鱲醬ろうあえ

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『鯛百珍料理秘密箱』レシピ一覧 


鱲醬のレシピ


鱲醬(ろうあえ)は、江戸時代の1785年に出版された『鯛百珍料理秘密箱』に掲載されている46番目のレシピである。『鯛百珍料理秘密箱』原文には以下のような説明がある。

【 鯛百珍料理秘密箱 】ろうあへの仕方
これはぼらのこにて鯛をあへるなり

これは蝋子のうは皮を剥て、わさびおろしにてをろし候えば、右、子ばらばらになる。これを前のごとく、魚にまぜてあへる也。さかなもの、又大鉢もの、小皿もの、手とりさかな、ちよくもの、一だんとよろしく候。


鯛百珍料理秘密箱

新日本古典籍総合データベース


【 鱲醬 訳文 】
これはカラスミ(ボラの卵巣)で鯛を和える料理である。

カラスミの上皮を剥いで、わさびおろしでおろせば、カラスミはバラバラになる。これを鰊鯑醬(かずのこあえ)のように鯛に混ぜて和える。肴物や大鉢物、小皿物、手取り肴、猪口ものだと一段と良い。



レシピ解説

鱲醬(ろうあえ)とは、レシピの最初に説明してあるように、ボラの卵巣からつくられたカラスミを鯛にまぶした料理である。カラスミは長崎名産の珍味で、漢字で、唐墨、鰡子、鱲子、鱲と幾つかの方法で記述される。鱲一字だけでもカラスミと読むので、こうした表記から見ても、この料理の名前「鱲醬」は、鱲子(カラスミ)と和えた料理であることが理解できるだろう。

書籍によってはこの料理の名前を「蝋醤」と記述してあったりするが、原文を確認すると「鱲」の漢字が用いられていることや、この料理がカラスミで和えることからすると、正しくは「鱲醬」と記述されるべきである。鱲は音読みでリョウ(レフ)という発音であり、これがロウに通じているために「蝋」の字が当てられてしまい、このような間違いが横行する事になったと思われる。あるいはカラスミは蜜蝋を用いて表面がコーティングされるような場合もあり、これも「蝋」の字がカラスミ料理として誤って当てられた原因であったのではないかとも考えられる。

カラスミはかなりの高級食材なので、この料理の調理手順は簡単ではありながらも、実際には非常にコストのかかる料理になっている。江戸時代から肥前国のカラスミ、越前国のウニ、三河国のコノワタは日本の三大珍味と呼ばれて珍重されてきた。この高級食材のカラスミを、同じく貴重な魚として有り難がられていた鯛と和えるのであるから、鱲醬(ろうあえ)はかなり贅沢な料理ということになる。

からすみ

カラスミ


一般的にカラスミに用いられる卵巣はボラのものであると認識されているかもしれないが、広義には、様々な種類の魚の卵巣でも、塩漬けし、塩抜き後、天日干しで乾燥させたもの全般はカラスミと呼ばれている。カラスミの生産地として長崎が特に有名であり、長崎のカラスミはボラの卵巣だけを用いて作られるので、ボラの卵巣だけをカラスミと呼ぶと思われるかもしれない。しかし他の場所で作られているカラスミには、その地域特有の魚が使われることがあり、一概にボラ卵巣でつくられたものだけをカラスミと呼ぶことはできない。例えば香川県ではサワラあるいはサバの卵巣がカラスミ作りには用いられている。台湾にはアブラソコムツが使われている。またイタリアではカラスミと同じような加工品をボッタルガ(bottarga)と呼び、これにはボラだけでなくマグロやカジキの卵巣も使われているのである。


カラスミの歴史

長崎名産とされているカラスミであるがその起源を辿ると、実は地中海沿岸の地域で食べられていた魚の卵巣の加工品が元であることが分かる。これがやがて日本に伝えられ、作られるようになったのがカラスミである。つまりカラスミとは日本発の加工食品ではなく、海外から入ってきた食品だったのである。カラスミは良く日本料理店で扱われる食材であるので、ともすると日本のものだと思われるかもしれないが、実は日本でカラスミがつくられるようになったのはそんなに昔の話ではない。そもそもカラスミは、その形が中国の墨に似ていることから唐墨と書くようになったという説が一般的であり、このことからもカラスミが大陸から伝えられたものであることがうかがえる。

そこでまずカラスミの起源がどこにあるのか、諸外国の様々な過去の文献から探って、明らかにしておくことにしたい。


エジプトのカラスミ

西洋ではカラスミをイタリア語由来のボッタルガ(Bottarga)という名称で呼ぶ。こうした加工品は主に地中海沿岸の地域で広く作られており、最も古い記録を遡るとエジプトの王族の墓に描かれた壁画にその様子を見ることが出来る。

ニューヨークのメトロポリタン博物館には、エジプト第五王朝の七代目の王であるメンカウホルの王子だったレムカの墓が移され、所蔵・展示されている。レムカは、各文献によってRaemkai、RaemkaあるいはRe-mu-Kuyというように記述されている。この王子は早世した為に、父の王権を継いで王となることは出来なかったが、立派な墓が残されており、多くの歴史的資料を提供している。

レムカの墓内部の北側の壁に彫られた壁画には、王子に使える召使いたちが仕事をしている様子が描かれている。登場するのはパン作りをする者や、酒造りをする者、さらに魚を加工する者たちである。そこには魚を開いて卵巣を取り出している様子が描かれているので以下に、分かりやすくトレースした図と、実際の写真の両方を示しておきたい。

Re-mu-Kuy

Re-mu-Kuy

Metropolitan Museum Accession Number: 08.201.1c


レムカ王子の父親のメンカウホルの統治機関は紀元前2422年頃〜紀元前2414年の8年間ないし9年間であると考えられている。そしてこのレムカの墓が作られたのは紀元前2446年〜2389年とされているので、父のメンカウホルが王に就任する前に、レムカ王子は亡くなったと考えられる。そしてそこに描かれた壁画から、4500年程前の古代のエジプト人は、すでに魚の卵巣を取り出してそれを食していたことが明らかになっているのは大変に興味深いことである。

またメンカウホル王の次に、エジプト第五王朝の八代目の王となったのはジェドカラー(Djedkare)である。その宰相で当時の権力者だったプタハホテップ(Ptahhotep)の墓も発見され、墓の壁画にも魚を開いて加工する様子や、卵巣を取り出す様子が描かれている。(下図参照)

mastaba of Ptahhetep

『The mastaba of Ptahhetep and Akhethetep at Saqqareh』


こうした墓に描かれた壁画から、この時代からすでに魚を開いて吊るして乾燥させる加工方法がエジプトで行われていたことを知ることができるようになっている。

他にも、首都カイロ南方の墓地遺跡のサッカラで当時の有力者だったティ(Ty)の墓が発見されている。この壁画にも他と同様に魚を加工する様子が描かれている。ここからもこの当時のエジプトでは、既に卵巣の加工が一般的だった様子がうかがえるようになっている。加工の様子は下図を参照して頂きたい。

The mastaba of Ty

ティ(Ty)の墓に描かれた壁画部分

また時代が下がりエジプト第18王朝、古代エジプトの貴族のレクミラ(Rekhmire)の墓も発見されている。レクミラは、トトメス3世とアメンホテプ2世の治世中に紀元前1400年頃に宰相を務めた人物であり、立派な墓を残すことが出来たのだろう。このレクミラの墓にも壁画が描かれているが、外と同様に魚を開き、乾燥のために吊るす仕事をしている男性たちの姿が描かれている。

The tomb of Rekh-mi-Rē(Martino da Como)
マルティーノ・ダ・コモ(Martino da Como)

『The tomb of Rekh-mi-Rē at Thebes : Volume II』
Metropolitan Museum of Art Publications


こうした古代エジプトの墓に描かれた壁画を見てゆくと、古代のエジプト人が卵巣を上手く加工して食べていことを良く理解できる。しかしこれだけだと『Ancient Food Technology』でRobet I. Curtisが「botargo」P203の項において指摘しているように、卵巣が食べられていたとしても、塩漬けされ、現在のボッタルガのように加工されていたのかどうかまでは定かであるとは言えない。

それでもわたしは、エジプトでは古代から塩漬けにしてボッタルガ作りが行われていた可能性が高いと考えている。その理由を挙げるならば、①ナイル川の氾濫により農作物の出来が左右されるエジプトにおいては保存食の作成が重要であったこと。②エジプトの気候が温暖であること。この2つを根拠としたい。長期に渡って保存するためには塩漬けという処理が行われる必然があったはずであろうし、エジプトのような温暖であり腐敗が進行しやすい地域であれば、なおさらそのような処置が施されたと考えるべきである。

幾つかの文献を当たると『Salt: A World History』の著者、Mark Kurlanskyが、太古のエジプトでも、現在のボッタルガのような加工が行われていた可能性を次のように述べている。

【 Salt: A World History 】
A great source of Egyptian food was the wetlands of the Nile, the reedy marshes where fowl could be found, as well as fish such as carp, eel, mullet, perch, and tigerfish. The Egyptian salted much of this fish. They also dried, salted, and pressed the eggs of mullet, creating another of the great Mediterrranean foods known in Italian as bottarga.

【 訳文 】
エジプト料理の食材は、ナイル川の湿地帯、家禽が見られる葦の沼地に住む、コイ、ウナギ、ボラ、スズキ、タイガーフィッシュなどの魚だった。エジプト人はこれらの魚の多くを塩漬けにしたのである。彼らはまた、ボラの卵を乾燥させ、塩漬けにし、圧をかけて、イタリア語でボッタルガとして知られている地中海食材を作った。


現代でもエジプトは、卵巣からボッタルガを作っている生産国であり、エジプトではこれをBatarekhという固有名詞で呼ぶ。よって年代は特定できないにしても、エジプトではカラスミの原型となるものが加工食品として太古から生産されていたことは間違いないだろう。
古代ギリシアの歴史家で紀元前5世紀を生きたヘロドトスは、エジプト人は生、天日干し、または塩水で保存された魚を食べ、ペルシウムとカノープスでταριχειαと呼ばれる魚加工工場を既に運営していたことを記録している。どこまで遡れるかは別としても、今から2500年前のヘロドトスの時代にはエジプトで既にカラスミの原型のようなものが生産されていたことは間違いないと言えるのではないか。


イタリアのボッタルガの起源

イタリアにおいては、15世紀にマルティーノ・ダ・コモ(Martino da Como:本名はMartino de Rossi)のボッタルガについての記述が、文献における初見である。当時アクイレイア大司教のローマ宮殿のシェフを務めており、豪華な宴会を調理することで知られていた。マルティーノ・ダ・コモは西洋で最初の有名セレブリティシェフとして知られ、「料理の王子」「マエストロ・マルティーノ」として賞賛されていた料理人だったのである。

マルティーノ・ダ・コモ(Martino da Como)

マルティーノ・ダ・コモ(Martino da Como)

このマルティーノ・ダ・コモは、1465年に『Libro de Arte Coquinaria (英訳版:The Art of Cooking) 』という料理本を記している。この中にはボッタルガ(Butarghe)の項目があり、次のように説明されている。

【 The Art of Cooking 】
ボッタルガ(Bottarga)
ムザノ(muzano)とも呼ばれる新鮮なボラの卵巣を選んで、それが非常に新鮮であることを確認する。良質のものであるかはそれが季節のものであるかが重要である。卵巣の周りにある薄い膜を壊さないように注意しなければならない。これに塩をふりかけるが、それが多すぎても少なすぎてもいけない。塩を上と下にして1日この状態で置いておく。それからこれを昼夜を問わず重石をする。これが終わったら、炎から十分に離れた場所でスモークする。乾いたら、木箱や樽に入れてふすまをたっぷり加えて保存する。ボッタルガは一般的に生でも食べられるが、調理したいのであれば、灰の下または清潔で熱い炉床で加熱し、完全に熱くなってから裏返すことで調理ができる。

Libro de Arte Coquinaria

『Libro de Arte Coquinaria (The Art of Cooking) 』
P65にボッタルガ(Butarghe)に関する記述がある。


上記の『Libro de Arte Coquinaria (The Art of Cooking) 』にあるマルティーノ・ダ・コモの記述から、15世紀のイタリアにおけるボッタルガの文献による存在が明らかになっている。この筆記本は材料、調理時間、技術、調理器具、量を指定した最初の画期的な料理書であった。このボッタルガの製法は、現代では行われていない燻製という手間が加えられているが、これは冷蔵できなかった当時の保存手段として必要なものだったのだろう。

これと同時期の1474年、イタリアのルネサンス期の人文主義の哲学者で美食家だったバルトロメオ・プラティナ(Bartolomeo Platina)が出版した『De honesta voluptate』という書籍でもボッタルガについて言及されている。この『De Honesta Voluptate』は、世界で最初に印刷された料理本であったという点で画期的な本であり、料理文献史においても重要な一冊となっている。

バルトロメオ・プラティナこの本をラテン語で書いている。その後16世紀になると頻繁に再版されるようになり、フランス語、ドイツ語、イタリア語にも翻訳・出版され重要な料理本として流通するようになった。

Libro de Arte Coquinaria

バルトロメオ・プラティナの著書
『De honesta voluptate』


『De Honesta Voluptate』の内容は、マルティーノ・ダ・コモ(Martino da Como)が1465年に記した『Libro de Arte Coquinaria』をラテン語に翻訳・引用して、それに彼自身の註釈を付したものだった。ボッタルガについての分部もマルティーノ・ダ・コモの記述がそのまま引用されている。

バルトロメオ・プラティナがマルティーノ・ダ・コモの料理本を引用・転載したことで、そのレシピの多くが広く後世に残されることになったことはバルトロメオ・プラティナが功績であると言える。現在ではマルティーノ・ダ・コモの『Libro de Arte Coquinaria』のオリジナルの本の写筆版はほんの数部しか残っておらず、1冊は個人所有、もう1冊はバチカンの図書館に保管されており、さらにもう1冊つはワシントン議会図書館に所蔵されている。
(本稿においてリンクを付けてあるのはワシントン議会図書館に所蔵されている写筆版である)

またバルトロメオ・プラティナ自身も、マルティーノ・ダ・コモを「私が料理についてのすべてを学んだ料理人の王子」と呼んでいることから分かるように、彼の料理人としての才能を高く評価している。この時期、マルティーノ・ダ・コモはローマに拠点を置く枢機卿の料理人であり、バルトロメオ・プラティナはバチカン図書館の館長を務めていたので、バルトロメオ・プラティナ自身は何度もマルティーノ・ダ・コモの料理を味わう機会があったものと考えられる。こうした関係から、『Libro de Arte Coquinaria』の大部分がラテン語に翻訳され『De Honesta Voluptate』には多くのレシピが含まれることになったのだろう。

世に流布している様々な解説によっては、マルティーノ・ダ・コモの著作には言及せずに、バルトロメオ・プラティナの著作『De Honesta Voluptate』をもってボッタルガについての文献における始めとするものがあるが、こうした混乱・間違いは先に述べたような関係から生じていると考えられる。よってイタリアで実際に始めてボッタルガについて記述された文献は、あくまでもマルティーノ・ダ・コモの『Libro de Arte Coquinaria』であるとするのが正しいのである。

その後、イタリアではボッタルガの生産が盛んに行われ、ボラの卵巣を中心としてつくられる加工品をボッタルガと呼ぶことが定着するようになっていった。現在は英語も、このイタリア語のボッタルガ(Bottarga)という単語を用いている。ボッタルガは主に地中海沿岸の国々で作られているので、それぞれの地域にはその言語特有の呼び名もある。以下に各国のボッタルガの呼び名を記しておくことにしたい。

 イタリア語 : Bottarga / Butàriga
 フランス語 : Boutargue / Poutargue
 エジプト語 : Batarekh
 スペイン語 : Botargor
 ギリシャ語 : Avgotaraho
 ポルトガル語: Butarga
 日本語 : Karasumi
 台湾 : Wuyuzi


日本カラスミの歴史

日本にカラスミが伝わったのは室町時代の頃と考えられる。豊臣秀吉に関係したエピソードにもカラスミは登場しているのだが、これはカラスミがその当時の珍しい食べ物として海外から伝わり、珍重されたことが理由だったと考えられるだろう。

カラスミと名付けられた起源として語られる一説に、肥前国の名護屋城(現在の佐賀県唐津市)を訪れた豊臣秀吉が、これは何かと長崎代官の鍋島信正に尋ねたところ、洒落で「唐墨」と機転を利かせて答えたことに由来するというものがある。これが「唐墨」の名の始まりとして良く取り上げられているエピソードである。秀吉が名護屋城に滞在したのは文禄の役という朝鮮出兵の頃なので、1592年(文禄元年)の出来事だったということになるだろう。しかしこれは実際にあった話だったのだろうか。


豊臣秀吉とカラスミ

豊臣秀吉の問いに、長崎代官の鍋島信正が「唐墨」と答えたエピソードは広く信じられているが、この話は後付けで考えられたものだと私は考えている。なぜなら、もともとこの出来事のあった1592年(文禄元年)以前から、饗応でカラスミが膳に載せられている献立記録が幾つも残されているだけでなく、秀吉自身もカラスミを何度も口にしたはずの献立記録が存在しているからである。ここからは昔の献立を紹介しつつ、日本におけるカラスミがいつ頃から食べられるようになったのかを明らかにしておきたい。


『御湯殿の上の日記』にあるカラスミ

『御湯殿の上の日記』の1477年(文明9年)の条にある記述がカラスミの文献初見であると思われる。次のようにある。

室町殿よりお茶碗の皿。からすみなど色々まいる


『御湯殿の上の日記』は御所に仕える女官達が書き継いだ当番制の日記である。これが日本におけるカラスミの文献初見であろう。この記述の年代から当時の将軍(室町殿)だった足利義尚が御所に贈った品物にカラスミが含まれていたということになる。将軍が天皇に贈ったということなので、ここからもカラスミは非常に貴重で価値あるものだったことが理解できる。

さらに『御湯殿の上の日記』天正8年6月7日の条には、「きおんのへにて。物いみひさなかよりまいる。御あちやあちやより [からすみ] まいる」とあり、贈答品としてカラスミが御所に献上されていたことが分かる。これもカラスミが珍しく貴重なものだったからだろう。


大内義稙の御成献立

1500年(明応9年)に周防国(現在の山口県)を支配していた大内義稙が、将軍の足利義興を招いて御成を行っている。御成とは、家臣が将軍を自分の館に招いて料理や能で饗応(接待)することである。この時の御成の献立が『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』という文書に残されている。

この献立の十七献目にカラスミが膳に載せられている。ここから1500年には既に日本にカラスミが存在しており、饗応などの特別な食事では膳に載せられて食されていたことが分かる。大内義稙の御成は、秀吉と鍋島信正のエピソードの92年前の出来事であり、ここからしても秀吉が朝鮮出兵の頃までカラスミを知らなかったというのはおかしい。


足利義晴の献立

1522年(大永2年)6月に、12代将軍の足利義晴が祗園会に出向いた時の献立が『祇園御見物御成記』に残されている。その献立の二膳目に「からすみ」と書かれている。


三好義興の御成献立

1561年(永禄4年)1月23日に京都の三好邸で、三好長慶の子の三好義興が13代将軍の将軍足利義輝をもてなした御成の記録が『三好亭御成記』である。ここでは料理の二膳目と十七献目と二回もカラスミが供されている。『続群書類従』に記載されている御成の献立には、漢字でも「加良須美カラスミ」と書かれている。現在でもお目出度い料理の席の献立は、寿ぐ漢字を意図的に用いる。例えば猪口→千代久、小松菜→祝菜、粉山椒→祝粉、焼物→家喜物、ほうれん草→宝連草、カジキ→家事喜、酢の物→寿の物、スルメ→寿留女、海松貝→美留貝といった具合である。この日は将軍を招いての御成の席であるので、カラスミには加良須美と、目出度い漢字が振られたのだろう。

この献立は「進士流」の進士晴舎が取り仕切っている。進士流は武家の料理故実の流派であり、ここでカラスミが二膳目、あるいは十七献目に出されているのには注目すべきであろう。先の御成の記録を見ても分かるようにカラスミが二膳目と十七献目に載せられており、そうした先例にならってか、進士晴舎もカラスミをそのような段取りで取り扱っているからである。もうこの時代にはカラスミは二膳目と十七献目に載せられるのが有職故実としてセオリー化され、価値ある食材として饗応料理には組み込まれていたのではないだろうか。料理流は関して詳しくは「進士流」も参考にして頂きたい。

1561年(永禄4年)に行われた三好義興の御成は、秀吉と鍋島信正のエピソードの61年も前の出来事である。ここから見ても秀吉がカラスミを知らなかったとするのは非常に考えにくい。百歩譲って、秀吉は成り上がりなのでカラスミのような高級食材を知らなかった。あるいは唐墨という漢字はそれまでに無く、この字を当てたのが鍋島信正だったと反論することはできるだろうか?確かにこうした推測をする人もあるかもしれないが、こうした推測もまた誤りであることを、次の饗応献立の記録から打ち砕いておきたい。


豊臣秀吉の『行幸御献立記』

1588年(天正16年)4月14日から4月18日までの5日間、豊臣秀吉が聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰いで催された饗応の記録が『行幸御献立記』に残されている。なぜこの行幸が行われたかと言うと、豊臣秀吉は自身が関白に任ぜられ、京都に邸宅兼城郭である聚楽第が完成したタイミングに合わせて、後陽成天皇を招いて饗応したからである。この時の献立記録はすべて巻物に残されていて、そこにはアワビ、刺身、鶴の和え物などの豪華な本膳料理が際限なく供されているのを確認できる。

記録を見てゆくと行幸の初日の14日、最初の酒席の二献目の膳に唐墨(からすみ)と漢字で記載がある。また同日に食事として出された本膳料理でも二膳目にカラスミが出されている。さらに本膳料理の最後の菓子九種の膳にも唐墨(からすみ)が含まれおり、都合この日は1日に3回もカラスミが膳に上ったことになっている。

後陽成天皇への饗応は翌日の15日にも行われ、朝御膳の献立の二の膳にまた唐墨(からすみ)が出されている。

これだけに止まらず17日の朝御膳の献立の三の膳にも唐墨が出されている。

さらに18日の朝御膳の御本膳にも唐墨が出ている。

こうして見ると合計で6回もこの饗応でカラスミが出されており、しかも献立にはしっかりと「唐墨」と漢字で記載されている。この当時のカラスミは非常に珍しく高価なものであり、6回もカラスミを出していることからも、秀吉が如何に後陽成天皇に対して豪華な料理を供しようとしたのかをうかがい知ることができる。室町時代初期に成立した有職故実における美物のセオリーにカラスミは含まれていない。これは料理故実が成立して以降、カラスミが海を渡って日本に届き、膳にも載せられるようになったからであると考えられる。それでもカラスミがこの行幸では大変に珍重され、6回も膳に上がったという事実から、後陽成天皇か、あるいは秀吉がカラスミを非常に好んで食べていたということが推測出来そうである。

この饗応が行われた背景には、秀吉が関白になれたことに対して後陽成天皇を接待するという意味合いがあった。そもそも秀吉が関白になる経緯には、とんでもないウルトラCが行われ、強引な政治的な駆け引きで実現したことだったのである。なぜなら、それまで関白という位は、藤原家の五摂家の者でなければ伝統的に絶対に就任することなど出来なかったからである。藤原基経が関白になったと推定される880年から数えて、700年後になってついに伝統が崩れて、藤原五摂家でなければ就任できなかった関白という位に秀吉が強引に就任してしまったのである。その後、秀吉は養子の豊臣秀次に関白の位を譲るが、秀次以降は再び藤原五摂家の者だけが関白に就任するようになり、明治時代までその伝統は続けられるのである。

秀吉の関白就任と、京に聚楽第を完成させたという背景から、この行幸の献立を読み込んで行くと、そこには秀吉の豪勢さ(成り上がりの煌びやかさ)のようなものが透けて見えてくる。この二年前に秀吉は、後陽成天皇の祖母で前天皇だった正親町天皇への年頭の参内で、御所に金の茶室を運びこんで披露していることも、そうした秀吉の意向を読み解く鍵になるであろう。

応仁の乱以降から皇室は極度の財政難にあり、特に正親町天皇の祖父にあたる後柏原天皇の時代は非常に経済的に困窮していた時代だったのである。「川端道喜」の項でも記したが、この時期に川端道喜が毎朝「御朝物」と呼ばれる餅を献上し、後柏原天皇はこの餅を毎朝待ちわびていたとまで言われている。この時代の御所は荒れ果てていたが建て替えも出来ず、天皇たちは即位しても即位式すら直ぐには行えないという状態が数代も続いていたのである。

しかし正親町天皇の時代になり、織田信長の入京によって、天皇に対する援助が行われるようになる。こうしてようやく御所の建て替えが行われ、経済的にも安定を見せ始めるのである。こうした織田信長の朝廷援助の政策は、後の豊臣秀吉にも引き継がれ、秀吉も朝廷に対して経済的な援助を行ったのである。しかしそれは必ずしも単なる善意では無く、政治的な交渉の上に成り立つものであったことには間違いなく、そうした経済的な見返りとしての例外的に関白のような最高官位が与えられた(買った)と見るべきであろう。

豊臣秀吉

豊臣秀吉


こうした秀吉と天皇との関係からも、経済的な優位性と権力の誇示のようなものが、後陽成天皇に対する聚楽第での饗応には強烈に臭ってくる。天皇は尊重されるべき存在であるとしながら、実質的には秀吉は自分が時の権力者であることを後陽成天皇に見せつけることもこの饗応の目的だったと思われるのである。

こうした文脈の中で、饗応においてカラスミが過剰とも言える6回も出されたことは非常に意味深い。これは金の茶室と同一の方向性にある、秀吉の(悪)趣味の反映だったのではないだろうか。貴重で手に入りにくいカラスミを多用することで、この饗応献立を豪華に演出したとも言えるのかもしれない。例え豪華さという理由があったとしても、秀吉がカラスミ多用し過ぎてしまった感は否めない。『行幸御献立記』の献立を読んでいる時に、わたしは魯山人の『料理一夕話』にあるエピソードを思い出したので紹介しておきたい。

【 料理一夕話 】 食通
ある日、山荘を訪れた黒田初子さん(料理研究家)が、土産に持ってきたチーズを、私がよろこんだので、別れる時、
「家にまだたくさんございますから、帰ったらお送りしましょう」
と言ったので、
「あなたは幼稚だ。自分が星岡茶寮をやっていた時、お客さんに出したものがとても気に入られ、もう少しないかと言われると、台所には腐るほど山と積んであっても、残念ながら、もうございません、と答えていた。そうすると、客はこの食物をいつまでも忘れずにいて、ああ美味しかった、もっと欲しかった、と思うが、サアサアとうんざりするほど持ってくると、あとは忘れてしまうものですよ」
と、言ってやった。


私は魯山人の言うことを何でも手放しで称賛する者ではないのだが、このエピソードは大変に気に入っていて、折にふれて何度となく人に話すことがある。何故ならここには味において人を喜ばせることの本質的な要素があるように思えるからである。

この魯山人のエピソードを下敷きにして、秀吉が後陽成天皇を饗応した『行幸御献立記』の献立を読んでみると、カラスミの多用は豪華さを演出するものとはなっておらず、むしろマイナスで、単なる成金趣味のような構成としか思えない。いくら高価で貴重な食品であっても、短期間にあれだけ出すのは如何なものだろうか。

特に初日の14日は、同日に3回もカラスミが出され、菓子膳にまでカラスミが載っているという有様である。当時の菓子膳には昆布や椎茸なども乗せられることがあり、菓子膳にカラスミがあることが違和感があるという訳ではない。先に酒の肴として、さらに料理として出されてたカラスミが、同じ流れの中でまた出されるという献立の構成に違和感があるのだ。

さらに15日、17日、18日の朝食にはいずれもカラスミが出されている。これは後陽成天皇が14日に食べたカラスミを気に入り、立て続けに朝食にはカラスミを一品追加したというようにも推測できる。だとすると魯山人が言った「幼稚だ」が正に当てはまる献立構成である。ここは一点集中で、肝心の食膳にだけカラスミを出して印象付けるべき演出が求められたはずなのである。

聚楽第行幸図屏風

「聚楽第行幸図屏風」
輿に載って聚楽第に向かう後陽成天皇


通常、御成というものは、儀礼的な饗応であり入念な準備の元で進められるので、急遽、献立構成を変えるということは有り得ない。カラスミが6回も出される献立構成がもともと初めから決まっていたとするならば、それはそれで凄い違和感ではないだろうか。

貴重で高価なカラスミを何度も出すという豪華な食事のための演出だったのだろうか。実際のところは知る由もないが、いずれにしてもこのカラスミの出し方は幼稚である。こうした献立における構成からも、秀吉の成金感覚が漏れ伝わってくるように思える。

興味深い事にこの行幸を調査してみると、行幸2日目の4月15日に、当初は3日間の予定の行幸が、秀吉の願いにより5日間に延長されたと『聚楽第行幸記』にある。つまり17日と18日のカラスミは追加された予定外の献立に含まれることになる。百歩譲って、急遽変更されたスケジュールのために、カラスミがダブって追加で出されてしまったという見方をする方もおられるかもしれない。

しかしわたしはそうは考えておらず、やはり初めから決まっていた献立だったのではないかと考える。なぜなら延長が決まった4月15日には、秀吉は、この行幸に参加している、徳川家康を始めとした全国の諸大名から次のような宣誓書(起請文)を取っているからである。

【 聚楽第行幸記 】
一、関白殿被仰聴之趣。於何篇聊不可申違背事。

一、関白殿仰せ聴さるゝの趣、何篇において、聊(いささか)も違背(いはい)申すべからざる事。


この意味は、関白の秀吉殿の仰ることは何であろうとも、少しも背くところはありませんという宣誓である。しかもこの宣誓書の最後には様々な神々や仏の名前が並べられており、そうした神々や仏に誓わせ、さらに駄目押しでこれを後陽成天皇の前で誓わせようとしているのである。実はこの行幸の目的は、天皇を担いで、その天皇の眼の前で各大名が秀吉への忠誠心を誓わせることにこそ主目的があったようにすらうかがわれるのである。

この宣誓書が出されたのが15日。本来であれば翌日の16日の朝に後陽成天皇は行幸を終えるスケジュールであったが、そこからさらに2日も行幸が伸ばされたのでる。つまり参列した各大名にとっても15日から4日間、秀吉のもとで饗応に参列しなければならなくなり、宣誓書には否が応にも署名を入れなければならない状況が作り出されたというようにも読めるのである。

こうした状況をつくり出すことも秀吉の思惑だったはずである。よってわたしは内々には初めから5日間の行幸の予定が組まれており、料理においても準備が既になされていたはずであると推測するのである。こうした背景を考察すると、カラスミが6回も出されたも、そこに秀吉の背後にある何からの意向を汲み取る事が出来るように思えるのである。

御成の料理献立まで秀吉が決めていた訳はないので、これをもって秀吉の料理に対する感性を成金感覚とするのはおかしいとする見方もあるかもしれない。実際にこの献立手配を行っていたのは以下の各担当奉行たちである。

 御献賄: 小出播磨守(小出秀政)
 御膳賄: 山口玄蕃頭(山口宗永)
 御菓子賄:石川伊賀守(石川光重)

小出秀政はもともと織田家の家臣の出であり、秀吉とも同郷である。名前に付いている秀の字は、秀吉から与えられた偏諱であり豊臣家の一門衆として大名になった人物である。
山口宗永は豊臣秀吉の家臣であり、その後、秀吉の甥・小早川秀秋の付家老として補佐を行った。後に加賀大聖寺城の独立大名にも取り立てられたが関ヶ原の戦いで西軍についたことで最後は自害した豊臣側の人物である。
石川光重も豊臣秀吉に仕え、聚楽第行幸の際には御菓子賄としてだけではなく天皇の鳳輦に供奉する役割を務めており、秀吉の側近として活躍した人物だった。石川光重の子達はいずれも大名に出世したが、西軍に組したために領地を没収されている。

このように酒席・食事・菓子の担当を務めた者たちがいずれも豊臣秀吉の信頼の厚い武将たちだったことを考えると、彼らが料理の手配をするにおいて秀吉を全く意識しなかったというようなことは有りえないだろう。また交渉的な接待において招く側が、招いた側の客の好みを事前に調査して把握しておくような事は基本中の基本である。

さらに言うと、この行幸全体を取り仕切る奉行を命じられたのは民部卿の前田玄以であった。しかも前田玄以は、秀吉から「過去に行われた行幸よりも盛大にして金を惜しむな」と命じられていたのである。こうした意向は当然ながら酒席・食事・菓子を含む全ての采配に反映されたはずで、全体を統括する前田玄以の下、これら三奉行がいずれもカラスミを用いたことも、そうした秀吉の意向を反映したものであったことに違いは無いだろう。

実は天皇の行幸は150年間途絶えており、前田玄以は諸家の古い記録・故実を調査し、それに基づいて必要な装束・備品・調度類を揃えるなどの準備を行っている。こうした調査と準備は、同様に料理においても行われたはずであり、故実に従ってそうした料理の手配も行われたはずである。そうした故実を下敷きにした料理でありながら、そこにカラスミが何度も含まれたことは注目すべきであると思う。カラスミは、伝統的な故実料理には含まれていない食品であったが、それでも何度も出されたということには、そこに何らかの必然性があったと見なすべきだからである。そうした理由で、わたしは後陽成天皇の好物がカラスミだったか、あるいはカラスミという高級食材を使うことによる豪華な食膳の演出の意図があったと推測するのである。

いずれにしても、そのどちらもの理由が、カラスミが価値ある貴重な食品であったことを示唆するものとなっており、やがてはカラスミという食材が饗応には必要な重要なものとして二献目、あるいは二膳目に組み込まれてゆくプロセスをそこに見る事が出来るのである。つまり新たな料理故実の創出がカラスミに対して行われたといようにも捉える事が出来るだろう。

加えて秀吉が出向いて御成を受けた記録にもカラスミの記録がある。『豊臣秀吉土佐元親亭江御成献立記』は、1596年(慶長元年)4月27日に秀吉が伏見の長宗我部元親邸に御成した献立である。ここでもやはり本膳料理の二膳目に「からすみ」とあり、武家の饗応においてカラスミは欠かせないものとなっていたことが読み取れる。このように16世紀になって上級武士の間で一般してきたカラスミは、饗応の席には欠かせないものとなっていたと見なすべきだろう。


豊臣秀吉と唐墨

さてだいぶ遠回りになったが、ここで再び、秀吉が名護屋城で出された食べ物の名前を尋ね、長崎代官の鍋島信正が「唐墨」と答えたことが、カラスミの起源であるとする一説に対して検証を加えることにしたい。

先にすでに説明したように、1588年(天正16年)4月14日から4月18日までの5日間にかけて行われた『行幸御献立記』にある記録から考えるならば、4年後の朝鮮出兵の頃に秀吉がカラスミが何たるかを知らずに尋ねたなどということはナンセンスである。秀吉はすでに何度もカラスミを口にしており、また主人としてそれを天皇に6回も供することさえ行っていたからである。

よって結論から言えば、名護屋城での唐墨に関するエピソードは後世になって加えられた間違ったものであると考えるべきものだろう。そもそも鍋島信正の唐墨エピソードは伝承のみで、それを裏付ける明確な史料すら存在していないのである。鍋島信正は長崎代官だったので、長崎特産のカラスミが有名になりブランドイメージが高まってゆくなかで、このような話が付け加えられていったのだと考えられる。

しかしここで秀吉が出されたカラスミが何であったのかを認識できなかったと考えられる可能性も合わせて述べておきたい。次の三つのいずれかの状況が該当するのであれば、秀吉はカラスミを指して、これは何かと尋ねた可能性があったのかもしれない。

 ① 秀吉は丸のままのカラスミを知らなかった。
 ② 秀吉の知っているカラスミと色が異なっていた。
 ③ 秀吉の痴呆症

よってこの三点の考察を以下に検証しておく事とする。


① 秀吉は丸のままのカラスミを知らなかった

饗応の膳に出されるカラスミは、切って皿に中心が高くなるように重ねる方法、つまり高盛りにして出されていたようである。秀吉は何度もカラスミを口にしていたが、皿に盛られたカラスミしか知らず、この時に初めて丸のままのカラスミを見たとしたならばどうだろう。中国で産する墨のような不思議な形をしたそれを見た秀吉が、その食べ物の名前を何かと問うた可能性が考えられないだろうか。


② 秀吉の知っているカラスミと色が異なっていた。

最初に長崎で作られていたカラスミは、現在のようなボラの卵巣ではなく、鰆(サワラ)の卵巣から作られていたとされている。ボラの卵巣が用いられるようになるのは延宝3年(1675年)に高野勇助が長崎県・野母崎付近の海域で豊富に漁獲されるボラの卵でカラスミの製造を始めてからである。サワラで作られるカラスミは色が濃く、ボラの卵巣から作られるカラスミのような黄金色ではない。
この時代はまだカラスミがあまり国内生産されておらず、主に海外から輸入されていたボラの卵巣から作られるカラスミを秀吉は食べていたと考えられる。よって国産カラスミ草創期の、長崎産のサワラの卵巣から作られたカラスミを出された時に、秀吉は色が異なる為にそれが何だか分からなかったという可能性がある。


③ 秀吉の痴呆症

晩年の秀吉はアルツハイマー性の痴呆のような行動が見られるとする説がある。特に1590年以降にその傾向があり、北野大茶会を初日で中止したり、豊臣秀忠を自害に追い込んだ後、その一族郎等をみな斬首に処したことはその表れではないかとも考えられている。さらに朝鮮出兵そのものも 、秀吉が痴呆によって言い始めた壮大すぎるグランドビジョンだったのではないかとする指摘もある。

こうした朝鮮出兵の最中に、このカラスミ(唐墨)エピソードが生まれたのかもしれないことを考えると、秀吉はいつも食べていたカラスミが、その時は何かを思い出せずに、鍋島信正が尋ねたという可能性も考えられるのである。


秀吉と唐墨

日本におけるカラスミの起源は諸説あるが、室町時代の16世紀ぐらいになるまで多数の饗応の記録には現れていない。つまりこの頃になってようやくカラスミは海外から日本に輸入されるようになったものと考えられる。

カラスミは唐墨と漢字で書かれていることから、中国から入ってきたもののように思われているが、実際には中国は経由地であり、本来は海陸のシルクロードを通じて中国に伝わったものが、最終的に日本に到来したものであると考えた方が良さそうである。

こうした時代的なタイミングや、ヨーロッパとの貿易の始まりから考えると、日本でのカラスミの普及には宣教師が大きく関係していたのではないかという推測をわたしは持っている。彼らが地中海を中心に食べられていたカラスミを中国や日本に伝えたのではないだろうか。これらは日本の各地に残る烏賊墨を用いた郷土料理の起源が宣教師由来であることにも通底する。こうした烏賊墨料理については「浅黄鯛」のなかで、長崎:イカの黒みあえ、富山:イカの黒煮(黒作り)、沖縄:イカ墨汁とそれぞれ取り上げているので参考にして頂きたい。

中国大陸からカラスミは伝えられたとは思われるが、中国ではそこまでカラスミは珍重されて食べられてはいない。カラスミはむしろ台湾の方が産地として有名で烏魚子(オヒイチイ)と呼ばれて食べられているくらいである。これはカラスミが海周りで西洋から日本に伝えられたことを表しているようにも思える。いずれにせよカラスミは地中海沿岸で生まれ、長い旅をして極東の日本にまで伝えられて進化を遂げた加工食品であることには間違いなさそうである。


長崎とカラスミ

日本でのカラスミの産地といえば長崎が真っ先に名前があるほど有名である。これはカラスミがもともと日本由来の食品ではなく、輸入によって日本に入ってきたものが長崎に伝えられたものであることを示している。また江戸時代となり、鎖国が敷かれて以降、長崎は海外貿易の窓口だったこともその大きな理由であろう。

この時代の長崎は海外の先進的な文化が入ってくる場所であった。『鯛百珍料理秘密箱』の作者も長崎で卓袱料理を学んだとされており、そこからも料理においても長崎という土地は例外でなく、新しい気風があったことがうかがえる。

その長崎で現在のようにボラの卵巣が用いられるようになるのは、延宝3年(1675年)に高野勇助が長崎県・野母崎付近の海域で豊富に漁獲されるボラの卵でカラスミの製造を始めてからである。この子孫は現在でも高野屋としてカラスミの製造と販売を行っている。

高野屋の初代となる高野勇助は、熊本県八代地方に生まれたが、1620年(元和6年)頃に、父の高野九右衛門が出島の埋め立ての普請に携わるために長崎に移住してきたという。その後、高野勇助は万屋町近辺で魚屋を開き、舶来品のカラスミを知り製造を始めることになる。当時から長崎半島の先端部に位置する野母崎で、良質なボラが水揚げされていることから、それまでのサワラを使ったカラスミではなく、新鮮なボラの卵巣で作ることで現在のようなカラスミが作られるようになったそうである。

大田南畝が勘定方として長崎奉行所へ赴任した際にカラスミについて詠んだ狂歌が残されている

 味わいは 和歌も狂歌も一双の
     筆とりてすれ 野母のからすみ


カラスミを唐墨に見立てた上手い狂歌となっている。


現代のレシピ

鯛を三枚におろし、一日ほど塩をしておく。
鯛を細く横造りにし、長さ3cmぐらいに切る。
 ↓
酒1杯、醤油1杯、酢1杯、この3つを煮返してから冷ましておく。
細切りにした鯛をこの汁に漬けて染み込ませる。
 ↓
カラスミは表面の皮を剥いで、おろし金でバラバラにしておく。
 ↓
鯛の汁を切ってから、カラスミをよくかき混ぜてから皿に盛る。






参考資料



『The mastaba of Ptahhetep and Akhethetep at Saqqareh』  Davies, Norman de Garis

『The mastaba of Ptahhetep and Akhethetep at Saqqareh』  Davies, Norman de Garis, 1865-1941; Griffith, F. Ll. (Francis Llewellyn), 1862-1934

『Offering scenes in the Chapels of HATSHEPSUT』  Anastasiia Stupko-Lubczyńska

『The Scepter of Egypt』  Hayes, William C. (1978)

『Ancient Food Technology』  Robet I. Curtis

『The Pyramid of Senwosret I』  Dieter Arnold

『The Scepter of Egypt』  William Christopher Hayes

『明応九年三月五日将軍御成献立』  山口名物料理創出推進会議

『史料から見た御成と池遺構出土資料』  堀内秀樹

『客膳形態の変遷と現代の様相』  谷口歌子

『客膳形態の変遷と現代の様相(Ⅲ)』  谷口歌子

『天正年中聚楽亭両度行幸日次記』  活字記載

『聚楽第行幸記』  写本

『聚楽第行幸記』  活字

『古事類苑』飲食部四/料理下  行幸御獻立記

『古事類苑』飲食部四/料理下

『史料から見た御成と池遺構出土資料』  堀内秀樹

『The art of cooking - the first modern cookery book』  Maestro Martino of Como

『Libro de arte coquinaria』  Martino da Como

『De honesta voluptate』  Bartolomeo Platina

『第11回 鍋島直茂とからすみ』  KIRIN 未来シナリオ会議