デビッド・ミード・ランドルフ(David Meade Randolph:1758-1830)が、メアリー・ランドルフの夫である。家系図を調べると、メアリー・ランドルフとデビッド・ミード・ランドルフは、いとこ同士である。この時代は同族同志での結婚が良く行われている。

デビッド・ミード・ランドルフはタバコのプランテーションを経営していたが、1795年頃に初代大統領のジョージ・ワシントン大統領からバージニア州の連邦保安官(連邦裁判所の役人)に任命され政治に関与するようになった。

しかし1808年にトーマス・ジェファーソンが解任。これはデビッド・ミード・ランドルフが陪審員の買収や、アメリカ政府に2428.03ドルもの大きな借金をしていたことなどが理由である。デビッド・ミード・ランドルフは連邦主義者であり、トーマス・ジェファーソンは共和制を支持していたことから政治的な対立のように書かれている場合があるが、実際にはデビッド・ミード・ランドルフに非があっての解任ということになるだろう。

https://founders.archives.gov/documents/Madison/03-03-02-0397

https://founders.archives.gov/documents/Jefferson/01-42-02-0231

デビッド・ミード・ランドルフとメアリー・ランドルフの夫婦は、リッチモンドに「モルダビア」という館を建ててそこを社交の場として多くの人々を招いていたが、こうした散財はバージニア州の連邦保安官という立場があってのことだったのだろう。解任された1808年に自己破産している。

デビッド・ミード・ランドルフはポンコツだったようだ。

その後は、炭鉱技師などになり、イギリスに渡ってこれに関する技術特許のスポンサーなどを探していたようであるが、それが実際にビジネスとして成功することはなかった。マーサ・ジェファーソンは手紙の中で、(Martha Jefferson Randolph to Dolley Madison, 15 Jan, 1808)、破産したディビッド・ミード・ランドルフは1808年に「成功の見込みがほとんどなく、絶望以外の何物でもない計画で」イギリスに旅立ったと書いている。

1815年にはアメリカに帰国したようである。

その後もビジネスは成功しない。息子のリチャード・ランドルフ(1782-1859)は、タッカホーのデイヴィッド・ミード・ランドルフとメリー・ランドルフの長男である。彼は1808年9月にモンティチェロのトーマス・ジェファーソンを訪れている。その5年後、彼はリッチモンドの東10数マイル、ヘンリコ郡のジェームズ川沿いに石器工場を設立。1816年には2階建ての「陶器店」は1,200ドルと評価されました。1822年、彼は父親が発見した防水性の頁岩セメント6樽をトーマス・ジェファーソンに送り、元大統領にその感想を求めた。しかし残念ながら、トーマス・ジェファーソンは「このセメントは水に入れるとことごとく溶ける」ことを知り、モンティチェロでもバージニア大学の建設にも使おうとしなかった。

こういうダメなセメントを出してくるあたりが、デイヴィッド・ミード・ランドルフのポンコツであるゆえんでないだろうか。

https://founders.archives.gov/documents/Jefferson/03-07-02-0086

バージニア大学の図書館司書に任命されようとして失敗したようである。

https://founders.archives.gov/documents/Jefferson/03-13-02-0438

トーマス・ジェファーソンに恨み節とも思える手紙を1815年に書き送っている。ここではデイヴィッド・ミード・ランドルフの生涯についての説明もあるので参考になる。

https://founders.archives.gov/?q=Mary%2CRandolph&s=1131311113&r=16

1823年、デイヴィッド・ミード・ランドルフは、ある訴訟でトーマス・ジェファーソのために証言したことで疎遠になっていた関係を解消した。1830年にデイヴィッド・ミード・ランドルフはヨークタウン近くの息子の家で死去した。