メアリー・ランドルフ

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メアリー・ランドルフとは?


メアリー・ランドルフ(Mary Randolph:1762年8月9日-1828年1月23日)という名前を聴いてすぐにピンとくる人はまずいないだろう。しかしこの女性は1824年に出版された料理書『The Virginia Housewife』の著者であり、アメリカ料理の歴史を語る際には外すことが出来ない重要人物なのである。

『The Virginia Housewife』はアメリカで初期に出版された料理書のひとつとして高く評価されている。ちなみにアメリカ人が最も早く出版した料理本は、1796年にアメリア・シモンズが出版した『American Cookery』である。『The Virginia Housewife』はそれから遅れること22年後に出版されたが、後のアメリカ料理に大きな影響を与えたとされており、アメリカ料理史を語るには必読の書だと言えるだろう。よって本稿ではメアリー・ランドルフの著作を軸にして当時のアメリカ料理がどのようなものであったのかを紐解いてゆくことにしたい。

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メアリー・ランドルフ(Mary Randolph)
1762年8月9日-1828年1月23日


『The Virginia Housewife』という本のタイトルが示しているように、メアリー・ランドルフはアメリカ・バージニア州出身の女性である。彼女はバージニア州カンバーランド郡にあるアンプトヒルのプランテーションで生まれ、その後、バージニア州グーチランド郡のタッカホーのプランテーションで育っている。こうした生い立ちからも分かるように、彼女が記したレシピは、基本的に彼女が生活していたアメリカ南部の料理スタイルに基づいている。実際に『The Virginia Housewife』には、オクラ、サツマイモ、ビスケット、フライドチキン、バーベキューショット、レモネードなど、現代にも通じるアメリカ南部の典型的な素材や料理が含まれており、そのレシピがアメリカ南部由来のものであることが明らかになっている。

歴史家のシンシア・A・キアナーは『Beyond the Household: Women's Place in the Early South, 1700-1835』P206 のなかで「メアリー・ランドルフは南部の読者に対して、南部の、特にバージニアのモデルを提示した」と述べているが、こうした指摘からもメアリー・ランドルフの料理レシピが基本的にアメリカ南部に根差したものであることが理解できるだろう。

しかしメアリー・ランドルフのレシピをさらに紐解いてゆくならば、こうしたアメリカ南部料理に加えて、アフリカ料理、ネイティブアメリカン料理、ヨーロッパ料理の影響も受けていることが見えてくる。つまりメアリー・ランドルフのレシピはアメリカ南部料理をベースとしながらも、さらに世界各地域の影響も受け、バージニア産の食材を使うことで、バージニア独自の料理として発展したものであるということになる。例えばヨーロッパの影響を受けたレシピには、ガスパチョ、ロパビエハ、ポレンタ、マカロニに見られ、アフリカ料理の影響はオクラを使った料理やフライドチキン、BBQなどに顕著に表れている。さらに『The Virginia Housewife』にはアイスクリームや数種類のカレーレシピも含まれており、これらはアメリカ人によって最初に記された貴重なレシピとなっている。(このカレーレシピは後で解説する)

こうしたレシピの詳細とその分析は後述することにして、まずはメアリー・ランドルフという女性がどのような生涯を送り、なぜこのような様々な諸地域の影響も受けた料理書を著したのかを説明することから始めることにしたい。


メアリー・ランドルフの人物像


メアリー・ランドルフは『The Virginia Housewife』を著したが、その大前提として彼女は単なる料理本作家ではなかったことをまずは理解しておかなければならないだろう。アメリカ初期の歴史から調べてゆくと、彼女の家系はアメリカのなかでも著名な政治家の一族の出身であることが明らかになってくる。例えば彼女の血縁関係者には第三代目大統領となったトーマス・ジェファーソンがいる。それだけでなく、ランドルフ家とジェファーソン家は互いに深い姻戚関係にあり、この親族間で度々結婚が行われている。

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トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)
1743年-1826年


こうした背景があることから、まず始めにメアリー・ランドルフがどのような家系に属する人物であったのかを明らかにし、そのうえでなぜ料理本を出版することになったのかの経緯を説明することにしたい。


父親の家系


メアリー・ランドルフの父親はトーマス・マン・ランドルフ・シニア(Thomas Mann Randolph Sr.:1741–1793)である。その父で、メアリー・ランドルフの祖父にあたるウィリアム・ランドルフ(William Randolph III:1713-1745)は、1745年に死の床に際して子供たちの行く末を案じ、自身の所領地のタッカホーのプランテーションの管理と子供たちの後見人を、親友だったピーター・ジェファーソンに委託することにした。このピーター・ジェファーソンは、後に大統領となるトーマス・ジェファーソンの父親である。
これによって1745年~1752年の期間、まだ子供だったトーマス・マン・ランドルフ・シニアとその妹たちは、ピーター・ジェファーソンに引き取られて、トーマス・ジェファーソンとその家族たちと生活を共にすることになる。

当時のトーマス・マン・ランドルフ・シニアはまだ4歳、トーマス・ジェファーソンは2歳であったことから、彼らは幼少期を兄弟のようにして過ごしたものと考えられる。しかも遡ると彼らの曾祖父(William Randolph:1650-1711)は同じであるので、彼らはもともと親族関係にあったということになる。

後年、トーマス・マン・ランドルフ・シニアは、タッカホーのプランテーションを正式に相続した。彼の長女だったメアリー・ランドルフはバージニア州のアンプヒルプランテーションで生まれたが、その後タッカホープランテーションに移り結婚までの期間を過ごしている。これは父のトーマス・マン・ランドルフ・シニアがタッカホーのプランテーションの相続後に、この地に家族で移ったからである。トーマス・マン・ランドルフ・シニアは妻との間に13人の子供をもうけたが、メアリー・ランドルフが長女であり最初の子供である。


メアリー・ランドルフの父方の家系図
(クリックで拡大)

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父親のトーマス・マン・ランドルフ・シニアは政治家としてのキャリアを積み、バージニア州の代表、上院議員、知事、および下院議員となり政治家として活躍した。幼少期を共に過ごしたトーマス・ジェファーソンの政策を支持する政治的な協力関係にあったことから、ランドルフ家は、18世紀のバージニアにおいて、裕福であり政治的にも重要な一族となったのである。


母親の家系


メアリー・ランドルフの母親はアン・キャリー・ランドルフ(Anne Cary Randolph:1745–1789)である。この母親が、先に説明した父親のトーマス・マン・ランドルフ・シニアと結婚して、メアリー・ランドルフは誕生した。


メアリー・ランドルフの母方の家系図
(クリックで拡大)

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母親の父親(メアリー・ランドルフから見て祖父)は政治家でバージニア州上院議長だったアーチボルド・キャリー(Archibald Cary:1721–1787)、祖母はメアリー・ランドルフ・キャリー(Mary Randolph Cary:1727-1781)である。父親の姓も、母親の姓も共にランドルフであることから分かるように、メアリー・ランドルフの両親は互いに親戚関係にあったのである。

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祖父:アーチボルド・キャリー
祖母:メアリー・ランドルフ・キャリー


またメアリー・ランドルフの母方の曾祖母の、ジェーン・ボイリング(Jane Boilling:1703-1766)が1743年に手書きの料理本を書き残したことは見過ごせない重要な点である。この手書きの料理本は、メアリー・ランドルフの祖母(メアリー・ランドルフ・キャリー)の妹のジェーン・ウォーク(Jane Bolling Randolph Walke:1729-1756)に、そして孫娘のレーン・ランドルフ(Lane Randolph)に家宝として引き継がれていった。現在、ジェーン・ボイリングの料理本は、Virginia Museum of History and Cultureに収蔵されており『Cookbook, 1739-1743』というタイトルで閲覧可能である。

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母:ジェーン・ボイリング
娘:ジェーン・ウォーク


こうした一族が有する歴史と、それに伴って料理レシピが一族に伝えられていったところにも、後年になってメアリー・ランドルフが料理本を出版することになった経緯を読み取ることができる。メアリー・ランドルフの一族がどのようなレシピの残したのかに関する研究は、キャサリーン・E・ハルベリー(Katharine E. Harbury)の著書『Colonial Virginia's Cooking Dynasty』に詳しく記されており、非常に興味深い内容である。
ハルベリーは、1700年の手書きで記された作者不詳の料理本と、1743年に記されたジェーン・ボイリングの手書きの料理本、さらにメアリー・ランドルフが1824年に出版した料理書『The Virginia Housewife』を比較して、これらの料理本の関係性を説明している。

さらにメアリー・ランドルフの家系を遡ってみよう。(母親の家系図を参照)
そうすると母親の家系はポカホンタス(Pocahontas:1595年頃 - 1617年)に行き着くことになる。ポカホンタスはネイティブアメリカンのポウハタン族酋長の娘で、ディズニー映画でも取り上げられてアニメ化されているのでご存じの方も多いかもしれない。ポカホンタスは、バージニアでタバコ会社を設立した白人のジョン・ロルフの妻となり、トーマス・ロルフ(Thomas Rolfe)という息子を産んでいて、メアリー・ランドルフはその血を受け継いだ子孫なのである。

ポカホンタス(Pocahontas:1595年頃 - 1617年)

ポカホンタス
Pocahontas:1595年頃 - 1617年



ちなみにポカホンタスの子孫はバージニア最初の入植者の家系にまで遡ることが出来るため、アメリカでは屈指の名家であるとされている。例えば第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンの夫人イーディス・ボーリングもポカホンタスの子孫である。またジョージ・ランドルフ、リチャード・バード少将、ファーストレディだったナンシー・レーガン、大統領選に立候補していたジョン・マケイン議員もポカホンタスの子孫である。

親子で大統領を輩出したブッシュ家もポカホンタスの子孫であると主張しているが、実際にはその祖先はポカホンタスの直系では無く、再婚相手の方の家系や、女性側の結婚相手の方の家系にしか繋がっていない。従って実質的にはポカホンタスの子孫であるとするのは間違いである。このようにポカホンタスの子孫であることは、アメリカの歴史的な政治家との親族関係にあることを意味しており、政治家ファミリーとしてのある種のステイタスになっている感がある。

さてメアリー・ランドルフはポカホンタスの直系の子孫なので、ネイティブ・アメリカンの血も入っているという事になる。メアリー・ランドルフの料理書には様々なスタイルの料理が取り込まれているが、こうした家系環境の影響もあって料理の多様性が受け入れられたものとなっているのではないかと思う。


メアリー・ランドルフの夫


メアリー・ランドルフの夫はデビッド・ミード・ランドルフ(David Meade Randolph:1758-1830)である。デビッド・ミード・ランドルフはタバコのプランテーションを経営していたが、1795年頃に初代大統領のジョージ・ワシントン大統領からバージニア州の連邦保安官(連邦裁判所の役人)に任命され政治に関与するようになった人物である。

料理本を出版した妻のメアリー・ランドルフの曾祖父母と、この夫のデビッド・ミード・ランドルフの祖父母は同じである。つまりこの夫婦はもともと姻戚関係にあり、ランドルフ家という親族同士で結婚したということになる。

David Meade Randolph

デビッド・ミード・ランドルフ
David Meade Randolph:1758-1830


さらに夫のデビッド・ミード・ランドルフもまた、大統領のトーマス・ジェファーソンと、曾祖父にあたるウィリアム・ランドルフ 1世(William Randolph I:1650-1711)を通じて親戚関係にあった。また妻であるメアリー・ランドルフもまた同じウィリアム・ランドルフ1世を通じて、トーマス・ジェファーソンと親戚関係にある。このようにジェファーソン家とランドルフ家は非常に近しい親族関係にあったのである。

William Randolph I

ウィリアム・ランドルフ 1世
William Randolph I:1650-1711


ウィリアム・ランドルフ 1世を基点に、その後に様々な人物がつながっていることから、この人物はアメリカ初期の名門家の歴史を遡るにおいて重要人物となっている。こうした家系的な背景を紐解いてゆくと、ランドルフ家はポカホンタスの直系にあたり、また大統領となるトーマス・ジェファーソンとも親戚関係にあったことから、当時から名家として知られていたことが良く理解できる。つまりメアリー・ランドルフはこうした政治的な一族に生まれ、また夫も同じ家系にあることから、経済的にも、政治的にも影響を持つ家系に属する夫婦だったのである。こうしたメアリー・ランドルフが置かれていた立場から考えると、彼女の家系と、彼女がこのような料理レシピを残したことには政治名家ならではの深い理由があったということになるだろう。


メアリー・ランドルフの弟


メアリー・ランドルフの弟はトーマス・マン・ランドルフ Jr(Thomas Mann Randolph Jr:1768-1828)である。この弟はバージニア州の下院議員、知事となり、トーマス・ジェファーソンの長女だったマーサ・ジェファーソンと結婚したことでさらに両家の関係は強まることになる。マーサ・ジェファーソン(Martha Patsy Jefferson 1772-1836)は、父のトーマス・ジェファーソンの大統領任期中、すでに亡くなっていた母親に代わってファースト・レディーを務めていたこともあり、パリでも教育を受けた才女だった。

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弟:トーマス・マン・ランドルフ Jr
弟の妻:マーサ・ジェファーソン


彼らが結婚したのは1790年2月23日である。この夫婦はバージニア州のヘンライコ郡とベッドフォード郡にある二つのプランテーションの管理を義父のトーマス・ジェファーソンに任され、その後も、トーマス・ジェファーソンの助けを借りながらエッジヒル農園を買収している。当時は義父の信頼も厚く、大統領任期中にはトーマス・マン・ランドルフ Jrは妻のマーサ・ジェファーソンと共に大統領官邸に住んでいたことから、娘のマーサはファーストレディとしての役割を担うことも出来たと考えられる。

大統領だったトーマス・ジェファーソンは多才な人物で、建築家でもあり、自身の邸宅のモンティチェロ(Monticello)を設計しそこに住み生涯を閉じている。トーマス・ジェファーソンの死後は、娘のマーサ・ジェファーソンが相続し、夫のトーマス・マン・ランドルフ Jrとマーサ・ジェファーソン自身もそこで没している。モンティチェロにはトーマス・ジェファーソンの墓があり、その墓を囲むようにしてこの夫婦の墓も建てられている。

モンティチェロ

モンティチェロ墓地にある案内板
⑥ トーマス・ジェファーソン墓  
⑧ トーマス・マン・ランドルフ Jr墓
④ マーサ・ジェファーソン墓   


ここで注目しておくべきなのは、姉のメアリー・ランドルフが、こうした親族関係を通じて、トーマス・ジェファーソンの娘で義理の妹でもあったマーサ・ジェファーソンとも親しい関係にあったということである。マーサ・ジェファーソンも父のトーマス・ジェファーソンと同様に菜園をつくり、料理のレシピも書き残している。こうした食材に対する見方や、料理レシピに対する関心は、義姉のメアリー・ランドルフとの交流によって互いに磨かれたであろうことは想像に難くない。

このようにモンティチェロはトーマス・ジェファーソンとその家族にとっては非常に重要な場所であった。またモンティチェロは、この一族だけでなく、アメリカ独立宣言の草稿が書かれたことから草創期アメリカにとって歴史的に重要な場所であったということにもなる。よってアメリカの紙幣やコインにはモンティチェロが描かれており、歴史的な建築物としてアメリカ人には良く知られている。
こうした場所でグルメだったトーマス・ジェファーソンは菜園をつくり、料理素材に関する記録を沢山残しているのだが、その詳細はトーマス・ジェファーソンの項で詳しく述べることにしたい。


メアリー・ランドルフの生涯


メアリー・ランドルフの家系を見てゆくと、この一族はアメリカ草創期から重要なポジションにあり、特に政治において重要な役割を果たしてきたということが分かる。男性は政治家として働いたが、女性にも側面からこうした政治活動を支える役割が期待されていた。女性たちは来客をもてなすホストとしての役割を果たすことで間接的に政治活動を行う男性たちを支え続けたのである。そこで果たす料理の役割は非常に重要なものだったことが推測される。
こうした背景が見えてくると、これら一族の女性たちが料理レシピを記録し続け、それを後世に残したということには大きな意味があったのだということが理解できるようになる。

メアリー・ランドルフはアメリカで初期に出版された料理本の著者だったが、そうした素地は何代も前の祖先の女性たちが築いてきたものであり、よってメアリー・ランドルフが料理本を書くことになったのも、そうした素地があってのことだと考えるべきだろう。よってここからメアリー・ランドルフの生涯を振り返ることで、その背景と経緯を見ることにしたい。


幼少期


1762年にメアリー・ランドルフはバージニア州アンプトのプランテーションで生まれ、父親がタッカホーのプランテーションを相続したことからここに移り住み幼少期を過ごすことになる。タッカホーのプランテーションではタバコや小麦などの農業と畜産が行われており、こうした環境下でメアリー・ランドルフの食に対する関心が育まれたのでないかと推測される。現在は観光地にもなっているタッカホー敷地内には、現在でも離れの建物にキッチン(Old Kitchen)が残されているので観光客は見学できるようになっている。当時のキッチンは火災のリスクを避けるため、多くのプランテーションの館では別の建物としてつくらている。

プランテーション経営者の娘として成長したことは、後の料理に対する価値観に大きな影響があったものと考えられる。通常このようなプランテーションでは黒人奴隷が働いていて、家の維持管理や料理といった家事の多くはそうした黒人によって支えられていたからである。ランドルフ家の料理も、他の多くのプランテーションと同様にそうした黒人たちによって備えられてきたものと考えられる。実際にメアリー・ランドルフの料理書には黒人奴隷に由来する料理が多く取り上げられているが、これは幼少期から食べて来た料理に起因するものと言えるだろう。


結婚


1780年12月11日に18歳だったメアリー・ランドルフは、従兄弟にあたるディビッド・ミード・ランドルフと結婚した。ディビッド・ミード・ランドルフはタバコのプランテーションの経営者で、夫婦は最初チェスターフィールド郡のプレスキール(Presquile)と呼ばれるプランテーションに住み8人(成人したのは4人のみである)の子供をもうけた。この地はジェームズ川沿いの湿地帯で、現在は野生生物保護区となっている。

1795年、初代大統領のジョージ・ワシントンは、夫のディビッド・ミード・ランドルフをバージニア州の連邦保安官(連邦裁判所の役人:the U.S. marshal of Virginia)に任命する。これによって夫婦は1798年にジェームズ川を遡った都市のリッチモンドに移住することになった。この移住に関しては、任官が主な理由であると考えられるが、合わせてプレスキールがかなりの湿地帯であることから健康上の理由で移住したと説明するものもある。いずれにして夫婦はリッチモンドで新しい生活を始め、これが大きな転機となる。

リッチモンドに移住したランドルフ夫妻は、モルダビア(Moldavia)と呼ばれるエレガントな邸宅を建て、やがてそこは有名な社交の場となっていった。ちなみにモルダビアとはメアリー・ランドルフの愛称のモリ―(Molly)と、ディビッド・ミード・ランドルフのディビッド(David)という夫婦の名前を合成して付けられた館名である。夫婦はこのモルダビアで社交会を開催し、メアリーランドルフは、もてなしの為のテーブルセットや料理に関する知識からすぐに有名なホステスとなった。こうした背景にはメアリー・ランドルフがポカホンタスから続く一族の歴史を有する人物であることや、一族に受け継がれてきた料理レシピがあったからとも言える。

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モルダビア(Moldavia)


またモルダビアは、夫のディビッド・ミード・ランドルフにとっては政治活動の拠点ともなった。リッチモンドの5th Streetと6th Streetの間、Main Street沿いに位置していたモルダビアの場所はバージニア州会議事堂まで徒歩5分ほどの好立地にあった。ディビッド・ミード・ランドルフは連邦制を支持していたことから、連邦制支持者たちの集まるサロンとしてもモルダビアは活用されたようである。

しかし1801年、第三代目アメリカ大統領利に就任したトーマス・ジェファーソンは就任したその年にディビッド・ミード・ランドルフをバージニア州の連邦保安官から解任した。その理由は、ディビッド・ミード・ランドルフが陪審員の買収を行ったからであるとされている。これを機に、連邦主義者のディビッド・ミード・ランドルフは、民主共和党のトーマス・ジェファーソンに対する急先鋒の批判者となった。1790年にメアリー・ランドルフの弟、トーマス・マン・ランドルフJrと、トーマス・ジェファーソンの長女のマーサ・ジェファーソンは結婚していたのだが、これを機に関係に亀裂が入ることになったのである。

この職務解任によってディビッド・ミード・ランドルフの経済状態は急速に悪化し始める。財産減少の結果として、ディビッド・ミード・ランドルフはモルダビアとそのプランテーションの土地の多くを売却することを余儀なくされた。記録を見るとプレスキールのプランテーションは1801年に新たな所有者(Abner Osborne)に£5000で売却されている。解任された年にプランテーションを売却していることからも彼等のおかれていた経済状況がいかに厳しいものだったかがうかがえる。さらに1808年にディビッド・ミード・ランドルフは破産宣告をしている。 マーサ・ジェファーソン・ランドルフの手紙によると(Martha Jefferson Randolph to Dolley Madison, 15 Jan, 1808)、破産したディビッド・ミード・ランドルフは1808年に「成功の見込みがほとんどなく、絶望以外の何物でもない計画で」イギリスに旅立ったと言及している。


経営者として


こうした経済的苦境の時代を経て、1808年にメアリー・ランドルフはボーディングハウス(下宿屋)をショッコー・スリップ(Shockoe Slip)と呼ばれるリッチモンドの中心部のCary Streetに開業している。彼女は1808年3月4日に『リッチモンド・バージニア・ガゼット』と『ジェネラル・アドバタイザー』の両紙にボーディングハウスの広告を掲載している。そこには「数頭の馬を収容できる馬小屋を備え、食事や宿泊設備が充実している」ことが書かれている。 メアリー・ランドルフは家計を支え収入を得るために、モルダビアで培ったもてなしと料理のスキルを活かしたビジネスを始めたという事になるのだろう。またこの時期にメアリー・ランドルフは氷を入れて冷やす冷蔵庫を発明している。しかしこの発明は下宿していた北部アメリカ人(Yankee)の顧客によってそのアイディアが盗まれ特許を逸したということになっている。

こうしたボーディングハウス(下宿屋)を経営する期間中に、メアリー・ランドルフは新たに”Queen”というニックネームを得ていることや、1810年に行われた国勢調査ではメアリー・ランドルフとは他に12人もの使用人の黒人奴隷が同居者として登録されていることから、このビジネスがある程度は軌道に乗っていたことがうかがえる。この国勢調査記録に夫のディビッド・ミード・ランドルフが含まれていないのは、この時期、ディビッド・ミード・ランドルフは炭鉱の共同経営者となってさまざまな発明の特許を取得し、1815年までイギリスに移住して発明品への出資者を探していたからである。

メアリー・ランドルフはこの下宿ビジネスを1819年まで続けたが、その後、リッチモンドを離れ、新たにワシントンD.C.に移住した。この理由として考えられるのは、末息子の Burwell Starke Randolph(1796-1854)の健康状態である。彼はアメリカ海軍の中等兵だったが転落事故で障害を負い、1817年に辞職を余儀なくされている。メアリー・ランドルフのワシントンD.C.への移住のひとつはその介護の為だったことが考えられる。


料理本作家として


1820年にメアリー・ランドルフはワシントンD.C.に移住している。ワシントンD.C.では、財務省の事務官として働いていた次男の William Beverley Randolph(1789-1868) と同居することになる。晩年のメアリー・ランドルフは息子たちと生活しながら料理本の執筆を始めたようである。そして62歳の1824年に『The Virginia Housewife』は出版された。

かつてのメアリー・ランドルフは、トーマス・ジェファーソンに対して批判的な立場であったが、トーマス・ジェファーソンが取り上げアメリカに紹介したヴァニラビーンズやマカロニをその著書に含めている。また自身の著作をトーマス・ジェファーソンにも送り、トーマス・ジェファーソンからの返信を得ている。これは1823年にディビッド・ミード・ランドルフがある訴訟でトーマス・ジェファーソンのために有利な証言したことで、疎遠になっていた関係が解消された為だと思われる。以下は、The U.S. National Archives and Records Administrationによって公開されている両者の手紙によるやり取りである。

メアリー・ランドルフが、トーマス・ジェファーソンに送った手紙は次のようなものである。

【 To Thomas Jefferson from Mary Randolph, 17 March 1825 】
ワシントン 1825年3月17日
私の親愛なるSir(トーマス・ジェファーソン)。私の必要から出版せざるを得なかった本のコピーをお送りすることをお許し下さい。そしてこの本があなたに認めてもらえたなら私はとても嬉しく思います。崇高なる尊敬の念をもって、あなたの健康が続くことを心から願いつつ。
M・ランドルフ


以下はトーマス・ジェファーソンからメアリー・ランドルフへ書き送られた返信である。

【 From Thomas Jefferson to Mary Randolph, 30 March 1825 】
モンティチェロ 1825年3月30日
ジェファーソンは、ランドルフ夫人が送ってくれた貴重な小冊子に感謝の意を表する。この著書は人類の純粋な楽しみに最も貢献し、大なり小なり、最大の満足のためにどのように利用するかという、有益な指示を与えてくれるもののひとつであり、これほど優れた書籍はほとんどない。


トーマス・ジェファーソンは、メアリー・ランドルフの著書を評価していたことを手紙から理解できる。

1824年に初版が発行された『The Virginia Housewife』は、1850年までに7版まで重版されたと『Encyclopedia of women in American history』P173では説明されている。よってメアリー・ランドルフの料理本は、著者の死後も良い評判を得て販売部数を重ねていった。しかし後年、メアリー・ランドルフの存在自体は忘れられるようになる。彼女の墓が発見された1929年になるまで、さらには1970年に『The Virginia Housewife』が再版されるまで、メアリー・ランドルフの存在が注目されることはなかったことが『Richmond's Culinary History: Seeds of Change』P48では説明されている。


メアリー・ランドルフの晩年


メアリー・ランドルフが自著を出版したのは1824年、死亡年は1828年1月23日である。出版後から死までの4年間の間は、末息子の Burwell Starke Randolph(1796-1854)の介護に当てられ、『The Virginia Housewife』第三版が出る前に亡くなっている。よってメアリー・ランドルフが生前に実際に自著を手に取ることが出来たのは第二版までということになる。よって死後、重版されることになる『The Virginia Housewife』の評価をメアリー・ランドルフ本人は生きている間はあまり実感することが出来なかった可能性がある。

特に初版は重大な間違いがあり、メアリー・ランドルフ自身もその出来に満足していなかったようだ。そのことはトーマス・ジェファーソンと共に共和党を設立し、アメリア合衆国4代目大統領となったジェームズ・マディソンに送った手紙から読み取れる。

【 To James Madison from Mary Randolph, 17 March 1825 】
親愛なる閣下へ
私の料理本の初版は非常に欠陥があったため、あなたに提供しませんでしたが、第二版でより正確になりましたので、あなたに受け取っていただきたいと思います。親愛なるマディソン夫人に、私の心からの愛をお伝えします。あなたの母上には、私の崇高な敬意を表します。そして、あなた自身には、私の温かく、ありがたい愛情をお送りします。
M・ランドルフ


この手紙の内容から察するに、メアリー・ランドルフはジェームズ・マディソンに宛てて第二版の『The Virginia Housewife』を送ったということになる。これに対してジェームズ・マディソンは返信を書き送っており、メアリー・ランドルフはトーマス・ジェファーソンだけでなく、ジェームズ・マディソンとも家族ぐるみでの付き合いがあったことが分かる。これはモルダビアの時代、さらにその後も社交的な交流を持ち続けていたとに基づいてるのかもしれない。しかしながらメアリー・ランドルフが、アメリカ三代・四代の大統領と個人的にこうした書簡を交わしていたという事実は、ランドルフ家の一員としてのメアリー・ランドルフが置かれていた立場を象徴的に現すものとなっているように思える。

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ジェームズ・マディソン(James Madison)
1751年-1836年


余談だが、この手紙に登場するマディソン夫人こと、ジェームズ・マディソン大統領の夫人とはドリー・マディソンのことである。ドリー・マディソンはファースト・レディとしてジェームズ・マディソンを支え、夫の大統領就任後は最高級の料理人を雇ってホワイトハウスに迎え、パーティーを催し多くの人々をもてなしたとされている。手紙からするとメアリー・ランドルフはドリー・マディソンとも親しかったようで、返信の手紙の中には、ドリー・マディソンのカードも添えられていた。

彼女の晩年にレセプションに出席したマーティン・ヴァン・ビューレン大統領は「アメリカ史上随一の輝かしいホステスである」とマディソン夫人に驚嘆したそうだが、こうしたホステスとしての役割をどのように果たすのかにおいても、ドリー・マディソンとメアリー・ランドルフは互いに共感するところがあり、互いに親しくしていたのかもしれない。


メアリー・ランドルフの墓


メアリー・ランドルフは死後、バージニア州アーリントンにある後のアーリントン国立墓地に葬られた。現在のアーリントンはアメリカ戦没者慰霊施設として有名だが、実はメアリー・ランドルフこそが、最初にアーリントンに埋葬された人物だったのである。

もともとアーリントン墓地は、1864年に南北戦争の戦没者のための墓地として、南軍のロバート・E・リー将軍の住居周辺の土地に築かれた。メアリー・ランドルフは南北戦争以前に埋葬されているので、戦争と関係していたという訳ではない。ではなぜ彼女はアーリントンに埋葬されたのだろうか。
その理由は、メアリー・ランドルフがアーリントンの最初の所有者ジョージ・ワシントン・パーク・カスティスと親族関係にあったからである。ジョージ・ワシントン・パーク・カスティスの妻はマリー・リー・フィッツヒュー・カスティス(Mary Lee Fitzhugh Custis)でランドルフ家系の女性である。またジョージ・ワシントン・パーク・カスティスは、初代アメリカ大統領のジョージ・ワシントンの孫であり、かなりの資産家でもあった。この従兄を頼ってメアリー・ランドルフはワシントンD.C.に移住したとも考えられるようにも思える。またその墓が敷地内にあることからも、その庇護の下で晩年は生活した可能性も考えられる。

さらに注目すべきはジョージ・ワシントン・パーク・カスティスの娘である。この娘はロバート・E・リー将軍と結婚してマリー・アン・カスティス・リー(Mary Anna Custis Lee)となる。実はこの女性のファーストネーム「マリー・アン」の名づけ親がメアリー・ランドルフであって、ここから両家には深いつながりがあったことを理解できる。またマリー・アン・カスティス・リーは手書きの152ページの料理本(MARY RANDOLPH CUSTIS LEE COOKBOOK, CA. 1860-1868)を残し、その原本は Virginia Museum of History & Culture に現在は所蔵されてる。彼女と南軍のロバート・E・リー将軍が結婚して、その領地のアーリントンを戦死者のための墓地として提供したことから、アーリントンはアメリカ軍関係者のための国立墓地となっていったのである。

メアリー・ランドルフの墓

メアリー・ランドルフの墓


こうしたつながりが理由でメアリー・ランドルフは死後、ジョージ・ワシントン・パーク・カスティスの建てたアーリントンの敷地内に埋葬されることになったものと考えられる。現在でもメアリー・ランドルフの墓はアーリントンハウスの近くに残されており、後に埋葬されたジョン・F・ケネディの墓もその近くにある。メアリー・ランドルフの墓の場所は「Gravesite of Mary Randolph」のリンクから確認して頂きたい。

アーリントンはもともとは墓地などではなく、ジョージ・ワシントン・パーク・カスティスが敷地に邸宅を建てて住み、ジョージ・ワシントンの遺物と記念品を展示するための場所として始められた。屋敷のアーリントンハウスは1803年に着工、1818年に完成している。主人のジョージ・ワシントン・パーク・カスティスは、アーリントンハウス完成後、ここで様々な祝いや社交行事を行いゲストを招待することで評判を得ていたとされている。こうしたゲストへの料理やもてなしの面で、メアリー・ランドルフが大きな働きやアドバイスを行ったのではないだろうか。これは丁度、メアリー・ランドルフが『The Virginia Housewife』を書いていた時期とも重なっており、こうした経緯ゆえにメアリー・ランドルフはアーリントンに埋葬されることになったようにも思える。


『The Virginia Housewife』


ここまでメアリー・ランドルフの生涯と、その家系について説明してきたが、ここからは彼女の著書『The Virginia Housewife』の内容について解説しておきたい。

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『The Virginia Housewife』


そのレシピを語るにおいて、先にも説明した通りメアリー・ランドルフが単に料理本を書いた人物だったという訳ではなく、アメリカの政治に深く関係する一族の女性であったということに改めて注意を引いておきたい。まずはメアリー・ランドルフの祖母のジェーン・ボリング・ランドルフが1743年に料理本の原稿を完成させ、この原稿はメアリー・ランドルフの叔母であるジェーン・ランドルフ・ウォークに引き継がれている。この一族にはレシピの歴史があり、こうした料理のバックグランドがあったことからメアリー・ランドルフは『The Virginia Housewife』という料理本を記すことが出来たのだとも言える。

バージニアというアメリカ建国初期の中心地で、その政治に深く関与した一族が、同じく一族に伝わるレシピを受け継ぎそれを守ってきたということは見過ごすべきでないポイントである。そういう観点から『The Virginia Housewife』を読み解くならば、これが単なる料理書というだけでなく、アメリカという国がどのように成り立っていったのか、あるいは原住民と他のヨーロッパ文化、さらには黒人文化と白人文化がどのようにアメリカで融合していったのかを理解するための鍵があるのではないだろうか。

歴史料理研究家のカレン・ヘス(Karen Hess)は、メアリー・ランドルフに関する研究において重要な功績を残した人物である。そのカレン・ヘスが『The Virginia House-wife:1984』の解説のなかで次のような興味深い見解を述べている。

【 Historical notes and commnetaries on The Virginia House-wife 】1984, xxix
バージニアの地主階級の家では、伝統的に黒人の女性奴隷が料理をしていました。こうした女性たちは、アフリカからやってきて、アメリカ南部の料理を特徴付けるようになったオクラ、ナス、エンドウ豆、ベンネ(ゴマのアフリカ名)、ヤムイモ、ジャガイモ、そしておそらくトマトを良く料理に用い、かつこれらに良く精通していました。さらに、こうした多くの黒人料理人たちは西インド諸島の島々を渡り抜けてアメリカにまでたどり着いたか、あるいはそうした島々に豊富なクレオール料理の多くの料理方法や調味料の使い方のコツを手にした人々を知っていました。
西インド諸島の島々のカリブ族は早期にほとんど絶えてしまいましたが、残った女性たちとアフリカから連れてこられた黒人奴隷との混血は進みました。特に良く食べられた作物(種々のトウガラシ、特にトマト)の用い方にはそうした痕跡が良く残っています。さらに重要なことに人口の大多数が黒人となり、彼らの作る料理は、白人の主人たちの本国、フランス料理、イギリス料理、スペイン料理などと必然的に混ざり合うことでカラフルに異なった料理にへと適応させてきました...

< 中略 >

確かに、ランドルフ夫人はこれらのバージニアのレシピに彼女自身の痕跡を残しています。 彼女の知覚力と料理への好奇心は、バージニア料理に新しい次元を追加しています。 彼女は洗練された料理にも精通し、17世紀と18世紀のイギリスの高級料理を縦糸に、そこにカラフルな西インド、アフリカの黒人、クレオールの要素を横糸として織り交ぜています。そしてこれらはすべて、地元の食材や才能に応じてさまざまな方法で変化してきました。要するにこうしたものこそがオーセンティックなアメリカ料理なのです。


これは非常に重要な注釈であって、どのようにしてアメリカ料理というものが産まれたのかについて良く説明されている。メアリー・ランドルフの功績は、アメリカ特有の人種や文化の混合から、それまでのヨーロッパ本国の料理とは異なる新しい価値観を料理に与えたことである。それには重要なふたつの要素が含まれている。ひとつは「トマト」であり、もうひとつが「クレオール」である。

1776年に植民地だったアメリカが独立を果たし、独立国家としての歩みを始めたのは、正にメアリー・ランドルフ(Mary Randolph:1762–1828)が生きたのと同じ時代である。アメリカはイギリスから政治的には独立しても、当時はまだ国としての年齢も浅く、文化や歴史もない新興の国でしかなった。しかしそうした若い国だからこそ、アメリカはその国を構成する人々の生き方や価値観によって自在に変容することが出来るポテンシャルを兼ね備えていた時代でもあった。

こうした背景においてメアリー・ランドルフが果たした功績は、新しいアメリカ料理を確立したということも挙げておかなければならない。当時はまだ毒があると信じられていたトマトを料理に積極的に用い、17種類ものトマトレシピを記していることも、こうした新興の野菜でまだ未開の味に対する彼女の積極的姿勢の表れである。またトマトのような食材を料理に積極的に用いてきたのが、実は黒人奴隷の女性だったということも見逃してはならない要素である。

そういう意味において、メアリー・ランドルフが生きた場所がバージニアのリッチモンドだったというのは重要なポイントである。ここはアメリカ建国の政治的に重要な場所であり、初期アメリカ人としてのアイデンティティが最も問われた場所である。こうした場所で、彼女の一族は初期アメリカの政治・行政においても強い関りをもっていたことは、彼女の生き方や価値観に大きな影響を与えたことに違いないはずである。

よって以降、トマトとクレオールというキーワードを足掛かりに、メアリー・ランドルフの料理レシピを読み解いてみることにしたい。


トマト料理


料理史研究家のカレン・ヘス(Karen Hess)は、メアリー・ランドルフが記した『The Virginia Housewife』は、「イギリスの料理の習慣から脱却し、アメリカにトマト料理の飛躍的進歩をもたらした」と評している。

料理の歴史家のアンドリュー・F・スミス(Andrew F.Smith)も同様に、1994年に出版した『The Tomato in America: Early History, Culture, and Cookery』のなかで、メアリー・ランドルフの幅広いトマトレシピは「今後30年間のトマト料理の基準を打ち立てた」と評価している。

またスペインから2013年アメリカに帰化して市民権を得た有名シェフのホセ・アンドレ(José Andrés)もメアリー・ランドルフのレシピに影響を受けた一人である。彼のレストラン「America Eats Tavern」ではメアリー・ランドルフのレシピに由来するガスパチョを提供しており、なぜこの料理が提供されているのかの理由を『What It Means to “Cook American” Food』という自身の記事のなかで、それが「自分がどこから来たのか、そして私が今どこに属しているのかを永遠に思い出させる」からであると述べている。また続けてこのレシピは「私の母国スペインがこの国に与えた最も初期の料理の影響の1つを証明している。その本ほどアメリカを定義するものはないだろう。アメリカで印刷された最初の料理本ではないが、アメリカ人が書いたアメリカで最初に印刷された料理本であると言える。彼女のガスパチョレシピは、文化のるつぼとしてのこの国の概念がどれほど遡れるかを示している」と述べている。つまり自身のスペイン人としてのアイデンティティにもつながる料理でありながら、同時にアメリカにおいて様々な文化が混じり合い、どのようにアメリカという国が作られていったかというアイデンティティにも関係する料理レシピであることを指摘している。

このホセ・アンドレの記事のことは『Richmond's Culinary History: Seeds of Change』の6章「料理の天才:メアリー・ランドルフ」の項でも言及されている。また同書には、アメリカ人シェフで多数の料理に関する著作を残しているジェームズ・ビアード(James Beard)がメアリー・ランドルフを「料理の天才」であると評価していたことも明らかにしている。
ジェームズ・ビアードは既に亡くなっているが、ジェームズ・ビアード財団がその後も毎年行われるジェームズ・ビアード財団賞によってシェフ、レストラン経営者、作家、ジャーナリストの表彰を行い食文化の育成への貢献を行っている。その創設者のジェームズ・ビアードもまた、200年前に生きたメアリー・ランドルフを高く評価していたのである。その理由のひとつは、当時はまだトマトには毒があると信じられていたにもかかわらず、メアリー・ランドルフは17種類ものトマトレシピを記していたからである。

実際に『The Virginia Housewife』には2種類のトマトマーマレード、トマトケチャップ、トマト醤、エッグ&トマト、またガスパチョを含む4種類のトマトを使ったスペイン料理などが記されている。これはメアリー・ランドルフが積極的にトマトを料理に使用しようとしていた意思の表れであり、まだ新興の野菜だったトマトを、アメリカで食べられる料理の中に積極的に取り込もうとした為だったのだろう。ちなみに姻戚関係にある第三代大統領のトーマス・ジェファーソンはトマトの先駆的な栽培者だった。『Thomas Jefferson's Garden Book』を見ると、まだトマトに対して否定的な時代だった1809年からトマトを毎年栽培し、ジェファーソンの娘マーサ(メアリー・ランドルの弟と結婚)は、ガンボスープ、カイエンスパイストマトスープ、グリーントマトピクルス、トマトジャム、トマトオムレツなど、トマトに関する数多くのレシピを残している。こうした料理レシピをメアリー・ランドルとトーマス・ジェファーソンの娘は共有し、それが『The Virginia Housewife』にも記されたと考えるのはごく自然なことだろう。

アメリカにおけるトマトの栽培やトマトを使った料理レシピはアメリカの一族と深く関係しており、新興国家のアメリカのアイデンティティを形作る料理や料理素材になっていたものと考えられる。そしてトマトケチャップこそがその最たるものになっていったのだと言えるのではないだろうか。現在、アメリカはトマトケチャップの最大消費国であり、アメリカの料理にはトマトケチャップは欠かせないものとなっていると言っても良いだろう。

トマトケチャップに関しては、「トマトケチャップ」の項で詳細を説明してあるのでぜひ参照して頂きたい。


クレール料理(黒人料理)


クレオール料理とはアメリカ南部、ルイジアナ州ニューオリンズを中心とした場所で食べられている料理のことである。この料理はフランスやスペインの入植者と西インド諸島やアフリカの黒人奴隷の影響が混在した料理となっている。ではなぜ、メアリー・ランドルフのレシピにはクレオールの影響があると言えるのだろうか。

メアリー・ランドルフが住んでいたのはバージニア州リッチモンドである。バージニアは位置的には東海岸の中ほどに位置しているが、アメリカ南北戦争の際には南軍に属しており、位置づけとしてはアメリカ南部という見方がなされる。そのバージニアはイギリスからの移民が最初に拠点とした場所であり、アメリカ建国を語る際にも重要な場所となっている。アメリカ初期の大統領のワシントンやトーマス・ジェファーソンといった人物が排出されたのがバージニアだったのもこうした理由からである。

それと同時にバージニアは黒人奴隷が最も盛んに取引された中心地でもあった。1619年8月下旬に20人の黒人がバージニア州ジェームスタウンに最初の奴隷としてオランダ船で連れてこられ、そこで売買されたのがその後250年間続くことになったアメリカ奴隷制度の始まりである。その後、バージニアの州都はジェームスタウンからリッチモンドに移されるが、このリッチモンドには黒人奴隷の一大市場が開かれ、ここで売買された黒人奴隷たちがアメリカ南部全体へと売られていった。またバージニアはタバコの生産が主要産業であり、タバコのプランテーションによって大きな富を生み出していた。黒人奴隷たちはこうしたタバコ農園での主要な労働力となっていたことから、リッチモンドは黒人奴隷の売買の中心地となったのである。

メアリー・ランドルフの夫だったデビッド・ミード・ランドルフもタバコのプランテーションを経営しており、同時に初代ワシントン大統領に任じられ連保執行官としての役割も果たしていた。またメアリー・ランドルフの父親もプランテーションの経営を行っており、また同時に政治家でもあった。そもそもメアリー・ランドルフの祖先になるポカホンタスの夫のジョン・ロルフがタバコのプランテーションをアメリカで最初に始めた人物である。つまりメアリー・ランドルフの祖先・親族はすべてタバコのプランテーションで財をなした商人であり、かつ政治にも有力な名家だったのである。

ちなみにタバコ企業のフィリップ・モリスの本社はかつてバージニア州リッチモンドにあり、商品のひとつにバージニア・エスなどがあるのもその理由からである。リッチモンドは昔からタバコ産業とは切っても切り離せない場所であって、タバコは白人の経営するプランテーションによって支えられ、黒人奴隷の労働力を犠牲にして大きな産業にへと成長することになったのである。

バージニアは黒人奴隷を売買する中心地だったことから、メアリー・ランドルフの家では昔から数多くの黒人奴隷を使っていたことだろう。アメリカ南部では黒人奴隷の女性が料理を担っていたことから、メアリー・ランドは混合した料理文化も当然ながら親しんでいたはずである。下宿寮を営んでいた期間中の1810年国勢調査では、12人の黒人奴隷を使っていた記録があったが、メアリー・ランドルフの料理には、アフリカや西インドをアメリカに根付いていった様々な文化が混然一体となったクレオール料理の要素が強く影響していることはここからも理解できる。

「クレオール料理」の項でも詳細を説明してあるのでぜひ参照して頂きたい。

 

当時はまだイギリスの料理書がアメリカでも出版され評価されていたが、こうした料理スタイルとの「決別」をメアリー・ランドルフが1824年に書いた『The Virginia Housewife』はもたらしたのである。ここで「決別」という表現をしたが、厳密にいうと、むしろ「融合」という表現の方が正確かもしれない。そうした観点からも『The Virginia Housewife』はアメリカ料理史における重要な一冊であることに間違いないのである。


最初のカレーレシピ


メアリー・ランドルフの『The Virginia Housewife』には、アメリカ人によって出版された最初のカレーレシピが掲載されている。Lohman, Sarah著『Eight Flavors: The Untold Story of American Cuisine』は、6種類(Half dozen)のカレーレシピがあると説明しているが、これは料理にカレー粉を使ったものを含めてであり、厳密に言えば以下の引用部分がカレーに関係した記述であると言うべきだろう。

【 ナマズカレーの作り方 】
白ナマズの頭を切り落とし、皮を剥いできれいにして、4インチの長さに切って十分な数だけを、1クォートの水、タマネギ2個、パセリのみじん切りとシチュー鍋の中に入れる。
水が1/2パイントになるまで静かに煮込んでから魚を取り出し、皿の上に並べて保温のために蓋をしておく。
小麦粉1杯にバター大さじ1杯をすり合わせ、これにカレー粉大さじ1杯を加えて煮汁にとろみをつけ、数分間火にかける。そしてこれを魚の上にかける:カレーが滑らかになるように注意が必要である。


【 東インド風カレーの作り方 】
鶏2羽をフリカッセと同じように切り、きれいに洗って、シチュー鍋に入れる。鍋に入れた鶏がかぶるくらいの水量を加え、大さじ1杯の塩を振り、柔らかくなるまで蓋をして煮る。十分に茹でたら鶏は取り出しておく。
フライパンに酒、次に0.5ポンドの新鮮なバターを入れ、それを少し茶色に色付くまで加熱する。さらに、にんにく2片とスライスした大きな玉ねぎを加え、茶色になるまで時折フライパンを振りながら炒める。
次にこのフライパンに鶏肉を入れて、カレー粉をスプーン2,3杯をふりかける。次にフライパンの蓋をして、鶏が茶色になるまでフライパンを振って炒める。最後にフライパンに酒に加え、鶏肉が柔らかくなるまで煮込む。酸味が欲しい場合は、レモンまたはオレンジのジュースを絞り加える。


【 カレーと一緒に出されるライス 】
米を半ポンド取り、塩と水できれいに洗い、2クォートの沸騰した湯に入れて20分間ぐつぐつと煮る。
牛肉、子牛肉、マトン、ウサギ、魚などをカレーにして、ご飯と一緒に食卓に出しても良いし、ご飯を入れずに食卓に出しても良い。
カレー粉は風味豊かな調味料として、魚、鳥、ステーキ、チョップ、子牛のカツレツ、ひき肉、アラモード、ウミガメのスープなどすべての料理に、さらにはグレービー、ソースなどなどにも使用できます。


『The Virginia Housewife』ではカレーパウダーが良く使われていて、以下に掲載されている料理にはカレー粉が加えられている。

FOR THE SOUP(ウミガメスープ)
VEAL CUTLETS FROM THE FILLET OR LEG(子牛ヒレや足肉のカツレツ)
RAGOUT OF A BREAST OF VEAL(子牛の胸肉のラグー)
CALF'S FEET FRICASSEE(子牛の足のフリカッセ)
BAKED LEG OF MUTTON(焼いた羊脚肉)

これらのレシピで使われているカレー粉は調味料としてでありカレーそのものであるとは言い難いが、それでもここから多くのスパイスがこの時代のアメリカの料理には用いられるようになっていたことが良く分かる。カレー粉そのもののについての配合レシピが『The Virginia Housewife』には掲載されているので、次に記しておきたい。

【 カレーパウダー 】
ターメリック 1オンス
コリアンダーシード 1オンス
クミンシード 1オンス
ホワイトジンジャー 1オンス
ナツメグ 1オンス
メース 1オンス
カイエンペッパー 1オンス
これらすべてを一緒にして叩き、ふるいにかけて瓶に入れコルクをしておく。
※1オンスは約28g


それまでアメリカで食べられていた料理は、イギリス由来のものであったので香辛料の使い方はあまり強いものではなく、どちらかという味にもメリハリのないものが食べられていた。しかしながらメアリー・ランドルフのレシピではスパイス類がふんだんに用いられており、彼女の料理は、西インドやアフリカの黒人料理の影響、さらにはインド由来の料理(カレー)の影響も受けている。

カレン・ヘスも『The Virginia Housewife』解説のなかで、メアリー・ランドルフのスパイスは、イギリス由来ではなく、よりインドの影響を受けたものであると述べている。こうしたスパイスの使い方を料理本のなかで最初に打ち出したのはメアリー・ランドルフであり、その後、こうした料理におけるスパイスの使い方は、BBQなどの料理にも影響しながらアメリカ人の味の嗜好に定着していったものと考えられる。


最後に


メアリー・ランドルフのアメリカ料理に及ぼした影響は大きく、『The Virginia Housewife』は19世紀に出版された料理書のなかで最も重要な書であるとみなされている。またこの料理本は、従来までのアメリカで食べられていたイギリスの影響を受けた料理ではなく、フランス料理、イタリア料理、スペイン料理といった他のヨーロッパの料理、さらには西インドやアフリカの黒人奴隷の影響を受けたクレオール料理、さらにはネイティブ・インディアンの料理を吸収したものだった。

こうしたアメリカにおける料理の礎として貢献した人物が、政治家の家系にあったメアリー・ランドルフという女性によってもたらされたということは大変に重要な事実であると思う。かつてブリア=サヴァランは「国々の命運はその食事の仕方によって左右される」という名言を残したが、これはその国のアイデンティティというものが料理に現れるものであることを意味している。自身が政治家でもあったブリア=サヴァランのこの言葉と照らし合わせると、ポカホンタスを祖とするこのアメリカ建国に関係した一族によって、アメリカの料理がどのように確立されていったのかということの意味にはかなり深いものがあることが分かっていただけるのではないかと考えている。

またメアリー・ランドルフは、第三代大統領トーマス・ジェファーソンとも親戚関係にあったが、この大統領も料理にかなり深い関心をもっていた人物である。トーマス・ジェファーソンについての記事も併せて参考にして頂けると、よりアメリカ初期の食を取り巻く環境がどのようなものであったのか理解を深めて頂くことが出来るだろう。







参考資料


『The Virginia Housewife』  Mary Randolph

『Beyond the Household: Women's Place in the Early South, 1700-1835』  Cynthia A. Kierner

『The Randolphs of Virginia』  Robert Isham Randolph

『Genealogy of the Page Family in Virginia』  Richard Channing Moore Page

『Colonial Virginia's Cooking Dynasty: Women's Spheres and Culinary Arts Colonial Virginia's Cooking Dynasty: Women's Spheres and Culinary Arts』  Katharine E. Harbury

『Colonial Virginia's Cooking Dynasty』  Katharine E. Harbury

『Encyclopedia of women in American history』  Joyce Appleby

『Richmond's Culinary History: Seeds of Change』  Maureen Egan, Susan Winiecki

『The Tomato in America: Early History, Culture, and Cookery』  Andrew F.Smith

『New Orleans Cuisine: Fourteen Signature Dishes and Their Histories』  Susan Tucker

『Thomas Jefferson's Garden Book』  Jggerrons Thomas Bell Edwin Morris

『Eight Flavors: The Untold Story of American Cuisine』 Sarah Lohman

『American cookery books, 1742-1860』  Susan Tucker