小笠原流煮鯛

『鯛百珍料理秘密箱』レシピ一覧 


小笠原流煮鯛のレシピ


小笠原流煮鯛は、江戸時代の1785年に出版された『鯛百珍料理秘密箱』に掲載されている53番目のレシピである。『鯛百珍料理秘密箱』原文には以下のような説明がある。

【 鯛百珍料理秘密箱 】小笠原流煮鯛
鯛を三まいにをろし、薄身をさり、四角に切、にへ湯に上々の葛を一ツ入れ、此中へ右の魚を入れ、すぐに取あげ、外二煮るなり、これよりみそ汁、すひもの、何にても煮様常ごとし。


鯛百珍料理秘密箱

小笠原流煮鯛:新日本古典籍総合DB


【 小笠原流煮鯛 訳文 】
鯛を三枚におろし、薄身を捨てて、四角になるように切る。
煮え湯に上等の葛をひとつ入れ、この中へさきほどの鯛の切身を入れて、すぐに引き上げておく。 こうした処理をしておくと、味噌汁、吸い物、何にしても良く、後は普通通りに煮ることが出来る。



レシピ解説

『鯛百珍料理秘密箱』に掲載されている、小笠原流煮鯛のレシピは料理というよりも、下ごしらえの方法である。味噌汁、吸い物、煮物にする際に、葛で煮ておいてから、鯛を用いるという方法が説明されている。このようにして煮ておくと食材の旨味が葛に包まれて逃げることがないので、旨味と柔らかさを保つことができるというメリットがある。

小笠原流は、もともと武家故実(弓馬故実)、弓術、馬術、礼法の流派である。現在では煎茶道、茶道、礼儀作法の流派として知られているように、料理流派という訳ではない。ではなぜこのような調理方法が小笠原流煮鯛として記録されたのかを、他の類似した料理と比較や小笠原氏の歴史を紐解きながら説明することにしておきたい。


治部煮じぶに

小笠原流煮鯛の調理方法は、葛煮と呼ばれる調理方法に近い。葛煮とは、葛粉を食材にまぶしてから煮る料理のことである。石川県(加賀藩)には治部煮(じぶに)と呼ばれる郷土料理があるが、これは葛煮と同じ調理方法で、食材となる鴨肉あるいは鶏肉を、葛か小麦粉でまぶしてから煮る料理である。
煮るときにジブジブ音を立てて煮るので治部煮という名前が付けられたとされているが、その起源とは一体どのようなものだったのだろうか。

治部煮

治部煮


1643年(寛永20)に出版された『料理物語』を確認すると、治部煮がどのような料理だったのかが以下のように説明されている。

【 料理物語 】
[ じぶ ] とはかものかわをいいり、だしたまりをかげんして入、じぶじぶといはせ後、身を入申事也


ここでも治部煮はもともと「じぶ」と呼ばれる料理だったようで、ジブジブという音を出して調理すると説明されている。しかしこのレシピを見ると、治部煮の特徴である葛・小麦粉がまったく使われていない。こうなると葛を使う小笠原流煮鯛と治部煮が同じ系譜にあるとは言えなくなってくる。では実際には治部煮とはどのような起源をもつ料理だったのだろうか。

改めて調べると治部煮の名前の由来には諸説あることが分かってくる。江戸時代にキリスト教の宣教師が伝えたポルトガル料理が日本風になった料理という説や、キリシタン大名の高山右近が伝えたという説。さらに鴨肉を使うところからフランス語であるジビエがなまったという説。さらに豊臣秀吉軍の食を支えた兵糧奉行の岡部治部右衛門(おかべじぶえもん)が朝鮮から伝えた料理という説があり様々であり、定説というものは定まっていない。しかしながら、治部煮が加賀藩に伝えられ郷土料理として現代まで残っているという事実は、治部煮がどのような料理なのかを理解するためのひとつのヒントであると考えられる。


加賀藩包丁侍:船木伝内と舟木安信

加賀藩には包丁侍として前田家に仕えた舟木伝内という人物がいた。舟木伝内は映画「武士の献立」で取り上げられた人物で、舟木伝内包早を西田敏行、息子の舟木安信を高良健吾が演じている。舟木伝内と息子の舟木安信は幾つかの料理書を残しており、現代にその当時の料理がどのようなものだったのかを伝える貴重な資料となっている。
息子の舟木安信は『料理の栞』で、「じぶ」は「鴨肉を鍋に張った汁(醤油、たまり、煎り酒などを混ぜる)を付けながら鍋肌で焼き、汁を張った椀に5切れほど盛ってワサビを添えて出すカモの鍋焼きのことだった書いている。これは先に挙げた『料理物語』と同じ調理方法であり、ここでもやはり葛は使われていない。
さらに舟木安信は、白鳥などの肉をそぎ切りにし、麦の粉を付けて濃い醤油味の汁で煮てワサビを添えるという「麦鳥(むぎどり)」と呼ばれる料理があり、この料理が誤って「じゅぶ」と呼ばれるようになったことを以下のように記している。

【 料理の栞 】
麦鳥。雁鴨 白鳥
麦鳥を誤りてじゅぶといふ。同じ事にはあらず。じゅぶと麦鳥は違ふなり


じゅぶ(治部煮)とは別の料理、麦鳥という名前の料理があり、この料理がいつの間にか「じぶ」として伝わってしまっていることを暗示している。この当時は両方の料理が混濁して、じぶ(治部煮)にも葛か小麦を使う事が一般化していたと推測される。こうした間違いを正す意味でも、舟木安信はじぶと麦鳥は異なるとして、その違いを明確にしようとしたのだろう。

父の舟木伝内早包は『ちから草聞書』で、麦鳥の特徴がどのようなものかを次のように述べている。

【 ちから草聞書 】
麦の粉をよく付け申すなり


麦鳥は、鴨あるいは鳥の肉に粉をまぶし、皮から汁に入れてさっと煮る。三切れを盛って下汁は少々ためてよしと説明している。現在の治部煮と同様の肉への下処理がこの麦鳥のレシピでは行われているが、これが混同して、やがて治部煮は粉をまぶす料理として定着していったのだろう。


のっぺい汁

のっぺい汁も葛を使う料理である。のっぺい汁とは、サトイモ、ニンジン、コンニャク、シイタケ、油揚などを出汁で煮て、醤油、食塩などで味を調えてから、葛あるいは片栗粉などでとろみをつけた料理のことである。(ただし新潟ののっぺい汁は、里芋などのとろみだけで葛や片栗粉を用いない)
のっぺい汁は江戸時代から食べられていた料理で、1643年(寛永20)に出版された『料理物語』には次のように説明されている。

【 料理物語 】
[のっぺいとう] 鴨を炒り鳥の如く作り、だし、たまりにて煮る。煮え立ち候時、加減吸合せ、饂飩(うどん)粉を出汁にて溶き、ねばる程さし、煮え立ち候時出し候。


のっぺい汁は、小麦粉あるいは葛をつかってとろみを出すのを特徴とする料理である。先に紹介した加賀藩の舟木伝内も『料理ちから草』のなかで「じぶじぶ煮、炒りどり、湯どり、のっぺい、麦鳥」のレシピを書き記している。先に述べた治部煮も含めた、のっぺい汁のような料理は、小麦や葛でとろみを付けて煮るというところに共通点があることが分かる。

のっぺい汁

のっぺい汁


のっぺいの語源は汁が粘って餅の様であることから「濃餅」と表記されるようになり、粘りを意味する「ぬっぺい」が「のっぺい」に訛ったことで「能平」や「野平」という漢字でも表記されるようになったと考えられている。
のっぺい汁は各地の郷土料理として伝えられており、どこでどのように作られたのかは定かではないが、一説では奈良にある寺院の宿坊で残り物の野菜に葛粉でとろみを付けて出した汁物が始まりであるとされている。いずれにしても、葛が入り粘っていることが作り方にも、名称にも反映されていることから、葛などの粉をつかうことが、のっぺい汁の特徴を顕著に表す要素なのだと言えるだろう。


葛溜くずだまり

葛は昔から知られていたが、薬として用いられていたようで、意外に料理としての葛の歴史はあまり古いものが残されていない。その葛を料理に用いる方法として葛溜というものがある。

葛

葛(くず)


葛溜とは、「たまり」と呼ばれる汁に酒を入れて水で薄め、煮沸されてら水で溶いた澱粉を流してかき回して作られる。この葛溜の文献初見は1587年(天正15年)の『宗湛茶会献立日記』にまでさかのぼれる。そこには次のように記されている。

【 宗湛茶会献立日記 】 正月9日朝
たまりにくずを加えてかけて


『宗湛茶会献立日記』は博多商人の神谷宗湛が記した茶会記の献立記録で、ここに最初の葛溜の記述がある。たまり(溜り)とは、味噌溜りのことであり、これを水で薄めたものを熱して、そこに葛を加えてとろみを付けたのが葛溜である。

この葛溜は『大草家料理書』の中にも記されている。

【 大草家料理書 】
あん豆腐と云は。二寸計に切て。湯にしてさらに入て。其上に、くずだまりをかけて。同けし山椒の粉くるみのみを上置にする也


ここには豆腐に葛溜をかけるという料理方法が記されている。『大草家料理書』は1590年~1643年の間に記された書であると考えられているので、神谷宗湛が葛溜に言及した後の時代に、料理法としてこの書に記録されたということになる。
また奈良の漆問屋松屋源三郎家が記した『松屋茶会記』の1634年(寛永11年)3月22日晩と1647年(正保4年)4月6日朝にも「くずたまり」についての言及がある。

その後、1668年に出版された『料理塩梅集』では葛溜の作り方が詳しく説明されている。

【 料理塩梅集 】葛たまり方
先に水を入其次に醤油を少辛めにして入に立てれば、葛入、貝杓子にてさらりと落るかげん能候、堅は悪。


水に醤油を入れてから葛を加えて、杓子でサラリと落ちるぐらいの硬さにして、固すぎないようにするとあり、葛溜の粘度の目安が述べられている。またそれまで「たまり:味噌垂れ」が使われていたが、『料理塩梅集』から葛溜には醤油が使われるようになっているところも注目すべき点である。この時代になるまで、まだ醤油は一般的ではなく、味噌由来の「たまり」が使われていたのだが、醤油が普及するようになった為に、葛溜も醤油を加えて作られるようになったということである。


葛鯛くずだい

1643年(寛永20)に出版された『料理物語』には「葛鯛」という料理が記されている。

【 料理物語 】
[ くずだい ] たいをやき物のごとくきり、くしにさし、ゆにしてくずだまり(葛溜)をかけ出し候、くずだいこんも右のごとく仕候。


『料理物語』に記されている葛鯛という料理は、鯛が使われていることや、鯛に葛をかけているので、その142年後の1785年に出版された『鯛百珍料理秘密箱』に記されている小笠原流煮鯛に近いと言えるのかもしれない。『料理物語』にはもうひとつ、伊勢豆腐という料理のレシピで葛溜が登場している。

【 料理物語 】
[ いせどうふ ]は山のいもをおろし、たいをかきすり、いもの三分一いれ、たうふにたまごのしろみをくわえする、何もひとつによくすり合わせ、杉のはこに布をしき入つつみ、ゆにしてきり、くずだまりをかけて出し候。


伊勢豆腐とは、おろした山芋とほぐした鯛、豆腐に卵の白身を加えたものを混ぜ合せて、布を敷いた杉箱に入れて湯で熱して固め、それに葛溜をかけて食する料理である。ここでも葛溜が葛鯛と同じような仕方で用いられているのは興味深い。


料理における葛の使い方の変化

これまで見てきた戦国時代後期から江戸時代初期にかけての葛溜の使い方というものは、どれもソースのように調理された食材の上から掛けるという方法であった。しかしこうした葛溜の使われ方は、本質的な部分で見るのであれば『鯛百珍料理秘密箱』に記されている小笠原流煮鯛とはまったく異なるものである。なぜなら葛溜は料理の仕上げとしてつかわれるソースのような味付けを目的としたものであるのに対して、小笠原流煮鯛は料理における下ごしらえの方法だからである。

こうした比較を通して、料理における葛の使い方が時代によって変化してゆく過程がどのようなものであったかを理解できる。現在では小麦粉を直接、料理する素材にまぶして調理してゆく料理方法(ムニエル: meunière)はよく知られているが、江戸時代の初期にはまだそのような粉を直接付ける料理方法はなかったようである。あくまでも葛や小麦粉は、汁で溶いたものを上からかけるという方法だったり、あるいは汁に加えてとろみを付けるという方法でのみ使われているだけである。

先に取り上げた治部煮は、現在は、鴨肉や鶏肉を粉にまぶして煮ることになっているが、舟木安信の指摘によると、治部煮(じぶ)はもともと葛などの粉をまぶして煮る料理ではなかったということである。
『料理物語』に記されている治部煮(じぶ)のレシピでも、粉が全く使われないことから考えても、治部煮という料理は、本来は粉を使わなかったことが理解できる。しかし後代になって、舟木安信が指摘するように「麦鳥」との混濁により、次第に治部煮が粉をまぶして煮る料理として知られるようになっていったと考えられる。

こうした混同の指摘は、舟木安信(誕生年不明~1779年没)が『料理の栞』で書いているのだが、その本文中に1771年(明和八年)の記述があることから、『料理の栞』が書かれたのは舟木安信の晩年である事が分かっている。つまりこの頃、すでに治部煮は鴨などの肉を葛でまぶし、それから煮る料理として一般的になっていたということになるだろう。これは小さな違いであるように思えるかもしれないが、今までの葛の使い方から考えると大きく異なる点であり、それまでの料理法にない新しい方法に変化している事を意味している。

このように粉(葛・小麦粉)を食材に直接付ける料理方法は、18世紀になってようやく行われるようになった方法だったと考えられる。なぜならそれ以前の料理書にはそのような料理法が記録されていないからである。1785年に出版された『鯛百珍料理秘密箱』にはそのような料理法が多く含まれており、以下にその料理名を挙げておく。それぞれの料理レシピを確認したい場合は『鯛百珍料理秘密箱』からその内容を確認して頂きたい。

 4. かきもち鯛
 5. せんべい鯛
 6. みどり鯛
 7. 長崎ふくみ鯛
 12. 巻鯛
 16. 五色鯛
 24. 嶋鯛
 43. 小倉蒸鯛
 73. 通仙流てんぷら鯛
 74. 通仙流野煎鯛
 75. 通仙流るりむし鯛
 76. 入子鯛
 92. 巻鯛

上記に挙げた料理では、従来にない方法での粉(葛・小麦)の用法がとられていることに注目すべきである。ここからも『鯛百珍料理秘密箱』では、今までにない最新の料理方法のレシピが紹介された本であると考えるべきであろう。過去の料理本には無いこうした粉の用い方ひとつを取って見ても『鯛百珍料理秘密箱』は、時代の先端をゆく料理方法が記された本であったと理解することができる。


小笠原氏と料理

この料理の名前が「小笠原流煮鯛」であることから考えると、その名前が付いている小笠原流、あるいはそれを担ってきた小笠原氏が、そもそもどのような一族だったのかを理解することから、この料理を考える必要があるだろう。

小笠原流そのものに関し詳しくは「小笠原流」の記事を参考にして頂きたい。

小笠原氏は、清和甲斐源氏であり鎌倉時代から続く武家の名門である。初代の小笠原長清(1162年-1242年)は、小笠原流の弓馬の礼法の祖であり、源頼朝の「糾方きゅうほう」師範として活躍している。糾方とは弓馬術礼法のことであり、こうした有職故実の知識が秘伝として受け継がれているのが小笠原氏である。

小笠原氏家紋

小笠原氏家紋


歴代の小笠原氏の当主は代々にわたり糾方の故実を引き継いできた。そこには弓馬の知識に加え、礼ついての故実が含まれており、こうした儀礼的な作法のなかに食事のとり方や、酒の注ぎ方などが規定されている。こうした中に「小笠原流煮鯛」という料理方法が関係しているのではないかという仮説を基に調査を進めてみた。

小笠原流煮鯛という料理については二つの観点から考察する必要があるだろう。ひとつは①小笠原流という名前が付いている理由である。そしてもうひとつは②煮鯛の料理方法における位置付けである。この両方の面から小笠原流煮鯛がなぜこうした名称なのかを考察する。


① 小笠原流という名前が付いている理由

単純に考えれば、この料理方法が小笠原流によって伝えられてきた料理だからという理由であれば非常に収まりが良い。しかし事はそう単純ではない。なぜなら小笠原氏は弓・馬・礼の有職故実の家であり、料理のレシピや料理方法を代々知識として有するような家ではないからである。

小笠原氏が後世に残してきた重要書は『三議一統』『小笠原礼書七冊』(諸礼集)であろう。『小笠原礼書七冊』はその名の通り、以下のような7冊の書物で構成されている。

 1. 諸礼集 一
   ・元服之次第
   ・嫁取之次第聟入之事
 2. 諸礼集 二
   ・酌之次第
 3. 諸礼集 三
   ・通之次第
 4. 諸礼集 四
   ・万請取渡之次第
 5. 諸礼集 五
   ・万躾方之次第
 6. 諸礼集 六
   ・書札之次第
 7. 諸礼集 七

ただこれらの書物の中を調べても小笠原流煮鯛に該当するようにことはどこにも書かれておらず、これらの小笠原氏の有職故実からこの料理の由来を導き出すことは出来なさそうである。では何を根拠に『鯛百珍料理秘密箱』の作者はこのレシピを小笠原流煮鯛としたのだろうか。


明石の小笠原忠真おがさわらただざね

その一つの可能性として、わたしは小笠原忠真(ただざね)という人物に注目している。小笠原忠真(1596年-1667年)は次男だったが、大坂夏の陣で父の小笠原秀政と長兄の小笠原忠脩が戦死したため、1615年(慶長20年)に小笠原総領家の家督を相続することになり、信濃松本藩8万石の藩主となる。

小笠原忠真

小笠原忠真おがさわらただざね(1596年-1667年)


その2年後の1617年(元和3年)に、徳川幕府は小笠原忠真を信濃松本から播磨三木明石10万石に移封。国入した小笠原忠真はまず明石城の構築を行い、1619年(元和5年)に明石城を完成させ、城下町も整備に着手している。小笠原氏の代に明石城下に成立した町は、鍛冶屋町、細工町、東魚町、西魚町、東本町、西本町、東樽屋町、西樽屋町、信濃町(後の中町)、材木町、明石町の11町であり、『町割年号記』には小笠原忠真の時代にこれら11町が地子免除(税金免除)されたとの記録がある。さらにこうした町割(都市計画)には、当時、姫路藩主・本多忠刻(小笠原忠真の義父)と交流していた宮本武蔵が関与していたとも伝えられている。

城下町に付けられた名前から、どのような職能の人々が、どの町に住んでいたのかが分かるようになっている。町の東部は商人と職人の地区であり、西部は樽屋町、材木町とその海岸部には回船業者や船大工などと漁民が住む地区が割り振られた。そして中央部には東魚町、西魚町など商業と港湾の地区に町割りされた。現在では東魚町、西魚町にあたるのが地区に「魚の棚」(うおんたな)商店街の原型であり、東魚町では主に鮮魚、西魚町では主に干物が扱われていた。城にも近い中央部分の一等地にこのような魚町が置かれていたことから、明石の町づくりでは魚が重視されていたことを理解できる。

明石城下町における主要地名と主要施設

明石城下町における主要地名と主要施設
『近世明石における城下町プラン』石田曜


現在でも明石は、明石鯛や明石蛸といった海産物の有名な土地であり、小笠原忠真が明石に配置される前から知られていた。例えば『太閤記』の天正9年(1581)12月の記録では、姫路城を拠点として西国攻めに奔走していた羽柴秀吉が、安土の織田信長に対して、歳暮として太刀一腰や銀子千枚などとともに「明石干鯛千ヶ、蜘蛸三千連」の播州の土産各種を贈っている。
『播州名所巡覧図絵』でも「天正九年十二月、歳暮賀儀として秀吉公、播州領の時、信長公へ献上のうちに、あかしの干鯛千箇と見へたり」とある。また『林崎村郷土誌』にも「天正九年十二月羽柴秀吉播州領の時織田信長に當所〔林崎〕漁獲物干鰡、塩引等献上せりと云ふ」とあるので、すでにこの頃から明石の海産物は有名だったということになるだろう。

このように明石は「明石鯛」で有名であることから、小笠原忠真の統治中に鯛の料理法として小笠原流煮鯛のような料理方法が考えだされ、それが名前の由来になったと考えても不思議ではない。15年間の統治期間にこうした料理法が明石の鯛を使って生まれた可能性は十分にあったと考えることも出来るのではないだろうか。


小倉の小笠原忠真

15年間の統治の後、1632年(寛永9年)10月に小笠原忠真は豊前小倉15万石に転封となった。この時、小笠原忠真は36歳であり、その後、71歳までこの地に住みここに没している。この小倉の地には小笠原忠真が残した食に関するエピソードがあるので紹介しておきたい。


ぬか漬け

小笠原忠真は糠漬けを好んで食べていたという言い伝えがある。松本藩から明石藩に移封の際、また明石藩から小倉藩に移封の際にも、糠床を持ち込んだと考えられている。この糠漬けを小倉藩で奨励し、人々が糠漬けを好んで食するようになったと伝えられている。現代でも北九州には糠床を受け継ぐ家が多く、こうした代々伝えられる糠床は「百年床」と呼ばれている。また野菜を糠漬けにするだけでなく、小倉には鯖やイワシなどの青魚を糠に漬けて煮る「ぬか炊き」という料理がある。このぬか炊きは「糂汰(じんだ)煮」とも呼ばれ、「糂汰」はぬかみそを指す古い言い方という。文献的な裏付けは残されていないが、これも小笠原忠真に由来する料理であると言えるのだろう。


普茶料理ふっちゃりょうり

小笠原忠真は、黄檗宗の卓袱料理で、中国風に大皿を各自の箸でシェアする食べ方に感動したと伝えられている。黄檗宗とは、江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592-1673年)を開祖として京都府宇治市の黄檗山萬福寺を本山とする宗派である。この黄檗宗に小笠原忠真は帰依し 1665年(寛文5年)に広寿山福聚寺を創建している。福聚寺には小笠原忠真夫妻、2代忠雄、8代忠嘉、9代忠幹の廟所があり小笠原家の菩提寺として知られている。

こうした黄檗宗への帰依を通して、小笠原忠真は卓袱料理(普茶料理)に触れたのではないだろうか。卓袱料理と普茶料理は共に卓を囲み、大皿に乗った料理を各人が取り分けて食べるという中国風のスタイルである。普茶料理では二汁六菜を基本とするが、これも中国風である。日本では奇数を陽数とするので奇数の一汁三菜・一汁五菜・二汁五菜・二汁七菜..のように膳数が構成されるが、中国では偶数が陽数となるので、偶数の二汁六菜で構成されているという訳である。

普茶料理抄

『普茶料理抄』
早稲田大学図書館 古典籍総合データベース


しかし卓袱料理と普茶料理には大きな違いがあって、普茶料理は黄檗宗由来の精進料理であるので、卓袱料理と異なり肉や魚を使わずに供されるという違いがある。また現在では卓袱料理が長崎県の郷土料理に留まっているのに対して、普茶料理の方は各地の黄檗宗の寺院を中心に広域に普及しているという違いもある。

普茶料理にはふたつの大きな特徴がある。ひとつは「植物油」を多く使うこと、そしてもうひとつが「葛」をつかうことである。
普茶料理には魚や肉が使われない代わりに「もどき」として鰻の蒲焼や鱧に見立てた揚げ物料理がだされる。さらに油茲(ユジ)と呼ばれる衣に味付けをした揚げ物料理も出される。

葛については、雲片(うんぺん)と呼ばれる普茶料理の代表的な料理がある。これは油で炒めた野菜の葛煮のことだが、仏教の精神から調理の際に残った野菜のへたなども余すことなく用いる料理である。こうした野菜を細かく刻み、それを葛でとじることで雲に見立てた料理である。
また麻腐(マフ)も有名な普茶料理である。これは現在では一般的に食べられるようになっている胡麻豆腐のルーツで、炒った胡麻を摺ってペースト状にしてから、葛粉と酒を加えて火にかけ、砂糖、味噌、薄口醤油を加えて練り混ぜ、型に入れて冷やした料理である。
このように普茶料理には葛を用いるという特徴があることは注目すべきである。

小笠原流煮鯛は葛を用いるが、こうした普茶料理の影響も考えられるのではないだろうか。小笠原忠真が明石から小倉に移ってきたことを、鯛は明石の名産であり、小倉で黄檗宗に帰依して福聚寺を創建し普茶料理に触れたことで、このような葛を使う料理スタイルが小笠原家の食卓に取り込まれていった可能が考えられるのではないか。


茶懐石ちゃかいせき

小笠原忠真は、小倉に茶人の古市勝元(了和)を召し抱えて、小笠原家茶道古流を興した大名茶人であった。以降は代々、古市氏は小笠原家茶堂として幕末まで小笠原氏に仕えている。古市了和は、初代の古市胤栄から数えて四代目にあたる。初代の古市胤栄は村田珠光の高弟であり、『山上宗二記』には以下のような評がある。

【 山上宗二記 】

和州古市澄胤 数奇者、名人、珠光の一の弟子、名物其数所持の人也


山上宗二は、古市胤栄を数奇者、名人であり名物の茶器を有している人物であると評価している。西本願寺に伝わる大名物の盆石「残雪」は、奈良の町屋にある屋根押さえに使用していた石の中から古市胤栄が見出したものと言われており、ここからの目利きのできる人物だったことがうかがえる。
古市胤栄は、村田珠光の高弟であるので、千利休よりも古い起源であるとして、小笠原流の茶道は「小笠原家茶道古流」と称している。

こうした茶の湯にまつわる茶懐石のなかで、小笠原流煮鯛のような料理が生まれた可能性も考えられる。古市氏の茶道は、利休の系統とは異なるので、茶懐石においても小笠原氏のテイストをより反映したものだった可能性がある。そう考えると明石由来の鯛や、普茶料理に影響を受けた葛を使う料理方法が、小倉の茶懐石において考えだされたとしても不自然ではない。


小笠原流の料理

先にも言及した通り、小笠原氏は弓・馬・礼の故実の氏族なので、料理に関する記録はあまりみられない。様々な小笠原氏由来の文書を調べてみても、小笠原流煮鯛のような料理方法を見つける事は出来なかった。

そこで小笠原忠真の時代に、この料理方法が始められたのではないかと仮定して、小笠原忠真が松本藩から転封された明石や小倉という土地を背景としてこの料理方法が生まれた可能性を考えてみた。
また小笠原忠真が関心を示した黄檗宗の普茶料理、さらには茶道から小笠原氏特有の茶懐石において、こうした料理法が取られた可能性も考察した。最後に料理方法における年代的な観点から、小笠原流煮鯛がいつ頃に考えらえたのかを推測してみることにしたい。


② 煮鯛の料理方法における位置付け

小笠原流煮鯛のレシピが掲載された『鯛百珍料理秘密箱』が出版されたのが1785年であるので、この前には小笠原流煮鯛が既に調理法として行われていたということになる。

先に葛溜の項で、食材に直接、葛(あるいは小麦粉)をまぶして調理する方法は18世紀になってようやく始められた料理方法ではないかと述べたが、その仮定に基づくのであれば、小笠原流煮鯛の調理方法はその前段階に位置する調理方法であるように思われる。

 ・ 葛を上からかける調理方法
     ↓
 ・ 葛を溶いた湯に漬ける調理方法(小笠原流煮鯛)
     ↓
 ・ 葛を素材に付ける調理方法

室町時代の料理方法を見ると、葛溜や葛餡のように上からかける調理方法が文献から確認できる。そして18世紀になって始めて葛を素材に付ける(葛を打つ)調理方法が現れるようになった。これは油で炒める、あるいは揚げるという調理方法がこの時代から盛んに行われるようになったことが理由であるとも考えられる。

小笠原流煮鯛のような方法は、過渡期として葛を用いる方法として行われ、やがては葛を素材に付けるという最新の調理方法にへと変わっていったのではないかと考えられる。その背景には、油で炒める、あるいは揚げるという調理方法が広く用いられるようになってきたことが考えられる。

1643年(寛永20)に出版された『料理物語』は、当時の最新調理方法が記された本であったと思われるが、この中には、葛を溶いた湯に漬ける調理方法も、葛を素材に付ける(葛を打つ)調理方法も述べられてはいない。この時代にはまだ葛を素材に付ける(葛を打つ)調理方法は始められておらず、やはり18世紀前後になってから始められたのではないかと思うのである。よって小笠原流煮鯛のような調理方法は、1650年頃から1700年以降、遅くとも『鯛百珍料理秘密箱』が出版された1785年前までの間に生み出されたということになるだろう。

これを小笠原忠真の生涯と並べて考えてみたい。小笠原忠真が転封により小倉藩入りしたのが1632年(寛永9年)10月、それから35年を経た1667年(寛文7年)10月に没している。よってこの期間に、長崎の卓袱料理、あるいは黄檗宗に帰依した事から普茶料理の強い影響があり、これが葛を使った「小笠原流煮鯛」のような料理が考えられた原因と推測されるのである。
さらには小笠原忠真が茶堂頭とした古市了和が小笠原流茶道を発展させたということも考慮する必要があるだろう。この要素も加味すると、小倉での小笠原流茶道の発展に伴い、茶懐石における献立としてこのような調理方法が考え出された可能も推測されるのである。

こうした要素を検討した結果、小笠原忠真が当主である期間中、小倉において「小笠原流煮鯛」は成立したのではないかとわたしは考えるのである。あるいは、すこし時代が下がって息子の小笠原忠雄の時代に「小笠原流煮鯛」は生み出されたと考えることも出来るのかもしれない。しかしそれでもやはり「小笠原流煮鯛」には普茶料理や茶懐石の影響は免れることはできないだろう。いずれにしてもこの時代に「小笠原流煮鯛」という調理方法は生み出されたということになるのだろう。


小笠原流煮鯛はどのように伝えられたのか

『鯛百珍料理秘密箱』に小笠原流煮鯛が収められた経緯は不明だが、作者であるとされている器土堂主人の序文には以下のような言葉がある。

【 鯛百珍料理秘密箱 】
いにしえから名家に秘密にされてきた蔵書を探り、それに加えて諸国の名物を、あまねく集めてこの書物のなかにたくさん記載した実に珍しいものである。よってここから秘密箱と名付けたのである。


名家に秘密にされてきたレシピを記したとする器土堂主人の言葉から考えると、小倉藩小笠原家の小笠原流煮鯛は、まさにそのような経緯で『鯛百珍料理秘密箱』に収められるようになっと考えられる。器土堂主人は長崎に卓袱料理を学びに行ったという説もあり、その関係で小倉藩にも足を伸ばしていたのか、あるいは何らかのつながりが小笠原家あるいはその関係者とあって、小笠原流煮鯛の調理法を知ることができたのかもしれない。

葛を用いる様々な調理方法から、小笠原氏の歴史と小笠原忠真の人物像から、小笠原流煮鯛を考察してみたが、これに関する文献による証拠は存在していないので、あくまでも状況証拠としての根拠を提示するのみでしかない。しかしながら何故この鯛の調理方法が小笠原流煮鯛と呼ばれるのかの考察としては、この項を通してひとつの可能性を提示することが出来たのではないかと考えている。


現代のレシピ

鯛を三枚におろし。
四角になるように切る。
 ↓
鍋に湯を沸かし、葛を溶く。
鯛の切身を入れて、すぐに引き上げる。
鯛の切身は冷ましておく。
 ↓
この鯛を味噌汁、吸い物に使う。






参考資料



「料理の栞」について  笠原好美,綿抜豊昭

『三議一統当家弓法集』  小笠原貞宗

『三議一統当家弓法集』  小笠原貞宗

『MIYAKO TOWN DEGITAL MUSEUM』町史ダイジェスト  豊津町史編纂委員会

『豊津町史』小笠原小倉藩の成立と展開  豊津町史編纂委員会

『豊津町史』小倉小笠原藩時代の生産と流通 第五節 近世の交通  豊津町史編纂委員会

『豊津町史』小笠原流  豊津町史編纂委員会