メアリー・ランドルフには4人の息子が確認出来る。

David Meade Randolph(不明-1825)

生年が不明だが、父親と同じ名前でJrなので長男だと考えられる。以下はこの人物が、大統領だったトーマス・ジェファーソンに宛てた手紙である。

https://founders.archives.gov/documents/Jefferson/03-13-02-0438

内容はイギリス人の職人を推薦する手紙である。
長男のデビッド・ミード・ランドルフは1816年から18年にかけて、ウィリアム・アンド・メアリー大学に入学した。家族内ではミードと呼ばれ、1818年と1823年にはモンティチェロの従兄弟たちを訪ね、ニコラス・P・トリストやホレ・ブラウズ・トリストと親交を深めた。ランドルフは健康状態が悪く、身体も変形していたようで、生計を立てることが困難であった。ヴァージニアの各地を転々とし、家族のもとに身を寄せていたこともあった。晩年はヨーク郡の学校で教えていた。デビッド・ミード・ランドルフはノーフォークの母を訪ねている間に亡くなったが、その運命を従兄弟のヴァージニア・J・ランドルフ・トリストは「彼に降りかかった最も幸運な出来事」と述べている。

ヴァージニア・J・ランドルフ・トリストは、ノーフォークの母(メアリー・ランドルフ)を訪ねている間に亡くなったと手紙に書いているが、わたしはこの話に懐疑的である。なぜなら母親のメアリー・ランドルフが亡くなったのが1828年1月23日であり、息子のデビッド・ミード・ランドルフの死亡年も1828年と同じ年である。メアリー・ランドルフが住んでいたとされ、埋葬されているワシントンD.Cからノーフォークまでは現在の電車で5時間ほど離れている。つまりメアリー・ランドルフ死の間際にこうした移動が行われたのが考えにくいのである。またなぜメアリー・ランドルフがノーフォークに居たのかの理由も見つけられない。

現在も息子のデビッド・ミード・ランドルフの墓はノーフォークに残されており、この地で彼が亡くなったことは間違いなさそうである。母のメアリー・ランドルフが彼を看取ったとするならば、1月23日以前ということになり、ワシントンD.C.までの死の直前までの旅程や時間を見ると、考えにくい説明となっている。

https://www.geni.com/people/David-Randolph/6000000075948413896

上記は墓の場所の情報である。

晩年はヨーク郡の学校で教えていたが、その頃、父親がバージニア大学の図書館司書に任命されようとして失敗しているという説明がある。息子の手助けか推薦があったが、父のデビッド・ミード・ランドルフは結局は職につけなかったということだろう。


Richard Randolph(1782年10月30日-1859年)

デイヴィッド・ミード・ランドルフとメリー・ランドルフの次男がリチャード・ランドルフ(1782-1859)である。彼は1808年9月にモンティチェロのトーマス・ジェファーソンを訪れている。その5年後、彼はリッチモンドの東10数マイル、ヘンライコ郡のジェームズ川沿いに石器工場を設立。1816年には2階建ての「陶器店」は1,200ドルと評価されている。1822年、彼は父親が発見した防水性の頁岩セメント6樽をトーマス・ジェファーソンに送り、元大統領にその感想を求めた。しかし残念ながら、トーマス・ジェファーソンは「このセメントは水に入れるとことごとく溶ける」ことを知り、モンティチェロでもバージニア大学の建設にも使おうとしなかったという。

https://founders.archives.gov/documents/Jefferson/03-07-02-0086

父親のデイヴィッド・ミード・ランドルフは、山師のようなビジネスを行う傾向があり、イギリスでも炭鉱に関する特許に対する出資者を募りに行くなど、周りの人からみても無謀な行動を取っていた感がある。このセメントのエピソードもそうしたデイヴィッド・ミード・ランドルフの性格を読み取れそうな出来事である。結果的に息子の評判を落とすことになったのではないだろうか。

 William Beverley Randolph(1790年6月11日-1868年5月15日)

三男がウィリアム・ベバリー・ランドルフである。このページの写真は彼の写真であると考えられる。写真には名前が書いてあり、死亡年も合っているので間違いないと考えられる。

1808年にメアリー・ランドルフの夫のデイヴィッド・ミード・ランドルフが破産すると、メアリー・ランドルフは息子のウィリアム・ベバリー・ランドルフに職につくように勧めた。1812年の戦争でアメリカ陸軍に入隊した後、ウィリアム・ベバリー・ランドルフは財務省の事務官に任命されることになる。その後、1836年から1868年の死亡年まで財務省の首席書記官を務めている。ランドルフ家の兄弟のなかでも最も堅実な印象がある。

1824年、母親のメアリー・ランドルフが料理本を出版した年。ウィリアム・ベバリー・ランドルフは4代目大統領だったジェームズ・マディソンに手紙を書き送り、議会の下院守衛官(法執行官であり、フロアとキャピトルコンプレックスのハウス側のセキュリティを維持する責任がある)のポジションへの推薦をお願いしている。この職は1789年以来、合計38人が下院守衛官を務めている役職である。

ウィリアム・ベバリー・ランドルフが推薦を願う手紙
https://founders.archives.gov/documents/Madison/04-03-02-0431

しかし実際にはこの職には就くことが出来なかったようである。リストの中にウィリアム・ベバリー・ランドルフの名前はなく、1824年には選挙で新しくJohn O. Dunnが就任している。

歴代の下院守衛官リスト
https://history.house.gov/People/Office/Sergeants-at-Arms/

興味深いのはウィリアム・ベバリー・ランドルフがジェームズ・マディソンに宛てた手紙の中で

「一世代の罪は他の世代の肩に重くのしかかる」 というのがいかに正しいかを感じながら、私は常に市民および公僕として、公正かつ誠実に、しかし特に政治の舞台を避けて静かに自分の職務を遂行しようと努めてきました。

To James Madison from William B. Randolph, 20 November 1824

と書いているところである。一世代の罪とは、父親のデビッド・ミード・ランドルフの陪審員の買収や米国に対する膨大な借金などのことを指していっているのだろう。父親のデビッド・ミード・ランドルフの間違いによって、堅実なウィリアム・ベバリー・ランドルフは出世の機会を奪われていたと見ることも出来そうな話である。

 Burwell Starke Randolph (1796年-1854年)

末息子の バーウェル・スターク・ランドルフ(1796-1854)はアメリカ海軍の中等兵となったが、転落事故で障害を負い、1817年に辞職を余儀なくされている。母親のメアリー・ランドルフのワシントンD.C.への移住のひとつはその介護の為だったことが考えられる。

『美味求真』メアリー・ランドルフ記事