祝融しゅくゆう

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祝融(しゅくゆう)は、中国神話の火の神である。炎帝の子孫とされており、火を司る祝融は南の神でもある。その姿は獣面人身であるとされている。 『五行大義』には、

  顓頊氏子曰黎。為祝融。火官之神
  顓頊氏子で黎という人物がおり、これが祝融である。祀って竈神とする。

とあり、その謂れが語られている。
この祝融を最初は分かりやすく「火の神」というような現代語訳にしようか迷ったのだが、 子供の頃に熟読していた『三国志演義』には祝融に関係するエピソードが述べられていて、それにも言及したいと思い、あえて「祝融」とそのまま記載することにした。 『三国志演義』には古代の火神「祝融」の末裔を自称する祝融夫人が登場するが以下がその話の内容である。

祝融

祝融夫人の夫は孟獲であり、その孟獲は蜀に反乱を起こして、諸葛亮の討伐軍に五度捕らえられては五度開放されるのを繰り返していた。 祝融夫人は、こうした孟獲の甲斐ない姿に耐えかねて自ら出撃する。 手には薙刀を持ち、赤兎馬(呂布の乗っていた名馬)にまたがって出撃した祝融夫人は、男顔負けの武芸の腕と、背中に背負った箱から取り出して繰り出す飛刀で蜀軍の武将達を翻弄し、馬忠と張嶷を一騎打ちの末に生け捕り、趙雲や魏延ら名将達でさえも撤退させてしまう。
しかし諸葛亮は、一計を案じ戦場に現れた祝融に向って「駝鳥夫人」と罵らせて怒らせたところで、魏延にわざと敗走させて深追いさせ、趙雲と魏延の手により捕らえさせたのである。
捕虜となっていた馬忠と張嶷との捕虜交換で孟獲の元に戻った祝融夫人だったが、その後も彼らは戦いをなかなかやめず、孟獲は七度捕らえられて七度開放(七縱七禽)される。 ここまでくると、孟獲はついに諸葛亮に心から心酔し、孟獲と共に蜀に降り、蜀への忠誠を誓うことになった。

南蛮征服ということであるが、この当時、孟獲が治めていたのは現在の 雲南省南部およびラオスの北部の範囲であったとされている。

孟獲

この地はやはり漢民族からすると夷狄の地であり、名前や文化が漢世界とは少し異なるのを感じながら子供ながら読んだものである。 この辺の下りは設定自体も荒唐無稽で、漢民族側からしか書かれてないので実際はどうだったのだろうか。 孟獲が感服して諸葛亮の軍門に下るというのは、やはり「中華の徳に帰化する蛮族」という構図があって、 七縱七禽などはその事を強調するための良いエピソードとなっているように思う。

これに関する周辺の荒唐無稽な周辺エピソードも結構あって、関羽の息子の関索が孟獲の娘「花鬘」と結婚することや、孟獲は首がとれたままでも動ける不死の術などを用いて、逆に孟獲が諸葛亮を七度捕らえたという話もある。孟獲がゾンビになって諸葛亮を捕らえるという話は、もちろん南蛮地域の側に残された逸話で、とんでもない話である。

まあこの話、すでに古代の火神「祝融」の末裔がいるというだけで荒唐無稽なのであるが...。





参考文献


『三國志通俗演義』 羅貫中