イポリット・テーヌ(Hippolyte Taine)

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 イポリット・テーヌ(1828年4月21日 - 1893年3月5日)はフランスの哲学者・批評家・文学史家である。

Hippolyte Taine


 彼の著書である『近代フランスの起源 Origines de la France contemporaine』という歴史書の中では、以下のように厨房の様子、およびコストの詳細が記されている。

 大膳職は3部に分かれていて、第一部は王と王子たちの係、第二部は小普通大膳職と呼ばれ、御納戸頭、侍従長、王宮に住む王族の食卓を用意し、第三部は普通大膳職と呼ばれ、御納戸頭の第二食卓、主膳監、御付き牧師、侍従侍士の食事を準備し、すべて383人の大膳寮職員、103人の給仕がいた。その費用は2,177,711リーブルに達している。その他389,173リーブルがエリザベート夫人の食卓用、1,093,547リーブルが内親王殿下の食卓の費用、合計3,660,491リーブルが食卓費として消費され、酒卸商は一年30万フランの酒を納め、御用達は100万フラン(リーブルの間違い)の野獣、猟鳥類、肉、魚を納め、水はヴィル=ダヴレーから汲み取り、給仕の使用人と食料を運ぶため50頭を必要とし、その費用だけでも年間70,591フランを支払い、王子と王妃は宮廷に居住しない場合には、断食日に魚を政府局で受け取る特権を持ち、その額は1778年には175,116リーブルに達している。
 年鑑によってこれらの官職の名前を見ると、我々の面前にはガルガンチュアの饗宴が展開しており、厨房のオフィシャルな階級制度には、食卓に関するかなり多くの役職が連なっている。
 総執事、経理担当役と部下、食料品置場係、献酌人と肉切係、執務監と厨房侍従、料理人、料理長とアシスタント、皿洗い、焼きぐしを回す係、ワインセラー係、野菜係、洗濯係、パンやデザートの料理人、食器の給仕、テーブルセッティング役、陶磁器の保存係、金串の運搬人、総執事のための執事、これら全てが神妙な面持ちにエプロン姿、堂々たる丸いお腹の行列が、鍋の前と食卓の周りで順序良く整然と仕事をしていると記されてる。


 『美味求真』には引用した日本語翻訳書籍に誤りがあったのか、通貨単位の表示が間違えているところがあり(下線赤字の部分:ただしリーブルとフランは等価である)、英文も同様に引用しておく。

【 THE ORIGINS OF CONTEMPORARY FRANCE, VOLUME 1 THE ANCIENT REGIME BOOK SECOND. MORALS AND CHARACTERS. II. The King's Household. 】

There are three sections of the table service;2119 the first for the king and his younger children; the second, called the little ordinary, for the table of the grand-master, the grand-chamberlain and the princes and princesses living with the king; the third, called the great ordinary, for the grand-master's second table, that of the butlers of the king's household, the almoners, the gentlemen in waiting, and that of the valets-de-chambre, in all three hundred and eighty-three officers of the table and one hundred and three waiters, at an expense of 2,177,771 livres; besides this there are 389,173 livres appropriated to the table of Madame Elisabeth, and 1,093,547 livres for that of Mesdames, the total being 3,660,491 livres for the table. The wine-merchant furnished wine to the amount of 300,000 francs per annum, and the purveyor game, meat and fish at a cost of 1,000,000 livres. Only to fetch water from Ville-d'Avray, and to convey servants, waiters and provisions, required fifty horses hired at the rate of 70,591 francs per annum. The privilege of the royal princes and princesses "to send to the bureau for fish on fast days when not residing regularly at the court," amounts in 1778 to 175,116 livres. On reading in the Almanach the titles of these officials we see a Gargantua's feast spread out before us. The formal hierarchy of the kitchens, so many grand officials of the table,—the butlers, comptrollers and comptroller-pupils, the clerks and gentlemen of the pantry, the cup-bearers and carvers, the officers and equerries of the kitchen, the chiefs, assistants and head-cooks, the ordinary scullions, turnspits and cellarers, the common gardeners and salad gardeners, laundry servants, pastry-cooks, plate-changers, table-setters, crockery-keepers, and broach-bearers, the butler of the table of the head-butler,—an entire procession of broad-braided backs and imposing round bellies, with grave countenances, which, with order and conviction, exercise their functions before the saucepans and around the buffets.


 イポリット・テーヌが記述した、この出典元は『Archives national, O1, Report by M. Mesnard de Choisy, March, 1780』とある。
 このレポートの書かれた1780年は、ルイ16世の治世の時代で、妻のマリー・アントワネットと共にかなり豪華な生活を行っていたことが伺える。(ここで名前が挙げられているエリザベート夫人は、ルイ16世の妹で、彼女は最後までルイ16世と、マリー・アントワネットと行動を共にした女性である。エリザベート夫人として挙げられている費用は=マリー・アントワネットの費用でもあると考えるべきだろう)

 さらに脚注を見ると面白い情報がある。『"La Maison du roi justifiée" (1789), p. 24.』によると、王宮の食事費用が1789年には2,870,999リーブルに引き下げられたとある。つまり1780年と比べて789,492リーブルの削減である。
 1789年7月14日のバスティーユ襲撃が行われ、ここから「フランス革命」が始まってゆくのであるが、1789年のこのレポートは、そうした民衆の機運に配慮しての贅沢の縮小が行われたことを示していると言えるだろう。

 しかし同書には、1789年の「妃たちの食卓費」は600,000リーブルとある。つまり全体的な費用削減が行われているにも関わらず、この費用に関しては、1780年の389,173リーブルから、600,000リーブルにへと2倍弱程増加しているという訳である。

Marie Antoinette:マリー・アントワネット
(1755年11月2日 - 1793年10月16日)


 マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と云ったとされている。実際には、彼女がそう言ったという根拠はなく、このエピソードは事実ではなさそうである。しかし、いずれにしても上記に書かれている王室の運営費用から捻出された食卓費で、豪華な食事をしてきた王宮の誰かが語った言葉である可能性は非常に高い。
 マリー・アントワネットが語った言葉として…とされてしまったのは、フランス革命前の民衆の生活とのあまりにも乖離している彼女の贅沢な生活がバックグラウンドにあり、それが、この言葉に説得力を持たせてしまったからに他ならない。

 さて「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」の原文は

 Qu'ils mangent de la brioche


となっている。お菓子と訳されている言葉は「brioche」である。ブリオッシュはバターやチーズを使う贅沢なパンで、パンと菓子の中間にある食べ物である。このブリオッシュがお菓子とか、ケーキとして訳されて伝えられたと考えられる。

Brioche


 このブリオッシュのレシピを自宅にある『ラルース・フランス料理小辞典』で確認してみたので、以下に引用しておきたい。

【 ラルース・フランス料理小辞典 】

BRIOCHE(ブリオッシュ):
 ふくらむ生地で作った菓子で、でき上がりの形によって違う型に入れる。

作り方:
 ふるいにかけた小麦粉500g,バター350g,イースト20g,卵8個,塩15gと水大さじ6を用意する。大きなボールに中央をあけて小麦粉を入れる。中央にぬるま湯で溶かしたイーストを加え、オーヴンの口か湯せんで柔らかくこねたバター、卵、塩を加える。少しずつ小麦を中央におとすようにしながらこね合わす。全体がよく混ぜ合わさったら、毛織物でボールを包み約18℃ぐらいの場所に置いておく。4時間ほどたつと生地は倍の量になっている。毛織物をはずし、ボールから生地を持ち上げて取り出さずに内側と底に両手をすべりこませながらはがす。すぐに生地がしぼむので再び毛織物をかぶせたまま3時間ねかせると、生地は再び最初の時のようにふくらむ。バターをぬった硫酸紙をバターをぬったほうを内側にして底と内側に敷きつめ、6cmほど型から出しておく。小麦をふった板の上に生地をのぜ、手や指の先で軽くたたいてこねないようにしながら平らにする。ブリオッシュの頭の部分にするため生地を200gほどとっておき、巻いて別に小麦をふったボールをに入れる。残りの生地をこねずに丸めて紙を敷いた型に入れる。生地が型によくなじんでおさまるようテーブルに軽くたたきつけて毛織物でおおう。ボールに入れておいたほうも同じようにする。もう少し温かい(10~20℃)場所に3時間置くと、生地はさらにふくらむ。3本指で押して中央にくぼみをつけ、別にとっておいた生地を丸めてのせ、頭の部分にする。初めに入れた生地の縁に所々切り込みを入れ、卵黄を頭の部分にも同じようにぬり、熱したオーヴンに入れる。オーヴンの蓋を全部開けないようにしながら、ときどきのぞいて40分焼く。もし上側があまり速く焼き色がついてしまうようだったら硫酸紙を水で湿らせて上ののせる。型からはずして紙をはがし、網の上に置いてから湿らないように冷ます。


 上記のルセットを見ると、バターがふんだんに使われているので確かに普通のパンと比べると、贅沢なパンであると云える。このパンが出来たのはバターの産地であるノルマンディー地方であるとされているが、このバターの分量からもそれは納得できる。作り始められたのは16世紀からとされており、語源は古いノルマン語のブリ(つぶす)とオシュ(ゆすぶる)であるという説があるが、他にも様々あるようである。 またこのラルースでは「ふくらむ生地で作った菓子」とあるので、マリー・アントワネットの言ったブリオッシュは「菓子」で良いのかもしれない。

 ルイ16世は1793年1月21日に、妻のマリー・アントワネットも同年の10月16日にギロチンで処刑されしまう。こうしてベルサイユ宮殿を舞台にした華やかな宮廷生活は終焉を迎えるのあるが、それまで宮廷で働いていた料理人たち、あるいは高い料理技能を持つ使用人達を残して貴族が逃れた為に、多くの料理人が町でレストランを始めることになる。こうしてフランスにおいて、レストランが一般的なものとなっていったのである。

 さて、イポリット・テーヌは、1780年のフランス王宮でどれくらいの贅沢が行われていたかを描きだす目的で、こうした厨房組織に関しての記録を記しているが、ここから我々は、副次的に王宮での料理がどのように提供されていたのか、あるいはどのような組織編成が組まれていたのかを理解することが出来る。
 またさらに、王宮や貴族に仕えていた料理人たちが、職を失う事で、その後に民間のなかでどのように厨房組織を発展させてきたかについても、その原型をみることが出来るのである。


西洋料理の厨房組織


 こうしたフランス料理の厨房組織のありかたは、その後の近代フランス料理の厨房組織にも受け継がれたに違いない。セザール・リッツと共に歴史的なホテル・リッツを作り上げ、その料理を担当したオーギュスト・エスコフィエ( Auguste Escoffier )は、ブリゲード・ド・キュイジーヌ(仏:Brigade de cuisine、“料理の旅団”)という厨房組織を作り上げ、厨房を機能的に運営した。

Auguste Escoffier
(1846年10月28日 - 1935年2月12日)


 その組織の特徴的なものを幾つか挙げることにしたい。

「シェフ・ド・キュイジーヌ:Chef de cuisine」
   料理長。厨房の全権責任者。
「スーシェフ・ド・キュイジーヌ:Sous-chef de cuisine」
   副料理長。シェフの下で厨房の管理を行う。
「シェフ・ド・パルティ:Chef de partie」
   部門料理長。特定の料理の調理を専門とする厨房の部門管理責任者。
「ソーシエ:Saucier」
   ソース、暖かいオードブルを調理し、肉料理を完成させる。
「ロティシュール:Rôtisseur」
   焙り焼き、直火焼き、揚げ物料理のチームを統括。
「ポワソニエ:Poissonnier」
   魚と魚介類料理を調理。
「パティシエ:Pâtissier」
   菓子職人。デザートおよび他の食後の菓子を調理。
「コミ:Commis」
   使用人。

ブリゲード・ド・キュイジーヌ組織図
“Brigade de cuisine”

 オーギュスト・エスコフィエは現代フランス料理の先鞭をつけた重要なシェフであり、彼の著した「ル・ギード・キュリネール:Le guide culinaire」は現代でもフランス料理の世界において、避けて通れないバイブル的な存在である。このエスコフィエの作り上げた厨房組織におけるマネジメント・システムこそがブリゲード・ド・キュイジーヌなのである。

ル・ギード・キュリネール

 この組織の詳細を見ていくと、分業制とその管理に重きが置かれてたマネジメント・システムであることが見えてくる。厨房の頂点に君臨する、総責任者であるシェフは、全従業員を監督し、レストランの支配人と共にメニューと新たなレシピを創作し、食材の購入し、見習いを訓練し、調理場の清潔で衛生的な環境を維持・運営することが仕事である。このシステムにおけるシェフの役割とは、自分が自ら料理人として調理をするというよりはマネジメントを行い、厨房が円滑に機能することに重きが置かれたものとなっている。
 例えばアラン・デュカスは複数店舗(2016年では3軒)でミシュランの3星を取得しているのだが、これはまさにマネジメントとしての仕事の功績の故であると言わざるを得ない。アラン・デュカスが厨房で働いていなくても、そのすべてのレストランで3星店であり続けているということは、アラン・デュカス自身のマネジメント能力が根底にあり、厨房をコントロールすることで、彼の目指す料理の「味」が実現できているからに他ならないのである。
 こうしたフランス料理の組織体制は、特定の個人技によってそのレストランが良し悪しを左右されるようなものではい。シェフの哲学や理念あるいは味の実現を目指すための組織が、一丸となって機能することを目指したものなのである。

 本来、フランス王宮の厨房組織についてのイポリット・テーヌの説明も「庖丁人」の項目に入れておきたかったが、このページを参照してもらうことで、より詳しく知ることが出来るようにした。関連項目の「庖丁人」もぜひご覧に頂くようお勧めしたい。




参考文献


『Origines de la France contemporaine』 Hippolyte Taine

『Le guide culinaire』 Auguste Escoffier