鯛を鍋で油で焼き、それに醤油を差して酒を入れる。汁は魚より少し上になるくらいが良く、鍋の蓋を取って煮る。煮えあがったら白豆腐を角切りにして入れる。この時に汁の味や量を良い具合に加減する。紅おろし大根を火薬として乗せて出す。
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69. さつま砂糖漬鯛

新鮮な鯛を三枚におろし皮を取って、堺の生干鯛のように夜露に当てておく。翌日に厚さ3mmほどの小口造りにして、三年鼓(三年間熟成させた塩辛く漬け込んだ味噌)に二日間程漬けておく。取り出してから綺麗に味噌を拭きとって、白砂糖をまぶして壺に漬ける。砂糖を振って鯛と層になるように漬けて押して漬ける。これだと外気が入らなければ、いつまでも保存できる。必要な時に出して、一度洗って、そのままで何にでも使える。味噌、すまし、吸い物、平皿、茶碗、菓子椀、小皿、酢の物、煎り酒物、刺身、生酢、取肴、その他。


70. 薩摩鯛のあつめ汁

鯛を中才に切り、小さな串に刺して炙ったものを赤味噌汁に入れる。火薬は葱の白根を五分切り、しいたけ千切り、あげ豆腐を千切り、大根を小口切り、牛蒡を小口切り、焼豆腐を小才切り、また場合によってはかぶら葉の千切りも入れる。
この国の名物料理で、鯛と具を一緒に椀より高く盛り上げて出す。
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71. さつまでんがく鯛

小鯛の鱗を取り、腹を空けて臓物を出してから水で良く洗い、水気を切る。三年豉を鯛の腹にも詰めて、一日一夜漬けて石で重石をかけておく。翌日に取り出して水で洗い、また水気を切ってから串にさして清酒を塗って焦げないようにして炙る。その後、山椒味噌をゆるくとろみをつけて塗ってから焼く。薩摩ではこれにねぎ味噌をつけて焼くと言う。


72. 甘露漬之仕方

鯛を三枚におろし、水にしばらく浸けておき、取り出してから水気を切って塩を振り、しばらく押し石をかけてから、取り出してまた水にて洗い、乾燥させて、しし干(ししび:濡れた物を広げて干して水気をとること)になってから、皮と血合いの骨とを取り、裏と表に三年味噌を沢山塗って、三日ほど漬けた物を取り出し、布で味噌をぬぐい取ってから日に干す。
上等の酒五合に白砂糖を260gぐらいを入れ、これに汁飴を75gほど入れて煮る。これを良くかき回してから冷まして、干してあった鯛を薄く小口切りにし、二晩三日ほどこの汁に漬けておく。これに山椒を40〜50粒ほど入れることは秘事である。


73. 通仙流てんぷら鯛

鯛を三枚におろし、半時ほど水に浸けて魚の油を取り、水気を切ってから、好きなように切って、越前葛に酒と水を少しずつ入れた衣を鯛にまぶし、萱の油で熱して、葛をまぶした鯛を揚げると軽い味わいになる。
小皿におろし大根を入れて醤油をかけて出す。この油は後も悪くならない。しかも胡麻油よりも価格が安い。
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74. 通仙流野煎鯛

これも三枚におろし、6cm四方に切り、俎板の上に芹か、大根の葉か、三つ葉を細かく切って叩く。切っておいた鯛を叩いた菜のうえ乗せて、その汁も失わないように、すりこ木でそろそろと叩く。この菜が鯛と合わさるように、中平になるように叩く。これに上等の葛をふりかけ、再び優しく叩いてから、藁を敷いた上に叩いた鯛を乗せて蒸籠で蒸す。醤油と酒を少し合わせてたもので、この蒸した鯛を一度煮る。これに山椒を振りかけて出すが、供する方法はどのようなものであっても良い。


75. 通仙流るりむし鯛

これも通仙流野煮鯛のように切って、同じく葛をふりかけて叩き、その上に卵の黄身を流して、鯛の身に黄身が合わさるようにして布に包んで良く湯がいてから、水の中にこれを入れて布を取る。利用方法は、刺身、切重、平皿、茶碗、菓子椀、煮魚、吸い物類は見合った大きさに切って使ったり、蒸籠で蒸して食べる直前に皿に盛り付けて出す。


76. 入子鯛

中鯛の鱗とエラと腸を取り、下身の背から三分の一ほど包丁を切り入れる。また尾筒(尾びれ手前のくびれた部分)の上身と下身に細い包丁を入れて大骨を切り取り、また、頭側も同じようにして骨を取る。
塩を沢山に振りかけておき、しばらくして水にて一度洗い、腹の薄身の骨を、背の切口から取る。ここでは身を包丁で切ってしまわないようにする。
今度は春日小鯛数尾の鱗を取り、腹を開けてエラ、腸を取り、水でよく洗う。この鯛を小串に刺し、酒を一度塗って遠火で炙る。よく焼けてきたら胡麻油を二度ほど塗り、竹串で突いて山椒味噌を塗る。最初の中鯛の腹に入れるだけ詰める。この時、小鯛は焼いたまま熱いものを入れる方が良い。また中鯛のエラの場所にも山椒味噌をよく詰め、背の所には葛の粉をふりかけて、竹の皮で縦に巻き、前と後ろをくくって蒸籠で蒸す。出来上がったらこれを大鉢に入れて出す。
これに大生姜の汁か、大根の汁かを入れて出す、さらに三杯酢か、煎り酒を付けて出す。これは卓袱料理でも最上位ランクの良い料理である。この中鯛に包丁を入れた方が下向きになる。


77. 鯛のそぼろ汁

鯛を三枚におろし、血合いの身を切り去り、鱧のようにすり鉢で鯛を擦って、塩を見合った分量入れ、水を少し入れ、また、寒ざらし粉を水に溶いて入れ、とろろのように擦りのばす。鼓汁を煮立て、銅の匙で擦った鯛をすくって入れ、鍋の蓋は開けた状態で煮る。煮る加減は見合ったようにする。


78. 鯛のすましそぼろ

これも鯛のそぼろ汁と同じように、だし汁を煮立たせて、これにスリ身をすくって入れる。
また小皿に火薬を入れて出す。おろし山葵、浅草海苔、ゴマ、ねぎの細切り、唐辛子の粉、またはおろし大根といずれも料理と釣り合いの取れたものである。


79. さらさ鯛

これもすましそぼろのように、鯛をすり身にして、これに人参の千切り、木耳か岩茸かを粗く切ったもの、三つ葉の軸を3cmほどに切ったもの、人参の葉先をむしったもの、赤貝の千切り、これらの品々をすり身に混ぜ入れる。またこれに卵の白身を入れ、寒晒しの粉を水にて溶いて良く擦り交ぜてから鉢に入れ、ならして蒸篭で蒸す。使い方は何でも良い。刺身にするならば冷まして切り重ねにする。器に盛る時は、蒸籠から直に盛って出す。


80. 兵庫名物須磨焼鯛

これは兵庫、磯の町の料理屋で出されている料理である。鯛を適当に切って、清水焼か、雪平鍋かで煮る。秋ならば松茸を沢山切って入れ、その上に煮た鯛をまた沢山入れる。吸い口には柚子の千切りを入れて出す。


81. 鯛の豆腐煮の仕方

小鯛のウロコ、エラ、腸を取って焼く。ごまの油を2,3度塗り、竹串でところどころ突き油を煮え込ませて炙り焼く。しばらく冷まして、鍋に酒と醤油を等分に入れて煮立て、串で焼いた小鯛を入れる。
豆腐の水をよく絞り、この魚を取り出した後の汁の中に入れる。ただし、汁が多い場合は、取り除く。取り出しておいた鯛を再び中に入れて、上に豆腐を置き、そろそろと煮る。出す時に生姜汁をかける。また、柚子をかけるのも良い、柚子の千切りを散らしたり、山椒を散らすのも良い。


82. くきむし鯛

切り方、煮方とも、鯛の豆腐蒸しと同じである。大鯛でも、切り身でも仕方は同じである。


83. 豆腐糟むし鯛

これも前と同じくである。火薬は思いついたものを微塵切りにして入れて蒸す。


84. 堺の柱酢漬様

鯛を三枚におろし、皮を削ぎ、3mmほどの捨作りにする。
鉢に酢と塩を少し入れ、先ほどの造り身を酢に混ぜておく。
飯を冷まして少し塩を合わせ、鯛と飯をよく混ぜ酒袋に入れて、口を細縄でくくり、酒を絞る男柱に何度も打ち付けると良く熟れる。これを千印の酒屋の甑仕舞(酒倒しとも言い、三月頃に醸造家は、その冬の酒造りが終わったことを祝う。これを甑仕舞と言う)では、鯛を30〜40枚ほども漬け、この家に出入りする人々に供する。
船の中でも船頭が同じことをするが、この家では、鮓を沢山出してくるので自然と名物になった。


85. 江戸おまんすし

江戸においては塩小鯛の骨を取り去って、おからを入れて、鮓にする。また若州小鯛でも、または生の小鯛でも、塩を効かせて漬けて置いたものを使っても良い。ただし、この場合はおからの加減が大事である。おからに醤油と酒を加減をして味付けし、からりと乾燥するまで煎ってから、よく冷まして、鯛の背骨、血合いの骨、薄身を取って、おからに漬け込む。上にのせる圧し石は見合った大きさのものを選ぶ。
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86. 後藤流酢煎鯛

大鯛あるいは小鯛の、鱗、エラ、腸をよく取って水で洗い、蒸籠に藁を敷いてその上に鯛を入れて蒸す。鍋に、酒、醤油を煮ておき、冬の季節であれば、大柚子を輪切りにして、これをたくさん鉢の底に敷いてから、鯛を入れて煮汁をかけて出す。

または、上等の酢に焼き塩を少し入れ、これを先ほど鯛の上にかけ、また醤油もかけて出す。中皿で、辛み大根のおろし、唐辛子、おろし山葵、草実の類を添え、さらに小汁注ぎに生姜絞り汁を沢山に入れて出す。この料理はいくらでも食べられる。


87. 鯛の香物鮓

鯛を三枚におろし、血合いと皮を取って、捨作りにしてから、それをしばらく酢に漬けておく。上等な冬漬け大根の香の物の上皮を取って、薄く小口切りにしておく。

鯛は二度水で洗って飯に合わせる。魚の酢を絞って香物に混ぜ合わせ、これに飯に混ぜる。重石をかけておき、食べる時に掘り出して小皿に入れて出す。風味が一段と良い鮓である。


88. 大坂名物ちくら鮓

こけら鮓のことである。こけら鮓とは、鮭を使ったちらし寿司の原型である

鯛を三枚におろし、皮と血合いを取って捨造りにする。これを少しだけ酢に漬けて、すぐに引きあげて滴を切って、他の火薬を入れて漬けておく。この料理には、かなり新しい鯛を用い、鯛にはあまり酢をきかせ過ぎない方が良い。
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89. 長崎菊花漬鯛

鯛を三枚におろし、しばらく塩をしておいてから、重石をかけて塩を浸み込ませる。塩が行き渡った頃に、水で一度洗い、しばらく風で乾かして、細く3cm程ほどに切っておく。
酢一杯、醤油一杯、酒一杯を合わせて煮たものをよく冷ましておく。また菊の葉をさっと茹でて冷ましておく。また菊の花のある時節なら、花に熱湯をかけこれも冷ましておく。これら葉や花を刻んで魚にまぶし、先ほどの汁と合わせて一日一夜の間、鯛を漬けておく。翌日にはその汁を替えてまた同じように漬ける。ただし二回目は氷砂糖の塊を三つほど下に入れて漬け、魚が悪くならないようにする。こうしておくと冬であれば一ヶ月も味が変わらない。夏だと6〜7日は持たせられる。これを茶料理、刺身、鱠の類で用いると非常に美味しい。


90. 鯛飯

鯛を三枚におろし、ゆでて乾かし、鯛をゆでた湯で飯を炊く。米は3年米か、6年米の大ひね(古米)で炊く。飯が吹いてきたら、ゆでた鯛の身をむしって飯の上に置き、よく蒸して釜に盛ったまま出す。これは器に移すと生臭気が出るためである。
器に移してからは少し葛を薄く引いた汁をかける。かやくはどのようなものを合わせて用いてよい。
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91. 黄金鯛

これは山吹鯛と同じである。使い方も同じである。


92. 巻鯛

三枚におろし、血合いから背までの厚い部分をすき取る。鯛の身を平らにならして卵の白身を塗り、葛粉を振りかける。
すり身には、紅汁か、卵の黄身、あるいは鍋炭を混ぜて同じく白身と葛粉を振る。すり身を平らにした鯛の身で小口から巻いて絞め、これを竹の皮で巻いてから蒸す。出す時は冷やして好みの大きさに切る。供しかたは前と同じである。


93. 鯛丸あげ煮

小鯛の鱗を取り、腹を開け、エラと腸を取って、水で洗い、水気を切って、一時間ほど醤油に漬けておく。
白豆腐を絞って葛を合わせ、醤油に漬けておいた鯛の腹にしっかりと詰め、真ん中をひもで軽く括っておいて、胡麻油で揚げる。
他に小鍋で醤油を煮ておき、揚げた鯛にかけて出す。火薬はおろし大根、唐辛子、ネギの白根を細切りにして出す。この調理法だと小鯛は骨までも柔らかくなる。


94. 鯛のかはらけ焼

三枚におろし、5mmほどの小口切りにして重ね、平鉢に入れて客の前に出す。一緒に出汁醤油を付け、小皿におろし大根、生姜千切り、唐辛子、この三つを合わせて出す。
火鉢に五徳置いて、大きさ16cmと、大きさ22cmほどの土器の皿を二枚台に載せて、長箸、長楊枝を出す。これは座敷料理である。


95. 杉やき鯛

これも三枚におろした鯛を出す。杉板の正目の幅9cm〜12cm、長さ一尺、厚さ3mm程の板を5枚ほど出し、この板が焦げる匂いを肴にする。
さきほどの魚を板に並べ、火を起こせば、先ほどの魚が反り上がって焼きあがる。板が焦げれば捨てる。一緒に小皿に醤油を入れて、客の前に出す。板の上ですぐに食べるためである。


96. 冠之鯛

これは小笠原流、または大草流の故実である。このこれは伝えは後巻に詳しく記してある。


97. 震の鯛

これも、俎板包丁の古実、大秘伝である。


98. 蓬莱鯛

これは、木火土金水の納受にて、料理法の古実であり、第一の秘事である。


99. 日月之鯛

日月と名付けられているのは、陰陽の心得に基づいてたものだからである。これは鯛の上身、下身を料理する、式包丁の古実によって記されている。


100. 桜鯛

花見鯛とも言うが、別に花見鯛があるこで、これを桜鯛とする
これは三月の桜花の頃、海の面が穏やかであり回遊魚が波に戯れる状態になる。この時分、鯛に限らず、諸々の魚が子を宿しており、桜鯛もひとしお美味となる良い時分なので、これを獲って料理するという古実が記されている。そこからこれを魚嶋と言うことがある。


101. 御宿入の鯛

御大名様方がお国入りの節に出される料理の古実である。これは包丁第一の事である。


102. 御出府の鯛

これは国を御立の節に出される、料理の古実である。これらは皆、俎板包丁の儀式である。


103. 向鶴の御鯛

これはおふるまいのお料理で、包丁の古実である。ただし、鶴のお料理ほ、まないたの礼式を整え、目出度御祝儀のお料理なので、古実鯛のお包丁ものである。

これらの古実はいろいろあるけれども、残らず後巻に著す。



故実料理について

故実については別の巻で著すと書いてはいるものの、包丁式についての故実詳細は『鯛料理百珍秘密箱』では結局は説明されなかった。こうした故実は、室町時代に興った武家の包丁流が秘儀として守り伝えたものであり、簡単には公開することができなかったのだろう。ただ、こうした秘匿された一部の人々だけに秘儀として伝えられた故実に著者が通じていたとすれば、やはり単なる一介の料理人のような人物ではなく、有職に通じた身分のある人物だった可能性は高くなるだろう。

故実料理の比率

故実料理の比率


庖丁流派の故実については、『四条流』『生間流』『大草流』『進士流』などの流派があり、既に当サイトで詳しく説明しているので、各リンクから確認してみて頂きたい。

また『鯛料理百珍秘密箱』の各レシピについては、ひとつのレシピにつき、ひとつのページで説明してゆくので、現在公開しているリンク先からも詳細をご確認頂きたい。






参考資料



『鯛百珍料理秘密箱』 器土堂主人

『凶荒圖録』 小田切春江/編 木村金秋/画

『北行日記』 高山彦九郎

『日本庶民生活史料集成〈第3巻〉探検・紀行・地誌』 宮本常一・他編

『後見草』 杉田玄白

『北行日記』 高山彥九郞

『楚堵賀浜風』 菅江真澄

『飢食松皮製法』 杉浦 益

『草木谷庵の手なべ. 後編』 石川理紀之助

『日本料理献立大鑑』 日本料理研究会

『江戸の料理史―料理本と料理文化』 原田信男