ププラン(poupelin)

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菓子ププランについて


ププラン(poupelin)は、その起源を中世にまで遡ることができる歴史的な菓子である。しかし現在ププランはつくられることもなくなってしまい、あまり聞きなれない過去の菓子となってしまった。なぜププランが消えてしまったかというと、18世紀末~19世紀初頭に誕生したシューがこうした類の菓子で主流となり、ププランに取って代わってしまったからである。残念ながらププランは菓子の表舞台からは消え去ってしまったが、それでもその歴史はシューのなかにひっそりと息づいていると言っても良いだろう。

ププラン(poupelin)


ププランという菓子は、料理書によって「Popelin」、「Poupelin」あるいは「Poupelins」というように幾つかの異なるスペルで記載されることがあり、これらの発音をどのように日本語で記載すべきかは難しいところである。ポペリン、ポペランとも発音できるが、ププランが最も近い発音であるように思われることから、本稿では「ププラン」という表記で統一することにしたい。

ププランもシューと同様に、生地を焼いて詰め物をして食べられてきた菓子である。ちなみにププランは乳房のかたちにつくられていたことが、1998年出版の『Classic patisserie』p45で説明されており、ここから当時のププランのおおよそのサイズ感が理解できそうに思える。16世紀頃から存在するププランに似たペイストリーに「プロフィットロール」があるが、こちらはププランよりも小さめに作られ、生地の使われ方も異なっていた。

ププランもプロフィットロールも、起源をたどるとその歴史を共有していたが、やがてこれらはシューに集約されてゆき、現代ではシューがこうしたタイプの菓子の圧倒的な代表格となってしまっている。そこでこのシューの起源に、ププランがどのように関わっているのか紐解いてゆくことで、ププランの歴史そのものについて明らかにすることにしたい。


シューの起源


シュー生地は、シュークリームに代表されるように、現在ではごく一般的な菓子でつかわれる材料である。しかしシューが完成したのはようやく19世紀に入って偉大な料理人のアントナン・カレームが活躍を始めた頃になってからである。そもそもシューは、1533年、カトリーヌ・ド・メディシスがフランス国王となるアンリ2世(1519-1559)との結婚に際して、イタリアから随行してきたパティシエによってフランスに持ち込まれたという説が主流になっている。

カトリーヌ・ド・メディシス

カトリーヌ・ド・メディシス(1519 - 1589)


しかしカトリーヌ・ド・メディシスの結婚によってあらゆるものがイタリアからもたらされたという説に対して否定的な意見もある。この時にイタリアから、アイスクリーム、フロランタン、マカロン、ホイップドクリーム、そしてシューもフランスに持ち込まれたとされているのだが、これらには文献的な裏付けとなる記録が存在していない。しかしこうした根拠を伴わないカトリーヌ・ド・メディシスを起源とする説が広く信じられており、それがあたかも揺るがしがたい真実でもあるかのように定説化してしまっている。

『La table de la Renaissance - Le mythe italien』は、18世紀に始まり現代まで信じられてきた神話的とも言える、そうした盲信に対し問題提起をする料理の歴史書であり、今後のフランス食文化を理解するうえでも重要な一冊であるとわたしは考えている。この本には複数の歴史家たちの論文が編纂されており、さまざまな角度から、カトリーヌ・ド・メディシスと共にもたらされたという様々な食に対する検討が行われ、定説化してしまったこの考え方を疑問視している。それはシューにおいても同様であって、16世紀のイタリア由来とする盲信的に受け入れられてきた見方を我々も改める必要があるだろう。

La table de la Renaissance

『La table de la Renaissance』 2018



ピエール・ラカムの起源説


ピエール・ラカム(Pierre Lacam:1836-1902)は19世紀の料理書の著者で、またパティシエとして活躍した人物である。彼は美食家の逸話や偉大なシェフたちの伝記に通じており幾つかのデザートについての書籍を出版している。またパティシエとしてはマカロンで有名なラデュレのシェフを務めるなど、一流のパティシエとしても活躍した。

ピエール・ラカム

ピエール・ラカム
Pierre Lacam:1836-1902


ピエール・ラカムはシューの起源について、1893年刊の『Le glacier classique et artistique en France et en Italie』のなかで次のように述べている。

【 Le glacier classique et artistique en France et en Italie 】p47
シュークリーム。その起源、ポペラン(ププラン):
1540年にアンリ2世の妻カトリーヌ・ド・メディシスがフランスに来たとき、彼女はフィレンツェからスタッフ、コック、アイスクリーム職人、菓子職人、蒸留職人を連れてきた。フランスは菓子作りがほとんど進んでいなかった。その料理長はポペリーニ(Popelini)という人物だった。彼は、火の上で乾燥させて水分を蒸発させた菓子のレシピを持参し、それにより宮廷で自分の名前にもなっている素晴らしいデザートを作ったが、それは後にポペリーニではなくポぺラン、あるいはププランと呼ばれるようになった。この菓子とケーキは、1770年まで同じ形と同じ名前を保っていた。


ピエール・ラカムは、ポペリーニ(Popelini)というイタリア人のパティシエがシューの原型となるププランという焼き菓子を作ったと説明している。しかし既に先に述べたように、カトリーヌ・ド・メディシスの結婚によってシューがフランスに持ち込まれたとする文献はどこにも存在しておらず、ましてやポペリーニなるパティシエへの言及など皆無である。実際にはこのポペリーニなる人物は存在していなかったはずである。なぜならポペリーニは、ピエール・ラカムが勝手に想定した架空のパティシエだからである。よってこのピエール・ラカムの起源説は絶対に鵜呑みにしてはならない。

しかし専門書であっても、誤ってこれをシューの起源説のなかに取り入れてしまっている場合が多く、またカトリーヌ・ド・メディシスに由来するシューの歴史に対する信仰は非常に根強い。例えば1998年にクロード・ジュリエット(Claude Juillet)が著した『Classic patisserie』p45でも同じような誤った説明がなされている。その誤りとは、1540年にカトリーヌ・ド・メディシスの料理長のパンテレッリが、ガトーを作るための熱い乾燥ペーストを発明し、彼はこのペーストをパテ・ア・パンテレッリと命名したこと。さらに当初のレシピは年月の経過とともに変化し、ペーストの名前もパテ・ア・ポペリーニと呼ばれるようになり、さらにパテ・ア・ポペラン(pâte à Popelin)あるいはププランと呼ばれるようになったとしていることである。

この説明は明らかに、19世紀にピエール・ラカムの書いた文章から引用したものであり、シューの起源を説明する上で、創作の混濁した不正確なものであると言わざるを得ない。どうしてこのような創作が行われたのかというと、ププランと呼ばれる菓子の起源が分からなかった為に、何とかその名前の由来を説明しようと、ラカムが菓子名から遡って、架空の人物名を考えたからである。この根拠のない架空の説明が後世に与えた影響は大きく、混乱をきたさない為にも、改めてラカムの創作したこの起源説はしっかりと否定されるべきだろう。

先にも指摘したようにアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの婚姻をあらゆる料理の起源説とするのは、現代のアカデミックな歴史学会では根拠のない伝説的なものとなりつつある。
また一般的なシューに関する説明も、「カトリーヌ・ド・メディシスの時代にシュー生地の原型がフランスに伝わった」としながら、その後は一気に300年ぐらいの経過をすっ飛ばして、突然に「ジャン・アヴィスがシューを考案し、その弟子のアントナン・カレームが完成させた」という説明になっている。これだと途中が抜けているために、かなり話が飛んで唐突な説明になってしまっている印象である。実はこのミッシングリンクのようになっている300年間を埋めるのがププランであり、ププランについての歴史を紐解くことであまり詳しく語られることのないシューの歴史もまたより鮮明になってくるものとわたしは考えている。

本稿ではシューの前身であるププランがどのようなものだったのかを説明し、さらにはこれに類する「エクレア」、あるいは「プロフィットロール」との関係性も明らかにすることにしたい。


ププランの歴史文献


ププランの歴史は古く、既に中世の時代には存在していた。そのことは歴史的な文献から明らかにすることが出来るので、過去の文献からププランの存在を明らかにするとともに、ププランがどのように変化したのかその軌跡も合わせてたどることにしたい。


1349年:『Le Livre des mestiers de Bruges et ses dérivés』


菓子ププランの文献初出は『Le Livre des mestiers de Bruges et ses dérivés』Jean Gessler版(全5巻)の第1巻p.14にある。このオリジナル版は1349年にフランドル地方(現在のブリュージュ)で、この地域のオランダ語を話す人にフランス語を教えるために作成された会話集として出版された。ここにはププランに関する、以下の一文がある。

【 Le Livre des mestiers de Bruges et ses dérivés 】
D'oefs et de lait fait on flans et matons;
d'oefs et de fleur fait on  pouplins  et canestiaus.
Tartes sont boines;
aussi sont darioles et waufres,
wastiaus et tourtiaus.
Craime et froumegie ne fait mie a refuser.

【 訳文 】
卵と牛乳でフランとマトンタルトを作り、
卵と小麦粉で ププラン とカネスティオを作る。
タルトは美味しい。
ダリオルとワッフルも美味しい。
ワスティオ(菓子)とトルティオも美味しい。
クリームとチーズは断るべきではない。


ここには幾つかの菓子と共にププランについての言及がある。この文献から14世紀(1349年)には既にププランが存在していたことが理解できる。先にシュー生地がフランスに伝えられたのは、1533年のカトリーヌ・ド・メディシスの輿入れが一般的な伝播説であるとされていると述べたが、既にその200年以上も前に、ププランが北フランス(現在のベルギー:ブリュージュ)に存在していたことを、この記録から確認出来るのである。こうした記録からしてシューの起源がカトリーヌ・ド・メディシスに由来するという説は不正確であり、何でも起源をカトリーヌ・ド・メディシスの輿入れとする見解は改める必要があることに気付かさせられる。

Le Livre des mestiers de Bruges et ses dérivés

『Le Livre des mestiers de Bruges et ses dérivés』
1931年:Jean Gessler 編


またこのような14世紀の記録が存在することを確認すると、先ほどのピエール・ラカムのシュー起源説、「カトリーヌ・ド・メディシスのパティシエだったポペリーニ(Popelini)が考案したのでポぺラン、あるいはププランと呼ばれるようになった」とする記述は、痛々しいほどまでにいい加減で、何の根拠にも基づかない創作説であるとはっきりと断言できる。


1533年:シャルル9世の勅許


1566年にシャルル9世がパティシエのギルドに与えた「勅許状」の中にププランは登場している。実はこの「勅許状」の全文をまだ入手出来ておらず、わたしはフランス公文書院にあるデータを探しているのだが、どうも全文公開されていないようである。継続して調査を続けているので、出典元となる原文が見つかれば追って引用公開することにしたい。

いずれにしても、パティシエが扱う商品にププランが含まれていたことから、公文書のなかでもププランに関する言及がなされ、この菓子の存在を確認することが出来るということなのである。


1611年:仏英辞典


次に挙げるのはイギリスの辞典編纂者だったランドル・コットグレイブ(Randle Cotgrave:?-1634)が、1611年にロンドンで出版した仏英辞典である。この辞典のタイトルは、『A Dictionarie of the French and English Tongues compiled』であり、この辞典にフランス語の「ププラン」が掲載されており、その意味が英語で以下のように説明されている。

【 A Dictionarie of the French and English Tongues compiled 】
Popelins:
Soft cakes made of fine flower, kneaded with milk, sweet butter, and yolkes of egges; and fashioned, and buttered, like our welsh barrapyclids.

【 訳文 】
ププラン:
上質な小麦をミルク、甘いバター、卵黄で練り込んだ柔らかいケーキ。 ウェールズのバラピクリッドのように成形され、バターが塗られている。


ここでププランは小麦から作られる菓子であることが示されている。バラピクリッド(barrapyclids)というのは、14世紀からウェールズで食べられていた菓子のことである。神学者ジョン・ウィクリフは、1382年の翻訳聖書『Wycliffite Bible』の出エジプト記29章23節に登場している菓子を「クロムピドケーキ:Crompid Cake」と訳出している。バラピクリッドとは、英語版の聖書で訳されたクロムピドケーキと同じものであり、古くから存在していた菓子であることの証となっている。

ププランは、フランスから伝えられたフランス語名の菓子だが、イメージしてもらい易くするために、イギリス国内で昔から食べられてきた類似する菓子を引き合いに出して分かり易く説明したのだと考えられる。

Egloges of Alexander Barclay

『A Dictionarie of the French and English Tongues compiled』
Randle Cotgrave 著:1611年刊



1690年:『Dictionnaire universel』


次に取り上げるのは『Dictionnaire universel, contenant generalement tous les mots françois, tant vieux que modernes』という百科事典的な性格をもったフランス語辞典で、アントワーヌ・フレティエール(Antoine Furetière:1619-1688)によって編纂された。ププランについて次のように述べている。

【 Dictionnaire universel 】
Poupelin:
piece de four, patisserie delicate fatie avec du beurre, du lait & des oeufs frais, paitrie avec de la fleur de farine. On y mele du sucre & de l'ecorce de citron, Le popaios, qui signifie une espece de tourte ou gateau.

【 訳文 】
ププラン:
バター、牛乳、新鮮な卵で作られた繊細な小麦粉のペイストリーをオーブンで焼き上げたもの。 砂糖とレモンの皮を混ぜる。ポパイオ(popaios)とはタルトや菓子の一種を意味している。


後のププランについての説明のなかに「繊細な:デリケートな」という表現が良く見られるようになる。この辞典の説明は、こうした表現を初期に使用したものだと考えられる。この頃にププランの洗練が進んだことで、こうした表現が加わったのだろう。

Egloges of Alexander Barclay

『Dictionnaire universel』
Antoine Furetière 著:1690年刊



1758年:『コーモスの贈り物』


18世紀の料理書で、「フランソワ・マラン」が1758年に出版した『コーモスの贈り物:Les dons de Comus』には、ププランに関する幾つかの言及がある。マランは、ププランのレシピ説明で「パテ・ロワイヤル」というシュー生地のつくり方を紹介し、これをププランに用いている。よってまずは「パテ・ロワイヤル」の説明から引用しておく。

【 コーモスの贈り物 】p12
Pâte Royale(パテ・ロワイヤル)
鍋に水1パイント、少しの塩、バター1/4を入れ、少し沸騰させる。その後、生地がしっかりとするまで小麦粉を加えて常に混ぜ続ける。生地が鍋から離れるまで混ぜ続けたら、火から取り除き、次にレモンの皮をすりおろし、生地が指にくっつくまで卵を1つずつ加えてゆく(生地が指にくっつき始めると分かる)。その後、この生地を使う。生地をもっと固くしたい場合は、もっと小麦粉を加えることができる。また水の代わりに牛乳を使っても良い。


「ロワイヤル:王室」を冠する生地である。これを筆者のマランが考案したのかは定かでない。しかしマランはルイ15世とその公妾のマダム・ポンパドールと近しい関係にあった スービーズ公 に仕えていたことがあり、何らかの機会にこの生地をつかった菓子で王とその愛人を供する機会があったのかもしれず、この名称もそのような経験に由来しているのかもしれない。いずれにせよパテ・ロワイヤルは、『コーモスの贈り物』に登場する菓子によく用いられている基本的なパテなのである。

『コーモスの贈り物』

初版『コーモスの贈り物』フランソワ・マラン著


では次に、菓子のププランにパテ・ロワイヤルがどのように使われていたのか、ププランのレシピから確認してみることにしたい。

【 コーモスの贈り物 】p110
Poupelin(ププラン)
前述のようにパテ・ロワイヤルを作り、適切な固さにしておく。バターで覆われた天板を用意し、その上に1インチの厚さで、ププランに必要な大きさの生地を広げて、しっかりと接合する。その周りに生地の高さ3本分のバターで塗った紙をしっかりと巻いておく。それを穏やかな熱のオーブンに入れて均等な火で焼く。十分に膨らんできて、表面がしっかりと乾燥するまで焼く。紙を取り除き、冷ましたら半分に切って中身を取り除き、残った部分には良質なバターを塗っておく。上には粉砂糖と、細かく刻んだレモンの皮のコンフィを振りかけ、オーブンで少し乾燥させるか、焼きごてを表面に当てる。その後、ププランを元の形に戻し、上から砂糖(ノンパレイユ)かシナモンを振りかけ完成である。


このププランは、現代のように中にしっかりとクリームなどの詰め物を行うのではなく、レモンのコンフィを散らしてキャラメリゼした菓子である。このププランは生地のサクッとした軽い食感を楽しむ菓子だったということになる。

他にも、同じくパテ・ロワイヤル(シュー生地)をつかった菓子が『コーモスの贈り物』には掲載されている。次に引用するのはカルトゥーシュという名称の菓子である。

【 コーモスの贈り物 】p111
Cartouches(カルトゥーシュ):
パテ・ロワイヤルを用意。天板にバターを塗り、パテ・ロワイヤルを「カルトゥーシュ」の形に広げる。オーブンでププラン(Poupelin)と同じように焼く。焼きあがったら片側を開け、そこからクリームやジャムなどを中に入れ提供する。


基本的な作り方は先に挙げたププランと同じで、この菓子はププランの別バリエーションである(同料理書のなかでもププランと同じところに書かれている)。大きな違いは形で、生地をカルトゥーシュの形状にすると書かれている。カルトゥーシュとは楕円形の装飾枠のことである。古代のエジプトの文書や記念碑にファラオの名前は神聖性を強調するために楕円で囲って装飾された。この装飾の呼び名がカルトゥーシュである。

このような長い形に生地を形成して焼くという方法は、どこか「エクレア」を連想させないだろうか。しかし歴史的にはエクレアは19世紀に入って、フランス料理史における巨匠であると高く評価されているアントナン・カレームが発案したことになっている。

Cartouches(カルトゥーシュ)

カルトゥーシュ(Cartouches)


菓子カルトゥーシュは、膨らんだ生地のなかに詰め物をしており、これもエクレアと同じである。唯一の欠けた要素は、カルトゥーシュには表面にフォンダンによるコーティングがなされていないことである。常識的にはエクレアにはフォンダンによって表面がコーティングされているべきであるが、最近のエクレアは表面にフォンダンをかけずに、シューを横に切って「クレーム・シャンティイ」などを詰めただけのエクレアも出てきているので、こうした定義は曖昧になりつつあるのかもしれない。

エクレア

現代のフォンダンの無いエクレア


今後、もし表面のコーティングという必須条件がエクレアに必ずしも求められない時代になったとしたら、「フランソワ・マラン」がここに記した「カルトゥーシュ」のレシピは、エクレアの最初ということになり、カレームの発案よりも50年ほど遡ることになってしまうかもしれない。

カルトゥーシュのレシピの後に、マランはさらに以下の二つのレシピを掲載している。

【 コーモスの贈り物 】p111
Petits Choux(プティ・シュー):
より繊細かつ美味しくするには、生地に少量の小麦粉を入れる必要がある。小麦粉は少しずつ追加し、少量の小麦粉を2つかみして加え大きな皿を作り、残りを均等に混ぜてゆく。実際に作ってみることで、より良く理解できるようになるはずである。

【 コーモスの贈り物 】p111
Petits choux fardcis(詰め物をしたプティ・シュー):
構成は同じで、焼きあがったらカルトゥーシュと同様に仕上げをする。


興味深いことに、マランは既にこれをシュー(choux)と呼んでおり、これをもってシューの完成とすることも可能かもしれない。ただ小麦粉をププランよりも加えていることから、柔らかいというより、今よりももっとしっかりとした固めの焼き上がりだったということになる。


1767年:『Dictionnaire portatif de cuisine』


1767年にパリで出版された『Dictionnaire portatif de cuisine, d’office, et de distillation』にも、ププランについての説明が掲載されている。

【 Dictionnaire portatif de cuisine 】第2巻,p251
Poupelin:
pâtisserie délicate, qu’on fait avec beurre, lait, œufs frais, dont on pétrit de la fleur de farine : on y même du sucre & de l’écorce de citron.

【 訳文 】
バター、牛乳、新鮮な卵を使い、小麦粉と合わせてこねて、砂糖とレモンの皮を混ぜて作る繊細なペイストリー。


ここにも繊細なペイストリーという表現が見られる。

Dictionaire oeconomique, or, The family dictionary

『Dictionnaire portatif de cuisine』第2巻
Chez Vincent 編:1767年刊



1769年:『百科全書』


マランが『コーモスの贈り物』を出版した後、フランスで最初の百科事典の『百科全書』(Encyclopédie ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers)の刊行が始まる。『百科全書』は、全28巻(本文17巻、図版11巻、後に補巻・索引が作成)で構成されており、執筆には、編纂者でもあるディドロとダランベールを中心に、他にもヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなどの著名な啓蒙思想家を中心に総勢184人が携わり、1751年から1772年まで20年以上もの年月をかけて完成した。

『百科全書』に「ププラン」の項があるので引用しておきたい。

【 百科全書 】1769年刊 (第13巻, p244)
Poupelin(ププラン)
パティシエ用語。小麦粉、チーズ、卵、塩をバターに浸して温めたペイストリー。( DJ )


簡潔なププランの説明が掲載されている。マランのレシピのなかではチーズは使われていなかったが、このレシピにはチーズが入っているのが特徴である。実はププランにはチーズの入ってないものと、チーズが入っているものの二つのレシピに大別されている。

『百科全書』第1巻

『百科全書』第1巻


『百科全書』にチーズを用いたレシピを記したのはルイ・ド・ジョクール(Louis de Jaucourt:1704年-1779年)である。ププランの説明の後に(DJ)とイニシャルがあるのは「de Jaucourt」の略である。ちなみにジョクールは『百科全書』の25%、18,000もの記事を作成しており、『百科全書』のなかで最多項目の執筆者である。ジョクールは他に「料理」の項目も担当していることから、料理や食についても造詣が深い人物だったと思われる。

ルイ・ド・ジョクール

ルイ・ド・ジョクール
Louis de Jaucourt, 1704-1779


『百科全書』にある「料理」の項目を実際に読んでみると、内容はマランの『コーモスの贈り物』序文と明らかに同じ文脈と方向性をもって書かれている。よってジョクールは当然、『コーモスの贈り物』を所有していたか、あるいはマランの料理書を手にして読んだことがあるのは間違いない。
しかしププランの説明は、マランのレシピとは異なり、チーズを加えたものであるとしている。ここから推測して、マランがレシピを記した1740年頃から、ジョクールがププランの記述を行なった1770年頃までの間に、チーズ入りのププランが広がりつつあったか、あるいは一般的になっていたことが考えられる。

かつて乳製品は貧しい人々の食べ物とされてきたが、この時代から上流階級の人々も盛んに乳製品を食べるようになった。こうした背景には、ルソーが乳製品を食べる人物を無垢で高い精神性を持つ人物として描いた影響が大きい。当時、ルソーの書いた小説『エミール』もそうだが、『新・エロイーズ』は空前の大ベストセラーとなり、多くの人々に読まれたからである。ちなみにこの主人公女性のジュリは、乳製品を好んで食べる人物として描かれている。

またこうした影響もあり、マリー・アントワネットに代表されるように、当時の上流階級女性たちの間では、クリームやチーズなどの乳製品を食べることが流行していた。マリー・アントワネットはル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(Le hameau de la Reine:王妃の村里)という理想のカントリー・ハウス(農民集落)を築き、ここで農夫の真似事をして楽しんでいた。この農場には、外観は農家風だが内部は大理石で作られた酪農小屋(Laiterie de propreté)と呼ばれる建物があり、マリー・アントワネットはここに専用の高価な陶磁器を備えて、農場で飼われている牛から搾乳した新鮮な乳製品を味わっていたのである。マリー・アントワネットは乳製品の摂取に非常に熱心で、ランブイエ城にはエトルリア様式の豪華で贅沢な建築物がそのためだけに建てられている。彼女は、乳製品のために莫大な費用と時間を費やした女性だったと言っても良い。

マリー・アントワネット

映画「マリー・アントワネット」2008年


ププランにチーズが混ぜられるようになった背景には、こうした乳製品に対する嗜好の高まり、あるいは流行が関係していたからであろう。ちょうどこうした時代からチーズ入りのププランが登場し始めるのは、そうした時代の機運の現われであると考えられる。


1815年:『Le pâtissier royal parisien』


アントナン・カレーム(Marie-Antoine Carême dit Antonin Carême:1784(?)‐1833)は、料理史を語るにおいて外すことの出来ないフランス料理の巨匠である。貧しい家庭の出身だったアントナン・カレームは、パレ・ロワイヤル近くのヴィヴィエンヌ通りの有名なパティシエ、シルヴァン・バイイ(Sylvain Bailly)の店で働き始めるようになると、その実力をパティシエのジャン・アヴィスにも認められるようになる。このジャン・アヴィスこそが18世紀後半に現在のようなシューを考案した人物である。

アントナン・カレーム

アントナン・カレーム
Antonin Carême, 1784(?)-1833


当時のジャン・アヴィスがパティシエを務めていたのは、外務省の本拠地であり公邸だったオテル・ド・ガリフェ(ガリフェ邸)であり、そこで外務大臣を務めていたのがタレーランである。カレームの腕を見込んだジャン・アヴィスは、シルヴァン・バイイにカレームを昇進させるようアドバイスし、こうしてカレームは、シルヴァン・バイイの元で働きながら、絵を描いたり、帝国図書館で建築を勉強し、独立の準備を進めることが許されるようになった。

やがてカレームは、ジャン・アヴィスにも師事するようになり、また外務大臣としてオテル・ド・ガリフェに住んでいたタレーランとも知り合う。タレーランは、カレームをシェフとして召し抱えるようになり、外交交渉のための要として料理の才能を活用したのである。後にタレーランはフランスの国益を大きく左右する「ウィーン会議」の料理もカレームに任せ、それによって交渉を有利に進めることが出来たことは良く知られている。

Dictionaire oeconomique, or, The family dictionary

『Le pâtissier royal parisien』1815年刊


1815年に出版した『Le pâtissier royal parisien』にププランを使った菓子のつくりかたが掲載されている。カレームはピエスモンテ(Pièces montées)という小片を積み上げた大型装飾菓子の名手で、建築知識を活かした作品をつくっている。掲載されているププランのレシピもピエスモンテの一種であり、ここで使うププランも通常のものよりもかなり大きなサイズになっている。以下、ププランのレシピを引用しておく。

【 Le pâtissier royal parisien 】第1巻 p156
POUPELINES histoire de feuilles de biscuit aux pistache:
大きなププランをつくるには、鍋に水8杯とバター8オンスを入れて沸騰させ、これにふるった小麦粉を加え少し堅めのシュー生地を作る。これを再び火にかけ、ヘラで数分間かき混ぜながら水分を飛ばす。 この作業をもう一度繰り返し、最初に混ぜたものと一緒にして、砂糖4分の3オンス、オレンジの花2オンス、卵6個を順番に加える。 この生地が、通常のシュー生地よりも柔らかい状態ではあるが、液体にはならないよう注意しつつ50~60個の卵を加える。これを軽くバターを塗った大きな型に流し込み、熱したオーブンに入れ、約2時間焼くと生地がふくらみ分離する。 30分後オーブンから型を取り出し、ケーキの縁がきれいな色に焼けていれば、上の縁を切り落とし、大きなスプーンを使って、型の内側から生地を取り除きパリパリとした表面だけを残し、完璧なクルスタード(croustade)に仕上げる。


大きなププランをつかったピエス・モンテの作り方が説明されいてるが、ここにはププラン部分の作り方のみ抜粋しておいた。続く説明ではこれに装飾を施して、最終的には以下の図のような菓子に仕上げて完成である。

ププラン

ププランのピエスモンテ(大きな菓子)


カレームの著書には、他にもシューやプロフィットロールといったププランに類する菓子も掲載されている。それぞれ焼いた生地からつくられるため、あまり違いがないように思えるかもしれないが、実際には違いがあり、カレームはしっかりと目的に合わせた使い分けをしている。現代ではこうした菓子は、シュー生地ということで統一されてしまったが、古典的な菓子を見てゆくとその繊細な違いというものが見えてくるのである。


1873年出版:『Le livre de pâtisserie』


ジュール・グフェ(Jules Gouffé:1807-1877)は、フランス人シェフ兼パティシエである。グフェは、2 Rue Saint-Merriで菓子店を開いていた父のもとで学び始め、この店によく訪れていたカレームにわずか17歳でその才能を認められた。グフェは7年間カレームのもとで働き、師のスタイルを完全に自身のものにしたことから「装飾的料理の使徒:l'apôtre de la cooking décorative」の愛称で知られるようになった。カレームがジュール・グフェに与えた影響は非常に大きく、そのことはグフェの著書に残された図版の数々からも明らかである。

Le pâtissier royal parisien

ジュール・グフェ
Jules Gouffé:1807-1877


このグフェも「アプリコットのププラン」のレシピを記しているが、内容は先に記したカレームのレシピと同じである。グフェはカレームの弟子なので、師匠のレシピを記したのだろう。しかしグフェは、「このケーキはもはや一般的ではありませんが、そのアイデアに興味を持つ人々のために、このレシピを提供するべきだと考えた」とも説明している。先のカレームの料理書から50年以上は経過しており、グフェの時代には古典的であまりつくられることのない菓子になっていたようである。


1873年:『Le grand dictionnaire de cuisine』


アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas:1802‐1870)は『三銃士』や『モンテクリスト伯』などの名作を書き残したフランスを代表する小説家である。デュマの父親は仏領サン=ドマング(現ハイチ)で、フランス人の父親と黒人奴隷女性のハーフであり、デュマは黒人のクオーターということになる。ベストセラー作家だったことから、贅沢な暮らしを送っていた時代もあったようで、豪華な屋敷を建て、美食にも大きな関心をもつ人物であった。

アレクサンドル・デュマ

アレクサンドル・デュマ:1802‐1870


晩年のアレクサンドル・デュマは食に関する著書の執筆を始め、デュマ自身の死後、1873年に『料理大辞典:Le grand dictionnaire de cuisine』が出版されることになる。その書籍のなかには、ふたつのププラン(Poupelin)のレシピが掲載されている。

【 料理大辞典 】p902
Poupelin(ププラン):
昔からのデリケートな菓子で、バター、牛乳、新鮮な卵を用い小麦粉を練ってつくり、これにレモンの皮と砂糖を加えて風味を付ける。
約1パイントの水、1/4のバター、少しの塩を入れて火にかけ沸騰させる。水が沸騰し始めたら、小麦粉を加え、吸収するまで混ぜて水分を飛ばし、鍋を変える。その後、卵12個または14個を1つずつ混ぜてゆく。鍋にバターを塗り、生地を1/4ぐらい入れる。これは焼くと4倍に膨らむからであり、これをよく熱したオーブンで焼く。ププランが焼きあがったら、切って内部に新鮮なバターを塗り、バターの上に砂糖とオレンジの花のプラリネを振りかける。内部にもバターを塗り、砂糖を振りかけて、熱したコテでグラサージュをする。

【 料理大辞典 】 p903
別の方法:
よく水切りした新鮮なクリームチーズ、塩、新鮮な卵3個、小麦粉2つかみ分を用意し、これらをすべてをよく混ぜ、バターでコーティングしたタルト型に入れオーブンで焼く。美しい色に焼き上がったら、上半分を切り取って内部をくり抜き、砂糖を振りかけ、レモンの皮の細切りを散らし、溶かしバターをかけ、熱く熱したコテでグラサージュしてから上半分を元に戻す。これをオーブンに戻して、表面に砂糖を振りかけ、熱く熱したコテでキャラメリゼして熱いうちに提供する。


デュマの紹介するひとつ目のププランはプレーンなタイプのものである。このレシピはラ・レイニエール家のものだとデュマは記しているが、実際にはマランが『コーモスの贈り物』で記したレシピと細部は多少異なっているものの、基本的な部分はほぼ変わっていない。デュマはこの菓子を説明するのに、「デリケート(繊細)な」という表現を用いているが、これは昔の料理書でププランを説明するのに良く使われてきた言葉であり、デュマも執筆にあたりこうした文献を参照したはずである。ここからもププランとはそうしたデリケートさを特徴とする菓子であることが理解できる。

もうひとつのレシピにはクリームチーズが用いられている。前者では牛乳が使われているが、こちらはチーズを使うことで特徴のある、よりしっかりとした味わいの生地になっている。この方法は『百科全書』に掲載されている方法と同じである。

『百科全書』にある料理の項目を実際に読んでみると、内容はマランの『コーモスの贈り物』序文と明らかに同じ文脈と方向性をもって書かれている。よってジョクールは当然、『コーモスの贈り物』を所有していたか、あるいはマランの料理書を手にして読んだことがあるのは間違いない。しかしププランの説明では、マランのレシピとは異なり、チーズを加えたものであると説明している。ここから推測して、マランがレシピを記した1740年頃から、ジョクールがププランの記述を行なった1770年頃までの間に、チーズ入りのププランが広がりつつあったか、あるいは一般的になっていたことが考えられる。後年、デュマがチーズを加えたププランと両方のレシピを自著に加えたのも、こうした背景があってのことなのだろう。


ププランという菓子


ここまで文献的な記録からププランについて説明してきたが、その登場は14世紀にまで遡ることが出来る、非常に古い菓子であるということをご理解いただきたい。現在では19世紀にようやく完成したシューに吸収されてしまい、ププランがつくられることはほとんどないが、実際にはシューに勝る歴史を有する重要な菓子のひとつなのである。

「シュー」あるいは「グジェール」、さらに別項目で取り上げる「プロフィットロール」との比較からもププランの独特の歴史とポジションを語ることが出来る。かつてそれぞれ個別のものだったはずのププラン、グジェール、プロフィットロールであるが、現在これらはずっと後代になって誕生したシューに一括されてしまっている印象がある。しかし歴史的に見るとそれらの扱いや立場は明らかに異なっている。

 ・ ププラン: 14世紀から存在し、一貫して菓子である。
 ・ プロフィットロール:16世紀から存在し、料理から菓子に変化した。
 ・ グジェール:16世紀から存在し、料理として食べられてきた。
 ・ シュー: 19世紀に完成し、一貫して菓子である。

歴史ある菓子であるにもかかわらず、今ではププランが食べられなくなってしまったことは残念である。『王のパティシエ』は、18世紀から続くパリ二区モントルグイユ通りにある、創業1730年の菓子店:ストレー(Stohrer)に残されていた記録やレシピを基にして書かれた日記形式の小説である。最初に断っておくと、この本はフィクションなので歴史的な参考文献としての説得性はまったくない。しかしそれでも老舗の菓子店が掲載するププランのレシピは、過去のププランがどのような菓子だったのかを知るためには、参考に値するように思える。

【 王のパティシエ 】
Le poupelin(ププラン)
  シュー生地
  バター
  バニラシュガー
1.シュー生地をスプーンですくって天板にこんもりとのせる。
2.オーブンで焼く。最初は扉を閉めておき、生地がふくらんできたら扉を開く。
3.きれいな焼き色がついたらオーブンから取り出し、冷ます。横に2つにカットする。
4.小鍋にバターを溶かし、シュー生地の切り口に塗る。その上からバニラシュガーをふりかける。
5.2つを再び閉じて一緒にし、それぞれの表面にバターを塗り、バニラシュガーを多めにふりかける。
6.オーブンで10分間焼く。そのまま食べても良いし、クリームを挟んでもおいしい。


こうしたレシピを基にして、ププランをつくってみてはいかがだろう。ストレーという菓子店は、「ババ」、「ピュイ・ダムール」「エクレア」などで有名である。こうした老舗ストレーのレシピでププランをつくってみるだけで、18世紀の歴史ある菓子の源泉に触れる良い機会となることだろう。

Stohrer

Stohrer:51 Rue Montorgueil


古典を紐解くことでインスパイアされ、今後より新しい菓子の革新が起きるようになることも期待したい。フランスの菓子の歴史は深く、興味があれば他の菓子についても確認頂ければ幸甚である。







参考資料


『Classic patisserie : an A-Z handbook』  Claude Juillet,

『La table de la Renaissance - Le mythe italien』  Pascal Brioist et Florent Quellier

https://books.openedition.org/pufr/32507  Pierre Lacam

『Le Livre des mestiers de Bruges et ses dérivés』  Jean Gessler 編

『Privileges accordez aux maitres patissiers-oublayers de la ville, faubourgs & banlieue de Paris』 Charles IX

『A Dictionarie of the French and English Tongues compiled』  Randle Cotgrave

『Dictionnaire universel』  Antoine Furetière

『Les dons de Comus』 François Marin

『Dictionnaire portatif de cuisine』 Chez Vincent

『Encyclopédie ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers』  la direction de Denis Diderot et, partiellement, de Jean Le Rond d'Alembert

『Le pâtissier royal parisien』 Marie-Antoine Carême

『Le livre de pâtisserie』 Jules Gouffé

『Le grand dictionnaire de cuisine』 Alexandre Dumas

『Le Livre de Patisserie Stohrer』  Jeffrey Cagnes

『Le roi Carême』  Philippe Alexandre