美味求真

Menu


第六章

善食類


第一節 : 河 豚

第二節 : 鶏

第三節 : 亀

第四節 : 鼈

第五節 : 人魚 山椒魚

註 釈 : 註 釈

Arrow



 善食という言葉は適当な表現ではないが、次章の「悪食」に対して奇味あるいは好味を意味する言葉として「善食」と呼ぶことにする。ここでは河豚、鶏、亀、鼈、人魚、山椒魚の6種類を紹介する。


河 豚ふ ぐ


 河豚は日本近海の至る所で獲れ、海底に砂礫が多く水が綺麗な所を選んで生息している。中国では淡水で生息するものが多いために河豚という名前が付けられたのかもしれない。海藻または小動物を餌にしており、体は肥満していて頭が高く、時によっては腹部を膨張させることがある。皮膚には鱗が無く(学術上では鱗があるとされている)口は小さく、顎は嘴状になっており、両頬とも中央に縫合線がある。大きなものは90cmに達するものがある。河豚には変わった生態があり、触れるとたちまち毬のように腹を膨らませて水面に浮きあがる。これは多分、敵を威嚇する目的だが、一見すると非常に異様で、かつ滑稽でもある。このために中国では嗔魚、吹吐魚、気包魚などと名づけられている。イギリスでは球魚(Globe fish)と言うが、これも同じ理由からこうした名がつけられたようである。また別名で鸚鵡魚(Parrot fish)と言うのはその口が細く、上下に並んだ2枚の歯が突き出ていて鸚鵡の嘴に似ている為である。なごやふぐ、まふぐ、銀ふぐ、虎ふぐ、赤目ふぐ、かなふぐ等、日本だけでも25種類もの種類に達している。毒は赤目ふぐに多く、味は虎ふぐが第一である。かなふぐは無毒であるとされている。
 味の一番良い虎ふぐも、調理法が悪ければ中毒症状を起こして生命を失うことがある。ただし最近の研究の結果、毒は卵巣と肝臓にあることが解明されているので、割烹の際に、十分に注意して有毒の部分を除去して、かつ毒素が身に付着しないようにするならば中毒の恐れはない。中国の『事物紺珠』という書物に「河豚はその肝でよく人を殺す。橄欖、蘆根ろこん、炒槐花には解毒作用がある」とあり、その毒のある部分を中国人は昔から理解していたものと思われる。なお『本草網目』にはこの魚の習性に関して「河豚は川や海のどこにでも生息している。呉越地方で最も多く獲れる。その形状はオタマジャクシのようであり、背の色は青、赤、黄、黒など種々ある。三尾一組で移動し、淡黒、文点、虎斑のあるものは毒性が最も強い」と述べている。この観察は日本とは異なっているようである。淡黒、文点、虎斑とあるのは日本では虎ふぐのことである。

 昔、河豚の毒のありかが分からず、その調理法が粗雑であった時代は、河豚のために生命を落とす者は少なくなかった。よって江戸時代には河豚を食べることは禁止され、違反する者は処罰された、尾張紀州藩の禁令に、

 一、河豚捕来売捌候漁師買取売捌者買請けべ候者押込五日
 一、右魚貰い請けべ候者押込三日

とある。各藩でもこれと大同小異の布令があった。明治に入っても処罰が行われた地方もあったが、現在では全国で解禁され、河豚は今までになく自由に食べられる時代となっている。

 中国では法律で禁じられたという記録はないが、河豚食に関しては相当の賛否両論があり、その論旨にはかなりの中国的な特徴がある。まず反対論から紹介すると「魚に鱗が無いもの、鰓の無いもの、膽の無いもの、聲の有るもの、目が瞬きするもの(魚の目は開いたままだが河豚は人間のように瞬きをする)は皆、毒がある。河豚はこの数点に合致しているのでその毒は大いに注意すべきであり、体を気遣う人は食べないように」と論じている。また本草その他すべての博物書でもその有毒性が論じられている。

『楓牕小牘』という書物には、蘇東坡が一命を賭けて河豚を食べたエピソードがある。

東坡謂食河豚值得一死。余過平江姻家,張諫院言南來無它快事,只學得手煮河豚耳。須臾烹煮,對余方且共食,忽有客見顧,俱起延款,為貓翻盆,犬復佐食,頃之貓犬皆死,幸矣哉,奪兩人於貓犬之口也。仍汴中食店以假河豚餉人,以今念之,亦足半死。

 蘇東坡は河豚の愛好家として世に伝えられ、河豚の吟詠さえある位なのに、上記の談話から見れば河豚食に関しては絶対的な賛成者ではないかのように思われる。一方、諸名家の間には河豚食の賛成者と思われる者が非常に多い。『河豚談石林詩話』のなかで欧陽公は、

今浙人食河豚始於上元前,常州江陰最先得。方出時,一尾至直千錢,然不多得,非富人大家預以金啖漁人未易致
【現代訳】 長江中下流域の江蘇でなければ他にどこがあるのか。河豚の時期になるとその一尾は高いお金を払っても得難く、金持ちでない者は漁師にお金を払っても手に入れようとするがそれでも得難いのである。

と述べている。また張耒ちょうらいの著した『明道雑誌』の中で晁補之ちょうほしは、

初出時、雖其郷亦甚貴。在仲春間、呉人此時會客、無此魚則非盛會
【現代訳】 河豚が出回るようになる時期、その産地でも河豚は非常に高価である。春の時期は、呉人の客を招くとこの魚がなければ盛会とはならない。

と論じていて、蘇東坡は『洛致鏡原』の中で

其味真是消得一死
【現代訳】 一死の値打ちがある(ほど美味しい)。

と極論を述べている。また厳有翼はその著書の『藝苑誌』の中で「丹陽宣城に知事として在任中、全ての地元住民の家庭で河豚は食べられており、菘菜、蔞蒿、荻芽の3つと一緒に煮れば死者を出さない。河豚は水族の奇味である。これを食べると健康にも良い」と論じている。両派の議論の可否は別として、現代の中国においても河豚食の賛成者がますます増加しているのは事実である。

 河豚が毒をもっている事は疑う余地はなく、それと同様にその美味しさについても古来から定評があった。

  二つなき命はしらずこちらには
      かけがへのある鍋のふぐ汁

とあるのを始め

  河豚汁や豪傑は我と汝のみ(井村)
  河豚食えば仏も我もなかりけり(大江丸)
  河豚食わぬ人には云わじふぐの味(大梅)

など河豚の美味に傾倒した内容が詠まれている。中国の梅尭臣ばいぎょうしんは詩を作り次のように述べている、

春洲生荻芽春岸飛楊花河豚当是時貴不数魚蝦
【現代訳】 春になって川の中州の蘆に芽が生じ、岸に柳のわたが飛ぶ頃、河豚は川を遡り、旬を迎え、他の魚介類は物の数ではなくなる。

さらに蘇東坡も次のように詠んでいる

更洗河豚烹腹腴紅點冰盤藿葉魚

我国の吉益元光も河豚を称賛して

誰謂西施魚 甘温而有毒、毒在西施色何有於汝肉

と言えば、中国の『石林詩話』に (※この出典は『格致鏡原』であり、『石林詩話』は間違いと思われる)

河豚来毎三頭相従號為一部諺云得一部典一袴言烹和所用多也

と称賛している。同時にまた我国では
  「ふぐは食いたし命は惜しい」
と人情の機微の本音をかたると、中国でも同様に
  「河豚を食べる人は例えば随侯の珠玉で深い谷の雀を撃つようなものである」
とも語られ、そのいずれもが一命をかけてでも河豚を食べようとしているのをみると、その味が尋常でないことを理解することが出来るだろう。

 このような極端な嗜好を基盤としている河豚食の風習は、日本も中国もまったく同じ点が少なくない。我国では馬関(下関市)および豊前(※豊後も含めるべきであると思われる)など河豚の本場で、季節の宴会にふぐ料理がなければご馳走ではないという雰囲気があるのは、中国もまた張耒ちょうらいの著した『明道雑誌』に、呉人此時會客、無此魚則非盛會とある通りで、その雰囲気は我々と全く同じである。中国の呉越は日本の馬関に対比すべき河豚の名産地である。我国では河豚の無い場合はよくこちで代用して鯒のチリを作ることがあるが、鯒には「うぐいす」(※くちばしを俗にうぐいすと呼んでいるが、正しくはしりびれ基部の血合い筋をうぐいすというのが正しいとされている)も、「とうとおみ」(※皮の部分で、一番外側の皮を鮫皮、内側の皮下組織をとおとうみと呼ぶ)もなく、もともと河豚とは比較にはならないのである。それでも不満ながらに箸を取るのとまったく同じで気持であったのだろう、中国の蘇東坡の言葉に、餘在真州會上食假河豚,是用江鮰作之,味極珍。有一官妓謂餘曰:「河豚肉味頗類鮰,而過之,又鮰無脂也。」,論咄反,河豚腹中白腴也。土人謂之、西施乳」とある。つまり河豚の代用としてかい(ナマズの一種)を使っていたようなのだが、腹腴のないのを残念がっているところも我国と同じである。

 また河豚には特徴があって、一度煮て置いたものを再び煮直しても味が落ちないだけでなく、むしろ一層味が良くなるので、我国ではわざわざ前夜の料理したものを再び温めなおして食べる人も多くいる。中国でも同じように、河豚は再び温めなおした方が美味であるとして『格致鏡原』に、「美尤宜再溫吳人多晨烹喜突成撲容至率再溫以進」(その美味は温めなおしにある。呉のひとは河豚を羹にして客に勧めるが、再び温め直してこれを勧める)とある。
 このように日本でも中国でも共に通人の味わっている本質が同じものであることを理解できるのである。
 また我国の河豚通が、肝臓も卵巣も毒のあるのを知りながら食べて、一命をも賭けて全く顧みないのと同じように、『格致鏡原』では中国でもまた「河豚の子は食べてはいけないと言っているが、呉人はそれに一切の頓着は無い。河豚食によって死ぬ者がいるとしても、それは中毒ではなく、脳梗塞による頓死なのであると主張している」とあるので、その人情的な弱点も全く同じであると言えるのである。

【 備 考 】
 中国における河豚の代用品である鮰は鮠魚はやと同じものである。我国ではモダマまたはノウソウ魚の類である。楊慎の『異魚圖贊』には「河豚藥人時魚多骨兼此二美而無兩毒粉紅雪白洄魚堪録」(河豚は人にとっての薬であり、この魚は骨が多く、その身は美しい)とある。


 河豚の季節は12月から翌年の3月までの4ヶ月間が最も良い時期である。これは中国人が春を河豚の旬としているのと同じである。河豚の調理法を説明すると、まず新鮮でなるべく大きなトラフグを選んで、塩で外皮を摩擦してよく洗い、腹を割いて内蔵を取り出す。卵巣、肝臓および白子を傷つけないようにして取り除き、骨の関節および骨と身の間に刃を入れてよく血を搾り出し、腹腔および口唇、口腔内などをくまなく洗浄して皮の一端に切り目を入れて引き裂けば、白玉のような肌身があらわれて皮が綺麗にはがれる。これを三枚に下ろすのである。唇を俗にウグイス、腸を鉄砲という、腹壁はトオトウ身(み皮「三河」に近いという意味)と称している。中国人が精巣や卵巣を腹腴または西施の乳と呼んで珍重しているのは、中国においても日本においても同じである。鰭も鰓も皮も骨も各々特別の名称と特別の味わいをもっている。鰭は網で炙り、熱い酒を注いで鰭酒にするならば、その香味はもちろん、非常に優れた味わいとなる。

 このように河豚は全身どの部分も皆、珍重すべきで、糞尿ですらまた珠玉のようであるとはこの魚のことである。また調理の方法においても用途が広いことは、魚類の中でも他の魚に匹敵するものはないだろう。どんな料理にも適しており、一尾で百味の違いを持っているのが河豚なのである。これを膾にすれば膾の中でも一番であり、干物にすればその中でも白眉であり、味噌汁にすれば汁に甘みが生まれ、すまし汁にすれば汁に清鮮の気が起こる。飯を入れれば雑炊によく、餅を入れば雑煮にも良い。チリにすればこれと争えるものはなく、蒲鉾を作れば蒲鉾のなかでも優れている(河豚のはんぺん料理は第四章にある)その他に、フライ、甘煮、天婦羅、味噌漬け、塩焼き等すべての料理法において最高であり、適さないものがない。しかもこの魚は死後も容易に腐敗することがなく、また腐敗に近づいても味が変化しない。一度煮て、数日たって再び煮なおしてもその味は落ちないので、他の魚類と全く別種の特質を有していると言えるだろう。中国人は羹にして食べているが、日本ではチリにして賞美する。チリは誰もが知っているように極めて簡単な料理である。以下にその方法を述べる事とする。

 河豚の季節になると、霜が降り始め、黄橙がすでに枝には熟している。橙と河豚は同じ季節のものであり、その味もまた互いに適合している。二つのものの作用によって芳香、佳味といった非凡の妙趣を生み出すため、黄橙が無ければチリはなく、河豚チリがなければ黄橙はその役割を発揮できないとまで言えるようになっている。
 中国広東料理の有名な蛇料理である「三蛇會」は、菊の花と合わせられる料理であるが、菊花なければ三蛇會は成立せず、三蛇會がなければ菊花はその香りが失われてしまう。この関係は河豚と黄橙の関係と同じである。

 さて、まずは橙酢を搾り、これに大根おろし、からし等の好みの薬味を加える。一方では七輪の強火で鍋の湯を沸騰させ、隣で河豚を捌いて、皮も肉も骨も鰭も鉄砲もウグイスもトウトミも各部分に分類して大鉢に盛ったものを、各自その好みのものを各々その箸で湯につけたままにして、肉が反って縮まる頃合いをみて、先に用意してあった橙酢( 河豚通の人はこの酢に河豚の肝臓 [ ※ これは条例の関係で大分県でしか食べられれない方法である ] を茹でたものを溶いて酢に加えたものを用いる)につけて食べる。後は順次、食べればまた、次々に河豚の身を入れて食べる。こうして食べれば食べる程ますますその逸味が加わるのである。その肉には清澄であって光輝がある、その色は白玉のようであり、味は繊細にして厚みのある味である。いわゆる「淡にして薄味でなく、味に厚みがありながら脂っこくない」とは河豚の事を表現しているのである。これを食べれば人はおおらかになり、心はリラックスする。体内の違和感は一夜にしてなくなり、厳しい冬でも氷雪の寒さを感じる事もない。人間界には普通の食味を超越したものがまれに存在するが、もしそれが天界の玉饌でないとすれば、まさに河豚こそが魔界の奇味であると言えるのではないだろうか。一度でもこの味を理解してしまうと、どんな人でも河豚の虜となってしまうのは不思議であると言うしかない。

 河豚料理の本場は今から述べる「馬関ばかん( ※ 現在の山口県下関市 )が最も有名で良く知られている。萩の近海である三田尻付近の海では河豚がたくさん捕れ、獲物はすべて馬関に集められる。ただしその品質に関して言えば豊後の姫島産のものが最上であるといえるだろう。
 馬関の料理店は争って姫島産を仕入れ、これを馬関のものとして客に提供している。これは羊頭を掲げて狗肉を売ることに他ならず、他家の美羊によって、自家の評判を高めつつある。姫島の河豚の良いところは、その付近の海底がすべて岩石であり、潮流が激しく、かつその餌である海藻が沢山あることが理由である。もともと東京近海で獲れる魚の味はあまり良くないと言われているが、東京湾から出た太平洋で獲れる河豚には上等なものも少なくない。しかも価格は比較的安い。こうしたことがあまり世間に知られていないことは惜しいことである。近年、東京の多くの人が馬関から河豚料理を取り寄せて、その贅沢を誇るのが流行しており、馬関の河豚料理でなければ河豚料理ではないとする風潮すらある。甚だしいのに至ると、馬関の料理であれば絶対に安全であるが、他の産地のものは危険が多いと信じる込んでいる者も少なくない。これらはすべて狭量で、物事に通じていない人の言う、取るに足らない意見である。
 河豚の料理法は他に何ら秘伝があるわけでは無い。卵巣と肝臓だけを取り除いておけば危険では決して無い。東京の人が河豚を味わおうというのであれば、東京の近海で河豚の逸品を多く手に入れることが出来る。わざわざ高価な支払いをしてまで遠く馬関から取り寄せる必要があるだろうか。数年前に国民新聞紙上に掲載されていた『青島剳記』の中で大谷光瑞師は「上海在住の日本男性は中国米は食べることを好ず、必ず日本米でなければ口にすることはない。中国米の中でも上海米であれば日本米とその味はほとんど同じであり、品質は却って上位であるが、日本人はこれを買おうとしないので、狡猾な商人が上海米を日本米と偽って、代価を高くして売り出した所、すべての日本人が皆、喜んでこれを食べた。これは高価だから良い、安価だから悪いのだろうという心理からくるものである」と述べている。
 東京の河豚食いもまた、大谷師の笑い者となることのないようにと願うのみである。

【 備 考 一 】
一、河豚の毒素の正体がテトロドトキシンであることを立証し、今日の臨床界にこれを承認させたのは、田原純博士の功績に帰するべきであるが、この毒は河豚の卵巣にあって、卵巣の腐敗によって生じるものでは無い。このテトロドトキシンは美麗な卵色の粉末であり、香りも味もない。そして体量の50万/1のテトロドトキシンで容易にその動物を殺すことができるほどの猛烈な毒素である。

【 備 考 二 】
二、中国では河豚の多くが川に生息していることが、日本人には奇異に感じるのであるが、河豚が海だけにいると思うのは、間違いである。生物学によると、すべて地上の生物の源は浅い海底で発生して、それから後に淡水中に拡散し、さらに陸上の生活に適するようになったのであり、淡水中の生物の全てその祖先は海産生物を起源としている。そしてある種の魚類は今でもなお、淡水と海水の両方で生活している。河豚はその好例であると言えるだろう。また淡水と海水の間を行き来して生活する魚に、鮭、鱒、鮎、鰻、チョウザメ等があるが、こうした生態にはこうした理由があることを理解しておく必要があるだろう。




第一項 鶏の由来

 鶏は家禽の中でも最も重要とされている。その原産地はアジアの東南部、特にマレー半島付近とされており、ビルマやインド等ではかなり古くから飼育されていたようで、グラス・ファードの『虎狩物語』の中でも「インドでは藪の中にいて毎朝定時を報じる」と記載されている。鶏がペルシャ、バビロニアを経てヨーロッパに入ったのは、紀元前4,5世紀の頃とされている。ホメロスにも旧約聖書にも、またエジプトの古碑にも、鶏について何ら記載がないのを見ると、この時代にはまだ存在していなかったことが分かる。ソクラテスは獄中自殺の前夜、弟子への遺言のなかで、隣家に借りた鶏を返却するようにと言っているので、ソクラテス以前に鶏はギリシャに居たことが明らかである。その後になるとローマでは闘鶏の遊戯が盛んに流行していたとあり、また紀元前一世紀頃、当時はまだ未開の田舎者と見られていた英国にも鶏が移入されたという史実が残されている。

 中国人は鶏の原産地は朝鮮であると考えていたようで、『本草網目』には「朝鮮乃在玄菟、樂浪,不應總是雞所出也」とあり、鶏の起源は朝鮮にあるとし、そこを鶏林という異称で呼んでいるようであるがこれは誤りである。朝鮮の鶏は実際は中国から入ったもので、その中国も西蔵( ※ チベット )から輸入したものである事が明らかになっている。またその年代は確かではなく、H・G・ウェルズの『世界文化史』ではそれを紀元前千年頃と断定しているが実際はもう少し早い頃であると思われる。なぜなら『尚書』の武王牧誓の中には「牝鶏無晨(牝鶏は朝に鳴かない)」とあって、武王は、商王が婦人の言葉を使うことを罵ってこれを理由に殷国に対して宣戦の理由としたことが記されているからである。この武王の言葉は古人の言葉として引用されたものだが、これは商朝時代の初期に既に鶏が知られていたことの明白な証拠である。

 しかしながら『呂氏春秋』の本味論に鶏の記載がなく、流砂の西、丹山の南、鳳凰の卵があり、沃民がそれを食べているとあるのは、実はインド地方の鶏を指しているものかもしれない。また文中に長澤の卵とあるが、それが鶏の卵のことなのか、あるいはそうでないのかすら不明である。よって伊尹いいんの時代にはまだ鶏はいなかったと見るのは当然であり、もしそうであれば鶏が中国に入ったのは商朝時代の中頃であるとする説に合致することになる。(商は紀元前1750年から1150年迄である)
 周代になると鶏はそれほど珍しいものではなくなっていた。『周禮』には鶏人と称する官府さえあって、鶏に関することを司っていたと述べられている。またその六牲と称する家畜のひとつに鶏が数えられている。『詩経』鄭風の篇には、女曰鶏鳴の章がある。このようにこの時代の中国になると、既に鶏に十分になじみがある様子になっているのを見ると、鶏が中国に来たのは西洋学者が紀元前1100年頃であるとする断定よりも、実際は4~500年位は前であるとする方が正しそうである。

 このように中国では鶏の歴史が非常に深く、朱公、勃公子、鳥衣婦人、會稽公、戴冠郎、司晨郎はすべて鶏の別名である。犬は家畜としては鶏よりかなり早くから飼い馴らされており、中国ではこの犬と鶏とを並べて中国人の生活と切り離すことのできないものとしている。つまり鶏犬という言葉は、中国の古い熟語であって「ここに犬がいれば、そこに必ず鶏がいる」という意味である。『呂氏春秋月令』の『孟夏紀』には、天子が菽と鶏を食べるとあり、『孟秋紀』には、天子が麻と犬を食うとある。王肅の『儀禮』には冬の日に鶏を磔にして寒気を送るとあれば、伏日に犬を磔りつけにして蟲災を防ぐと記している。『東方朔占書』には正月の一日には鶏を、二日を狗としてある。また孟甞君が秦の昭王から逃れた時には、一方では鶏の鳴き声の真似によって函谷関の門を開かせ、もう一方では狐白裘こはくきゅうを盗んだ狗盗による功績があった。鶏寒狗熱とは『食物本草』によく出てくる言葉である。最後に『神仙傳』には准南王安(劉安)は神仙の術を求め、霊薬を自ら調合して真昼のうちに空に浮き上がったとされているが、去る時に薬器を中庭に置いていた為に、家で飼っていた鶏や犬もこれを舐めた為に天に昇ったという伝説もあるが、これまで数え挙げておくべきでは無いかもしれない。

 日本では天の岩戸を開く伝説にも登場していて「常世の長嶋鳥」というのが鶏のことである。よって歴史以前から鶏がいたことは疑う余地も無いが、その渡来した年代は明らかになっていない。多分、周代の後期頃に朝鮮を経て日本に入ったのだろう。アメリカに入ったのは最後であり、時代は最も遅く、16世紀にスペイン人によって移入されたとされている。ヨーロッパでも中国で鶏が時を作ることを最初は奇妙に思われていたようで、『新約聖書』には鶏の鳴き声は、ペテロがその主を見捨てたことを叱る声であるとされている。中国では『玄中記』に、「桃郁山に幡桃という大樹があって、枝の広がりは三千里におよび、上には天鶏がいて、日の出が、この木を照らせば天鶏が時を作り、世界の鶏がすべてこれに従って鳴く」とある。
 また『拾遺記』( ※ 正しくは『神異經』である )に、「扶桑山に玉鶏がいて、玉鶏が鳴けば金鶏が鳴き、石鶏が鳴けば世界中の鶏がことごとく鳴く、潮の満ち引きはそれに応じて起こる」とあり、鶏の鳴くのと海水の干満が関係しているとしている。また日本でも鶏は天照大神の付き物となっており、現に伊勢神宮の内宮の神園に鶏が放し飼いされているのを見てもその理由を理解できる。また我国の神社に建てられている鳥居は、『倭名類聚抄』には「鶏栖」とある。つまり鶏の止まり木として古代から神聖視されていた。そして鶏鳴が夜の鷹を追い払うという考えは日本でも中国でも同じであり、新約聖書のマルコ伝にも同様の記録を見ることができる。
 また『保生心鑑』には「五月に枯井深笄の下に降るべきではない、毒気が多いからである。まずは老鶏の毛をその中に落とす。その毛が旋舞する場合は毒気がある」と述べている。『淮南萬畢術』には「其羽焚之可以致風」と記されており、『五行志』では「雄鶏毛焼着酒中飲之所求必得」(雄鶏の毛を焼いてそれを酒に漬け込んでおいたものを飲めば求める所を得られる)と言われているように、鶏はその鳴き声だけでなく、鶏そのものに関しても異様の鳥類であるとされている。

 鶏の原種に関しては種々の説がある。ある博物書にはマレー半島、スマトラ、インドシナ、ジャワ等に生息する赤色の野鶏がいたことから、これを鶏の元祖であるかのように書いているが、この鳥は人に馴らして飼うことは困難で、家鶏と交配することも出来ない。また一時は交雑できても連続的に交配することが出来ないのは、馬と驢馬との関係に似ている。したがって、この鳥と鶏は別種の山鳥の一種のようである。またこの鳥には台湾にも同種のものがいて「台湾の山鶏」と名付けられている。先年この鳥を台湾から輸入して新宿御苑に収容し、佐藤技師による孵化繁殖が成功したことが新聞に(大正9年夏 国民新聞)発表されてた。一時は人々の関心を引いていたが、その後もうまく繁殖しているようである。上野動物園にも現在は(大正10年7月)台湾の山鶏が飼育されており、雌鳥が三羽の雛を保育中であったのを見たが、その後も成長は良好であるように思われる。この鳥の特徴は足がすべて赤色である事と、頭と眼のあたりに一種の特徴があるので、鶏の元祖と別種のものであることは素人でもすぐに判別できる。

 また南洋に生息する山鶏の一種にバンキヴァ鳥という種がいるが、この鳥は比較的に馴れて養育し易く、家鶏と交配して雑種の交配ができるので、鶏の元祖はバンキヴァ鶏であると論じている学者もいる。しかしこれにも様々な議論があって肯定し難いため、純然たる鶏の原生種は、今は種が途絶えてしまっているという議論の方が正しいようである。それに対して養鶏は全世界に広がり、人類の棲んでいる所で鶏がいない所は無いとまで言われるようになっている。現在の世界において養鶏が最も盛んなのは、最後に伝わったアメリカを筆頭に、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアと続き、日本は第6位になっている。

【 備 考 】
 今から数年前に根津一郎氏等の日本実業団の一行がアメリカを訪問した際に、ニューヨークの富豪達が晩餐会をもうけてこの珍客を歓迎したことがあるが、この献立の中に野生の鶏と、自然米の料理があり、珍客達を驚かせたが、それは今でもなお当時の土産話として社交界の話題に残っている。鶏はもともとアメリカの原産ではなかった。アメリカに入ったのは16世紀にスペイン人によって持ち込まれたというのは先に説明した通りである。従ってここの鶏の野生原種がいる理由がない。ただし七面鳥は北米の原産であり今でも獲られているので、その原生を山鶏と称したのではないだろうか。また西インド諸島に珠鶏(ホロホロ鳥)の野生がいる。これはアメリカ原生ではなく、西部アフリカの原産種がヨーロッパ人によって飼いならされて家禽となったものがアメリカに輸入されたが、再び野生となって繁殖したものである。よってニューヨークにおいて提供された野鶏料理というのはもしかするとこの珠鶏であったのかもしれない。
 この饗宴に参加した人の話では、米はかなり小粒で色が黒く味は淡白であり普通のものと異なっているということであるので本当に自然原種のものかもしれない。現在、アメリカで耕作されている米の種類はすべて東洋から輸入されたものだが、記録によればジョージア州とフロリダ州の一部に米の原産があるとのことなので、もしかするとこれら自然のものを入手してもてなしを行ったのかもしれないので、本当に珍しい料理であったといえるだろう。




第二項 鶏の種類

 鶏は種類がかなり多く600種余りに及ぶと言われている。あるものは肉質が美味しく、またあるものは産卵性において、またあるものは体重が重いことにおいてと多種多様である。産卵性のものは挙動が軽快で俊敏であり、一般的に体格が小さく、神経質であるので驚き易く、餌を獲ることに必死なため、巣に定住することも少ない。一般的に早熟早老で多産である。なお詳細を知ろうとするならば、家禽学について研究して頂くとして、本項においては単に以下の三種類だけを挙げるに留めておく。
 ただし肉用の鶏の雄は孵化後4ヶ月目に去勢するのを良しとする。去勢鶏の肉は柔軟であり美味である。去勢を最も早く実行したのは中国である。中国ではこれを騸鶏と言う。この他にも中国人は鶏や鵞鳥の肥満法として、これを殺す前に暗い所に入れて驚かせないようにして、玉ねぎ、大麦等の粉末に脂肪分や牛乳を加えて、こねて混ぜた団子を無理やり嘴を開いて押し込み、しばらくこれを行うこと10日ほどに及ぶと肥満することは確かである。古代エジプト人も同様の方法を鵞鳥に用いているという。西洋人は近頃この中国流の肥満法を学理に応用して一時に数百羽を飼養する機械を使用しているという。便宜上、以下に鶏の種類と名前を挙げて置く。

卵用鶏
 ミノルカ種、アンダルシャン種、スパニッシュ種、レグホーン種、アンコナ種、ハンバーグ種

肉用種
 ウーダン種、クレープクー種、ドーキング種、ブラマ種

卵肉兼用鶏
 プロマスロック種、ドミング種、ワイヤンドット種、オルピントン種、コーチン種

 大体、以上の3種類の他に、我国の特産に名古屋コーチン、シシャモ、長尾鶏がある。中国の特産には烏骨鶏、長鳴鶏がある。以下に簡単な説明を加える。

一、名古屋コーチン
 今を遡ること60年前、尾張でバフコーチン種から人為的に作ったものである。肉豊美であり産卵力もまた強く、体質は強健であり、飛翔の心配もないので柵内の飼養にも適しており、我国において最も実用向きのものとされている。

二、シャモ
 シャム(タイ王国)から伝来したものが、シャモとなまったものである。別名でマレー種とも言う。マレーにおける在来種を改良したものである。体質強健で骨格が逞しく、勇猛な性格であるが平素はその闘争性を抑えて、おだやかに飼養すればその肉は柔軟で美味であり、ヨーロッパ種もアジア種もこれに及ぶものはない。

三、長尾鶏
 日本の特産であり、始めは土佐国の長岡郡篠原村から出て、天保年間に高知においてこの鶏の飼養が非常に流行し、競い合って長尾を作ったために、益々と美麗な良種を伝えて今日に至っている。その起源については昔、山内一豊は槍の装飾に用いるために、国内から長尾の鶏を徴発したことがあるが、当時、ある老農は山鳥と鶏を掛け合わせ50年間の苦心を重ねて自然淘汰を行って作り出したとか、あるいは最初は朝鮮から輸入されたものであるとか、種々の説が伝えられているが、今日のところその正確なことは明らかになっていない。朝鮮の尾長鶏も昔から有名である。魏志に朝鮮尾長鶏が記されている。鶏尾が細く長さは5尺(1.5m)あまりとある。また事物紺珠にも、尾長鶏は高麗から出て、尾の長さは5尺(1.5m)とある。中国人は朝鮮を尾長鶏の産地としているようであるが、但しその尾長鶏は我国のものには遠く及んでいない。尾長鶏が世界に知られたのは、明治5年にオーストリア博覧会に、高知県から尾長鶏の、長さ3m余りの尾を出品し、世界を驚かせたのをはじめ、今日においては欧米の博物館にこの鳥の標本を見ないところはない。また諸外国の出版の博物書、特に進化論に関する著述には、所々にその図を見る事がある。この鳥は姿勢が優美であり鑑賞用として最も適当であり、鶏冠は紅く直立しており、耳朶は白色で肉髷にくげいは鮮紅色である。尾の羽毛は長いものが約24本ある。その長さは4.5mに達するものもある。現に東京博物館にある4匹のなかでも最長のものは4m50cmある。ただし肉用、卵用ともにその用には適していない。

四、烏骨鶏
 中国の原産で我国にもまれに飼育する者がいる。その特徴は骨および皮膚ともに黒色を帯びていることである。ゆえに鳥骨の別名もある。羽毛は概ね純白であり細く裂けていて柔軟で絹のようである。中国人は古来から特にこの鳥を珍重して、滋味においても鶏の中でも肩を並べるものはないと信じているようである。徳川時代の婦人病の妙薬として一時期非常に流行したことがある。鳥鶏丸うけいがんとはこの鶏の骨を焼いて作ったものである。『古詩』にも

   白色鳥骨獨超群
   気質雖殊五徳存

などとある。肉は普通の鶏に比べて甘味がある。中国人は特にこの鳥の脚の料理を賞美する。西洋人は1800年代に始めて中国にこの鳥の存在を知り始めは大いに驚嘆したという。

五、長鳴鶏
 中国の古記録に所々現われているが、現代ではその存在については明らかで無い。


鶏卵は古来人類の食料としては最も普遍的で、最も貴重なものであるので、養鶏家は鶏卵を多く産ませることの研究に熱心である。カナダには一年間に282個の卵を産む鶏があったが、その後さらに291個を産む鶏がいたことが報告され(ジェームズ・トライデン教授)、最近は318個を産む鶏もあるという。最終的には1日1個の割に産ませることが出来るまでになると論じる人がいる。
 卵殻の白色のものと褐色のものは、褐色のもの方が卵白の粘りが強く、味もまた良いとの説が多い。卵黄は濃度の高いもの程良いとされている。これは親鶏の種類によって異なるが、一般に野菜の餌を多く与えれば黄色が増すようになる。卵の消化は煮たものも、生のものもほとんど差異がないと言う。牛肉の消化率を100とすると、これに対して約85であるとされている。アメリカでは取り扱い上の破損や腐敗を防止するために鶏卵缶詰の工場がある。中国にも漢口に鶏卵および家鴨の卵で卵粉を製造して一般の食用および菓子製造の原料に供給している。

 鶏卵は食用以外にも種々の用途がある。西洋古代の絵具には多く鶏卵が混ぜられており、今でもテンペラという絵具には卵白が混ぜられている。また写真用の鶏卵紙、写真銅板の印書および着色写真等にも使用されている。この他にもセルロイドの製造や、塗料等にも種々の用途がある。



第三項 鶏料理

 鶏料理で普通に行われる方法は、吸物、薩摩汁、鶏鍋、鶏炒め、鶏肉そぼろ、鶏肉のぬた和え、鶏飯等と多種多様であるが、これらは広く世間に周知されている料理なので、ここではいちいち説明を加える事はしない。ただ品質の選び方、火加減等に注意すれば良いだけである。 羽倉簡堂 の著書に「鶏問鯛魚無四方四時之別」(鶏と鯛は何時でも何処で獲れたものであっても問われない)とあるが、これは大きな間違いである。鯛も鶏も場所によってその味には天地の程の差がある。鶏は長崎と北筑の産が最上位である。鶏は比較的に季節に対して味の差などは少ないが、初春の2~3月頃が鶏の最上の味の時期であるのは言うまでもない。ここでは日本風のありふれた料理法を省略して、鶏羊羹の製法と西洋風、中国風料理の主要な2,3の料理を説明する。

一、老鶏羊羹
 雄鶏のなるべく老年のものを良しとする。都会よりも山間に育ったものを選んで、これを割き、骨も肉も荒切して、可能な限り脂肪分を取り抜き、20kgの鶏ならば5升の水、40kgであれば1斗の水に入れ、冷水から沸かしてトロ火で5升炊きならばその10/1(5合)位、1斗ならば1升位の分量で、7~8時間をかけて煮込む。その時に表面に浮き上がる泡と脂肪を絶えず念入りにすくい取らなければならない。1/10位の分量に煮詰まった時に、清潔な白木綿で2,3回漉し、脂肪や肉のこごりを残らず取り去り、別に小鍋に用意してこれに移して再び煮込む。5合のものが2合5勺位、1升のものが4,5合位になったところで、そのスープの量一合に40gの割合に氷砂糖を入れる。4,5分間して氷砂糖がすべて溶けるのを待って、そのスープを清潔な陶器に移して置くと2,3時間後に、凝結して寒天のような非常に透明な羊羹が出来上がる。こうしておくと夏の暑い時期であっても氷のように固まる。これをナイフで適宜に切って、口取りものの中に添えて置けば、誰もこれが鶏から作られたものと気付く者はいないだろう。

一、ローストチキン
 西洋料理の方法である。1kg位の若い雄鶏を選び、羽毛を取り除き、首を切って血液を抜いて毛焼を行う。熱湯の中に入れて直ぐに引き上げ、足を付けたまま皮を剥いで、臀部を切る。その中に指を入れて贓物を手際よく取り去り、胸部についた肺を(俗にドリというもの)を取り出して、腹の中を水で洗浄する。両翼と両脚の先端を一節程落して翼と脚とを胴体の方に引き付けて糸で括るか、または竹串で貫いて原型を保たせ、全部に食塩と胡椒を振りかけておく。
 テンパンの中に大匙2杯ほどのバターを塗っておき、その中に鶏を胸を上向きにしてオーブンに入れる。初めの間は火加減を強く、後には弱火くして40分ほど焼く。その間に4回ほどテンパンを取り出して、鶏に肉汁を灌ぎかけて焼き上げる。
 鶏が焼けたならば俎板に載せ、両股を2人前、両翼の部分を2人前、胸肉の部分を2人前の分量になるように庖丁で分け、皿に盛る。テンパンの上に残った汁液に、チキンスープと水で溶いた小麦粉を加え、食塩と胡椒で程よく味を付ける。それを火にかけて常にかき回しながら煮込み、漉したものを鶏肉の上に灌ぎかけてソースにして食する。

一、キャンデー・コック
 鶏冠の料理である。まず鶏のとさかをザルに入れ、これに熱湯を注ぎかけ、手早く指で皮を剥ぐ。フライ鍋にバターを入れて火にかけて煮溶かし、刻んだ葱を入れて、少々色ずくまで炒める。ここに鶏冠を入れて小麦粉を振り、よくかき回して、適宜チキンスープを加えながら、食塩と胡椒で程よく味付け、さらに赤ワインを加えてしばらく煮込んでから皿に盛って出す。

一、中国料理燉鶏
 材料  雄鶏一羽(1.2kg位)の内臓を取り中を洗浄して、丸のまま切らずに調理する。
     白湯2升  塩10g  葱4本切らずに使う
 まず葱を鶏の腹の中に詰めておく。次に大鍋に湯を沸騰させ、それに鶏を入れてから塩を加え、蓋をして弱火にかけて5時間煮る。鶏肉が非常に柔らかになるのを待って、それをそのまま大皿に入れ、汁も3~4合位入れておく。箸で肉を取り、スプーンで汁を飲む。
 この料理は昔、蘇東坡の好物であった。彼は寺院に滞在していたにも関わらず鑽籬菜さんじさいという異名をこの料理付けて平然と食していたと言い伝えられている。

一、中国料理蘑稚鶏
 鶏肉を器に入れて、そこに酒、醤油をかけて冷やしておく。次に鍋で胡麻油を熱し、そこに鶏肉だけを入れて5~6分揚げておいてから取りだし、もとの漬けダレの入っている器に戻し、2~3分後に再び胡麻油に入れて炒める。これを3度繰り返し、それから鶏肉を鍋に移して、あとは鶏を入れた鍋に、器の中に残っている酒、醤油を入れ、さらに酢、葱、片栗粉を加え約15分火にかけてから椀に盛って食卓にのせる。

一、中国料理焦鶏
 材料 1.2Kg位の牡鶏から内臓を取りだし、鶏の中を洗って丸のまま使う。
    ラード120ml、胡麻油700ml、白湯2.5ℓ、塩11g、酒1.8ℓ、葱3本をそのまま切らずに、大回香アニス4個
 大鍋に白湯と酒を沸騰させ、鶏とラード、塩、葱を入れ、フタをして約3時間弱火で煮ておく。別の大鍋に胡麻油を沸騰させておき、先の鍋から鳥をこの鍋に移し、両面を炒めれば、約20分で鶏肉は黄色となる。それをまた取り出して前の鍋に入れ、弱火で1時間程煮てから取り出す。包丁で鶏の肉をかなり薄く切り取ってから椀に盛り、先の汁をかけて食する。これは山西省の料理方法であるとされている。

 中国料理では、鶏の料理だけでも数10種類もの多さに達する。それらはあまりにも煩雑なので省くこととする。



 亀は古来から「麟鳳亀龍」といって四霊の中のひとつとして伝えられてきた。我国の年号でも霊亀、神亀、賽亀、文亀、元亀などの文字があてられているが、これらはすべて亀の瑞祥にあやかろうとした為である。亀を霊物視するのは中国伝来の思想でる。『周禮』には官制に亀人があって「掌六龜之屬」とあるように、当時、亀は王室の存続に重要な関係をもつことを述べている。
 『尚書中候』には、「堯沈璧於洛,元龜負書,而出背甲赤支成字,止於壇」( 昔、堯帝が玉を洛水中に沈めると、赤い模様、朱色の文字が書かれた亀が、書を背負って現れた )と記されており、また同書には、「周公旦攝政七年,制體作樂,神鳥鳳凰見,蓂莢生。乃與成王觀於河、洛,沈璧。禮畢,王退俟,至於日昧,榮光並出幕河,青雲浮至,青龍臨壇,銜玄甲之圖,吐之而去。禮於洛,亦如之。玄龜青龍蒼兕止於壇,背甲刻書,赤文成字」とも書かれている。
 『述異記』には、陶唐の時代に越常国が千歳の神亀を献じたが、その甲羅に文字があり天地の始まりの事からが記されていたとある。また王子年の『拾遺記』には、禹(夏の王)が治水事業に尽力し、川を導き山を平らにするために、黄龍尾を前に引き、玄亀靑泥を後ろに負うと書かれている。『史記』には亀策列伝の項があり、「亀卜の徳を讃えて王者の決定は亀甲で行う。不易の道であると判断され、かつ良く名亀を得る者は財産を得て、家は大いに富んで千万に至る」と書かれている。ゆえに『洛書』には「霊亀玄文五色神霊之精也」( 霊亀は玄文五色にして,神霊の精である )とある。『大載禮』には甲蟲三百六十四のうち神亀が長であると言っている。このように亀は存亡を見通すことが出来、吉凶を明らかにするとされており、『正史』にも『稗史』にも亀に関する記録や伝説が多く数えられないほど存在しているのである。

 亀に関する逸話で有名なものに、中国の哲人であった荘子の風刺談がある。荘子が濮水で釣りをしていた時に、楚王が使者として遣わした大夫が荘子のところに到着する。大夫は荘子に楚国の宰相になってほしいと申し込みをしたが、荘子は竿を持ったまま、大夫の方には振り向きもせず「楚の国には神聖な亀の甲があり、死んですでに三千年経過していると聞きます。王はこれを布で包み箱に納めて、祖先を祭る建物(御霊屋:みたまや)にしまっているようですね」と答えた。荘子は、殺されて骨だけとどめて大切にされている亀がよいのか、あるいは生きながらえて尾を泥の中で引きずる方がよいのかと問い、自分は後者を選ぶのだと述べて、それ以上はもう大夫を取り合わなかった。亀に託してその意思を述べたのである。

 亀は冬の期間は泥土中に入って冬眠し、春になって暖かくなると眠りから醒めて活動を始める。岸辺の土を掘ってその中に卵を産み、子亀は8月中に孵化する。上の甲羅には六角の紋は13あり、下の甲羅には横紋になっている。オスは上の甲羅が高く、メスは低い。亀の特徴はその寿命の長さにある。俗に鶴は千年、亀は万年と言い、中国の『廣五行記補』という書には「亀齢経萬歳」とある。人の長寿を亀齢というところから分かるように、亀は総じて長寿の生物であると考えられている。我国には未だにその寿命を調査した人はいないが、西洋には500年の寿命の亀の記録がある。ダーウィンの紀行文によると南米の西岸に近いガラパゴス島に住む大亀は2000歳を越えているとある。普通でも200年は確実に寿命があるようである。こうした寿命の長さだけでなく、亀は生活力が強いことでも抜きんでており、『史記』亀策傳に、南方の老人が亀を用いて寝台の足を支えていたが、二十余年経って老人が死んで、寝台を移すと、亀は尚死なずに生きていたとある程、熱に対しても寒冷に対しても、水の欠乏、長い絶食に対しても平然として生存できるのである。また化石学者の説によると、亀は最古の動物であり、太古の二畳紀に発生し、中古代にかなりの発展を遂げ、新生代から現代にまで及んでいる。太古代と中古代の間、また中古代と新生代の間を分ける天地の大変動や気候の大激変によって、多くの太古代の動物、中古代の動物が絶滅したが、亀族だけがそれに耐えて種族を今日まで持続させている理由は、驚くべき抵抗性がその理由であると言えるだろう。しかし、このように自然に対する抵抗力が強いにもかかわらず、その性質はかなり臆病であり敵に対して武器となるものを何も持たない。ただし腹も背中も堅甲に覆われ、背甲も腹甲も結合して箱状になっているので、敵に遭えば頭も四肢も甲内にすぼめて鋼鉄製の安全タンクに籠れば、どのような強敵であっても亀に害を加える事が出来ない。
 『雜阿含經』に「有亀野干所包蔵六而不出野干怒而捨之」とあり、亀の蔵六には流石の野干やかん( 狐に似た中国の伝説上の悪獣 )も手出しできなかったと見える。蔵六とは亀の四つ足と首と尾を合わせて6つのもの全てを甲の内側にすぼめて籠城することを言う。( 亀が野干に襲われたとき、六支を隠して身を守るように、人も修行を妨げる者に対して、六根 [眼・耳・鼻・舌・身・意 - 人を迷わせる六つの感覚器官] を制して守るという事から蔵六という )

 よって大わしは亀を掴んで上昇し、空の高いところから岩石の上に亀を落として甲羅を砕いてその肉を食べると言われている。また南米にいる一種の野猫は蔵六でも構わず隙間から爪を入れてその肉を掻き出して食べると言われているがその真偽は定かでない。北米のカルフォルニア州には特殊な亀がいる。腹甲の中央が、蝶番ちょうつがいになっていて、甲の両端を意のままに開閉することが出来るのである。ただ日本にも中国にもこの種のものは無い。

 「亀の尿」に関しても珍説がある。中国人はその尿で墨をすってから書けばナフサ油と同じくらい浸透すると信じていて、『典籍便覧』には「亀尿を別名で石油腦と云う」と書かれている。『草木子』には「龜尿可以和墨寫字入石」と記されており、『本草原始』には「和銀朱隔字入木極深術士嘗用此書神仙于潦草或漆門上惑人」とある。このように亀から尿を取る方法は種々、研究されていたようである。『食物本草』(※出典は『醫燈續焰』の間違いではないかと思われる)には塗龜尿法 取龜置荷葉上。鏡照之,則自尿と記されており、『大和本草』にも朱塗の盆に亀を置いて、その影が朱塗りに映るのを見ると尿が出るとある。これ亀を怖がらせて自ら尿を出させようとする方法である。この方法は我国でも行われていて、甲斐郡内の白野にある親鸞の名號石みょうごうせき、また同じく甲斐の生澤川の日蓮の題目石だいもくせきなど、これらすべては亀尿によって書かれたものであると言われている。

 亀の肉の味を、中国人は昔から貴重なものと見なしていたようである。『周官』には「亀人は亀魚を献じる」とあるように、亀が王室の食卓に供される事が定められていたことが分かる。『史記』には江傍の家には亀を貯えて置いてあり、これを食べると全身の気の流れが活発になり、衰弱を回復させ静養のための効果があると記されており、『本草會纂』には魚に美味さはあるが、要するに脂の乗りと、新鮮さ、肉の歯ごたえや軟らかさといった4点を要因としたものでしかなく、その味はすべて似たものでしかない。しかし亀や鼈、貝類はその味はどれも同じではなく、各自にそれぞれ別の特徴があるとして、強くその美味を強調している。また『周處風土記』には江南の習俗には5月5日に肥えた亀を煮て、塩、豆鼓、ニンニク、蓼を加えて食べる。これを俎龜と云うと記されている。これは我国でも土用の丑の日に鰻を食べることに似ているが、日本人には亀肉の美味を知る者は少ない。『日本食品事典』の中でも食品として数えられてない。『倭本草』にも亀は食べるべからずと記されている。ただ寛文四年、高橋版の『料理物語』に、まがめ(鼈)と、いしがめ(亀)の刺身とある。よく湯でむしり、生姜と味噌酢で食べるとあり、料理法は奇妙ではあるが、亀が食べれるものである事を語っているのはこの書だけである。

 日本で獲れる亀は、俗に言う、きんがめ(金亀)、どがめ(土亀)の2種類である。(『史記』亀策傳では亀を8種に分け、『爾雅』では10種に分けられている)土亀は臭気があって不味くて食べるに堪えられないが、金亀は世界に誇る珍味として出しても恥ずかしくないものである。背甲が六角文様に金色の象嵌ぞうがんのあるものが金亀であり、甲が泥色をしているものは土亀である。食べるに適した季節は2,3,4月頃が良いとされている。(中国は古来から亀の季節を秋と定めており、『周官』には春は鼈とハマグリ、秋は亀とある)

 重さは750g位のなるべく大きなものを選び、一週間ぐらい清水の中で飼っておいて、腹の中の食物を排泄させ、塩で外皮を良く洗って、それから料理に取り掛かる。背甲、腹甲、両方とも鋼鉄張りであり、側面もまた石のように堅く、どのような鋭利な刃物であっても亀を捌く方法がない。よって亀を料理するにはひとつの独特な方法を取るしかない。まずは手ごろな鉄槌を用意して、平たい石を選んで俎板にして、亀をこの上に、左側を下に、右側を上にして、少しも歪まないように直覚に据えておき、これを左手で支え、上部の真ん中を狙って、力を込めて鉄槌の一撃を下すのである。そうすると堅い甲羅が綺麗に割れて、肉は腹甲に付着したまま、背甲が外向きに剥がれるのである。まずは内臓全体を見て、膀胱を破らないように注意して、雌亀で卵があるならばそれを卵巣と一緒に取り除いて別に皿に取り分けて置く。次に頸部から順次、内臓を腹甲の内部から引き離してゆくが、腸は肛門まで途中で切れないように特に注意して取り除かなければならない。肉に付着した血は紙で拭い、なるべく水を使って洗わないようにする。その後、前足および後脚を割いて取りはずし、前脚を3つぐらいに切って(2本で6切)後脚を8切れ位にし、最後に臓物、甲などの始末をする。
 うま煮にするならば、湯を沸騰させ肉をそこに入れる。吹き上がる時に茶色の泡が汁の上に浮いてくるので、丁寧にこれを取り去りながら約1時間位かけて余り強くない火でゆっくり煮る。
 亀の卵は沸騰している湯に入れるべきではない。冷水から熱を加えたものに肉を混ぜて味付けをするか、あるいはまずは冷水の中に卵を入れておいて、沸騰した時に肉を入れて同時に煮るなど、いずれにしても冷水から煮ることが必要である。(砂糖味醂を適当に使っても良いが、醤油で味付けは行う。芹または葱を少々入れても良い。普通は薑の汁を添えるのが良い)

 もし亀のあつものを作ろうとするのであれば、弱火で1時間位煮て沸騰すれば出来上がりである。砂糖は使う必要はない。味付けは少量の塩と醤油で行う。薑の汁も入れると良い。

 亀の味は、鼈のようににかわの粘り気がなく、品位において鼈より優れているとされ、我国の食味の中でも最上位にある。中国では亀は主として南方で貴重とされており、南京料理の献立に甲魚とあるのは、亀料理のことである。その料理法は、焼き豚、栗、筍、豆油、紹興酒と共に、弱火で3時間ぐらい煮る。捌き方は日本とは異なり、腹を裂き、内臓を掴み出して生きながらのこぎりでその肉を裂いて取る。

 ヨーロッパでは亀や鼈の料理は少なく、あまり肉は食べず、主としてスープとして料理されている。そしてこのスープは、スープの中でも最上の味であると見なされているようである。



すっぽん



第一項 前書き




鼈の名産地 安心院

 大正二年の初夏の頃、桂公爵が鎌倉で病を静養された。同じ時期に井上馨公爵もまた病で鎌倉に滞在していたが、井上馨公爵は毎日、鼈のスープを送って桂公爵を見舞っていた。同じ時期に大浦子爵も又はるばる京都に注文して、その時その時に鼈の羹を贈っている。これは鼈が病人にとって最も良い滋養食とされているからである。著者もたまたま桂公爵を見舞い昼食のもてなしを受けた際に、これらの贈り物を振る舞われたのであるが、驚いたことにそれらは鼈では無く、鶏のスープ、または鰹節の出汁に鼈肉を入れてやわらかく煮て調理したものだった。味は悪くないが、どの鼈も本味ではなく、一般のありふれたものと同じでしかなかった。桂公爵はこのことを知り、本物の鼈スープを試みてみたいと望まれたので、鼈の産地である大分県安心院あじむに電報を送り鉄道高速便で取り寄せて贈呈したのであるが、桂家の料理人が戸惑い容易に鼈に手を下せなかったので、著者が自ら庖丁を取って鼈を捌き、桂公爵のために羹を作ってすすめたのである。その時には杉聴雨子爵、宮内省の大膳頭であった萬里小路男爵、柴田嘉門、江木翼も同席していた。各々はとても珍しげに庖丁づかいを見物しておられたが、聴雨子爵がやおら筆を取り

   庖丁が牛をとくより巧みなり
     君は即ち鼈のかみ

と記し著者に示された、また桂公爵も病床から

   庖丁が牛をとくより巧みなり
     君は即ち鼈の神

と訂正され、聴雨子爵も早速それを承知され、皆で手を打って興じた事があった。桂公爵はこれ以来、鼈の羹を賞味されるようになり、病気は一時期小康状態を得たのであるが同年の11月になって遂に他界され、それに続いて大浦、杉、萬里小路、柴田の皆も相次いで故人となり、ひとり江木氏だけが健在で国務に奔走するのを見るのみである。

 春風秋雨歳月は流れて現在はあれから10年ほどになるが、当時を追想すると、うっとりとした夢のようである。当時、聴雨子爵が書かれたすっぽんの戯書と狂歌一首は今でも著者の書斎をかざっており、それだけが僅かに当時を偲ばせるのみである。

 ちなみに安心院あじむとは、著者の故郷であり、また良質の鼈の産地でもある。豊州本線、豊前善光寺駅に連絡する日出生鉄道の圓座駅から東南に4kmにある一部落であり、四方を山に囲まれ、渓水は山麓をめぐって流れている。椎谷瀑布を源とする津房川は部落の東北を流れ、富貴野の瀑布に水源をもっている富貴野川は西南をめぐり、山河自然の地形によって盆地が形成されている。両方の川は盆地の北西で合流して、下って駅館川やっかんがわとなる。このふたつの川は海から約20km、水源からは16km離れているので、水源に近くもなく、また海水からも離れている。その水は軟質であり温度が高く、沿岸は岩石土砂が多く、にな田螺たにしなどの鼈の好物に富んでいて、水は清く流れがゆっくりである。場所によっては激流であり、また深淵であり、変化に富んでいる。これらは鼈の良い産地としての全ての条件を備えた理想の水郷である。よってこの産地に生息する鼈は、背甲の皮膚は若葉の緑色を帯びていて、腹甲は黄金色の光沢があり輝き、四肢の爪先は丸みを帯びてスリコギのようである。裾は厚く、体は丸く、天性の品位はただならぬ様を示していて、肉の香美は実に世界でも匹敵するものは少ないと言う

 盆地の前面を近くまで迫り、古木が鬱蒼と茂った山腹に人家があり煙の立ち上っている所が大友氏の旧城跡の龍王山である。東南は遠くに霞をまとって雲の際まで立ち込めており、冬期には常に雪の冠を頂いているのが豊後富士である。足一騰宮あしひとつあがりみやの古跡は、神武天皇東征の事績を偲ばせ、九人峠の古戦場はこの地方の王朝時代における成敗興亡の跡を告げている。風光明媚、気温は温暖、渓には魚鼈が踊り、田園には果実や穀物が豊穣である。土は肥えており水は清い、魚鼈を得て人生を送り生涯を終えるのに適した場所が、ここの他にどこか他にもあるだろうか。著者の先祖は連綿としてこの土地に家を構えて数百年である。日出藩の大儒学者であった 帆足萬里 ほあしばんりと、著者の父祖が交流があった。文政の末葉(今から100年余り前)度々著者の家を訪れ、好物の鼈を食して詩を詠んでいる、その詩は、

    双渓合處豁平川
    沃野膴々千頃田
    誰向山樊築精舎
    讀書擉鼈送餘年

 わずか28文字で100年前における著者の家の生活の全部と安心院村の風景を余すところなく写し取っている。著者はこの家に生まれ、この地で人となった。魚鼈に関する因縁は浅くないものがある。少々、家の道に背いて書を読まず、また鼈も捌いていなかった。世間を放浪し、いたずらに風塵の中を漂白してきた。旅人が故郷を思う度にこの詩を誦し、この詩を誦する度に魚鼈を思わなかったことは一度として無い。年老いて故郷に帰ると、田園は荒れ、前庭の辺りのかつてあった松菊すら無くなっている。実家は既に荒れ尽くしており、かつての精舎は現在どこにいったのだろうか。長劔は空しくその意を得ず、憮然として一人憐れむだけである。この家の荒廃はどのようにすれば良いのだろう、渓水のほとりに行って魚鼈を探そうとすれば、ふたつの川は水量少なく、あるいは人の手によって流域が変わり、あるいは洪水のために川の流れが変わり、かつての淵は今では瀬となり、瀬は丘になり、桑畑となっている。今やこの地の魚鼈は著者と同じく住むための家を失っているのである。まさにこれは滄桑之変( 人の世が激しく変わること )によるものなのであろう。




第二項 スッポン



中国で鼈、英語ではスナッピング・タートル

 鼈の事が最も早く中国の正史に現れるようになったのは、『周書』に成王の時代に長沙鼈を献じたとある。『易経』説卦には、離為鼈と書かれており、『周禮』には天官鼈人の職があって、鼈の保護と、漁獲の仕事に当たり、『禮記』にはまだ成長していない雛鼈を食べることを禁じて、その生育を助けている。中国では俗に甲魚または團魚と言うが、別名で神守をも言う。陶朱公の『養魚經』には

 魚滿三百六十,則蛟龍為之長,而將魚飛去,內鱉則魚不複去

池の魚の数が360匹に増えると、蛟竜がぬしとしてやってきて、子分の魚たちを飛んで連れ去ってしまうが、鼈を池に放して置けばそれを免れることが出来るとある。神守の名はここから来たものである。

 我国ではまれに鼈と亀との区別が理解されていない場合があり、これを混同している者がいるようである。また中国においても鼉と亀および鼈を混同していたり同種のものとして論じたりしているものがある。鼉の字を使っているのは『本草網目』でそこには其形守宮(※正しくは形似守宮と記されている)とある。また『説文』に鼉水蟲以蜥蜴長丈とあって、鼉は実際には鼈とは似ても似つかないワニの一種であることが記されている。また『拾遺記』には、昔に禹が大海を渡る時に、鼉に跨って橋梁の代わりとしたと記してあるし、『紀年』にも、周の穆王が九江に到着した際に、鼉を踏んで橋としたとあるように、古代には中国に数多くの生息していたと見られる。
 龜の字が用いられているのは緑蠵亀の一種であり、本邦では 正覚坊 と称されており熱帯地方の海中に生息する大亀(アカウミガメ)である。浦島太郎が跨って竜宮城に遊んだのもこの亀である。山蔭中納言の若君が乗って溺死を免れたのもこの亀である。進化論の主唱者であるチャールズ・ダーウィンが跨って旅行したのもこの亀である。また鄭の子公が指を鼎に染めて、それを舐めたために歴史上の大事件を引き起こしたのもこの亀の羹であり、鼈とは全然別種のものである。

 この他『本草会纂』に、納鼈(※本草会纂には納灶鼉と記されている。これが鼉であれば鼈として語るこの部分は間違いである)と称するものがある。これは裾が無くて頭と足が縮められない種類のものであると説明されているが、日本にはこの種のものは存在していない。
 『朝野僉載』には嶺南、羅州、辮州の界隈の水中に赤鼈が多く、禽獣、動物が水に入ればすべて深みに引っ張り込まれ、血を吸われて殺されるとある。
 また『本草網目』『格物論』共に能鼈といって三本足の鼈について記述されている。『山海経』にも能鼈之三足者今陽羨縣君山有池出三足鼈葢自是一種と書かれており、『爾雅』には、鼈三足曰能とある。『三才圖會』には三足の能鼈の事を分かりやすくするため図を掲載して説明されているのを見ると、左側の二足は普通であるが、右側には中央部に一脚出ているだけの形をしていてかなり奇妙である。現代の動物学上の見地から、このような変態の生物は存在し得ないのである。これは荒唐無稽の伝説に過ぎないとしても、それでも奇異なのは、中国の南方にある広西省方面の渓谷に生息する鼈は、普通の鼈のように四足ではあるが、各足の爪先がそれぞれ三本にしか分かれていない事である。三足の鼈とは、もしかするとこの種の鼈の事から始まったのではないかと思われる。

 日本の鼈の爪は五本であり、内二本は隠れていて覆われているので、一見すると三爪のようであるが、広西省の三爪鼈は、隠れている二爪があるようには見えず、外見も実際も全く三爪しかない。思うに五本中の二本の爪が何らかの事情で退化して外面に見られないようになった為、この三爪鼈を能鼈と呼ぶようになったのではないだろうか。
 広東省の山瑞料理はこの三爪鼈の料理である。山瑞とは山椒魚の事であると伝える書もあるがこれは間違いである。中国では山椒魚を鯢魚と言い、よって山瑞とは三爪鼈の事を言う。この鼈は形も習性も普通の鼈と変わるところがないが、少し大きく、味は普通のものより美味である。

 鼈は我国において、俗にガメ、カメまたはスッポンとも言う。京阪地方では単にマルと呼んでいる。100年ぐらい前まではその正体は明らかにされていなかったので種々の俗説が伝えられてきた。実際に『本朝食鑑』ではスッポンと河童を混同しており、「鼈能害人住々大鼈洩入深處附人之背上必穿肛門盡吸身中之血作枯骸水邊有河童者能惑人或謂大鼈之所化也」( 鼈はよく人に危害を与え、大鼈は人を深い水中に引き込み、肛門から体中の血を吸い干乾びさせる。河童は人を惑わすが、これはいわゆる大鼈が化したものである )と述べている。こうした誤解は、中国の『古今註』に「鼈一名河伯」と書かれていることや、『朝野僉載』でも前に述べたように、赤鼈が禽獣を深みに引っ張り込み、血を吸うという説が誤って伝来した為であろう。また『本朝食鑑』には鼈には耳がなく目で音を聞くとあり、鼈は雌だけしか存在しておらず雄はなく、蛇と交配して子を産むという説も、中国の『本草網目』の説からきたものであり、現在ではこの説を信じる人はいない。
 赤鼈については、小野蘭山の『本草啓蒙』に、備前岡山に多く、筑前にもまれに存在していると記されてるが、これは土地の色により赤みがかった保護色を帯びているだけで、中国の赤鼈と同じものではない。したがって日本には納鼈も赤鼈も三足鼈もまた三爪鼈も存在していないのである。

 鼈は淡水に生息しているが魚ではない、爬虫類の生物であり毎年5,6月頃に交配し、雌は明け方に陸に這い上がり、前足で水辺からあまり遠くない砂の上に、深さ15cmぐらいの穴を掘り、その中に産卵を行う。終われば砂で覆いその場所を隠し、さっさと水中に逃げ帰る。水辺の草原または桑畑の中で、早朝によくスッポンに出くわすことがあるのは、産卵のため上陸してウロウロしているからである。このように2~3週間の間隔で、年に4~5回の産卵を行い、充分に生育したものであれば年間に300個以上の卵を産むという。

 産卵から孵化に至るまでの期間は、温度天候の関係によって一定していないが、大体は40日間位で、太陽直射の強烈な熱によって自然に孵化する。

 鼈は孵化後2,3日間は砂の中にある穴にとどまり、愛らしい頭を時々地上に出して外界を覗いたりする。その内に雨が降り、または夜露の湿り気を利用して地面に這い出してきて、本能で自分の位置や水のある場所を理解してその方向に向かい始める。這って水に入るとたちまち活発に泳ぎ回るようになり、岩石の間や水藻も影に身を寄せるようになる。しかもこの頃から巧みに小動物を捕食できるので、生後からすぐに独立独歩、少しも親に厄介にならずに生育してその剛健な気質の第一歩を現すのである。

 11月下旬から暖かな水中の泥砂を探して、そこに深く潜りこんで冬眠期に入ってしまうと、少しも食物を取ることがない。翌年の4月下旬の春、暖かくなって来ると、しばらくの長い夜の眠りから醒め、啓蟄して水中に現れるようになる。この時期から盛んに活動を始めるようになり、餌を貪欲に漁り10月下旬に及ぶ頃迄食べ、十分に栄養を充填してから再び冬眠につくのである。
 こうして5,6年が経つと体重は750g以上になり、オスとメスで交配し、産卵を始めるようになる。ただし鼈が十分に成熟するには少なくとも20年の歳月を必要とし、都合の良い環境であればかなりの長寿の鼈もあるようで、往々にして200歳以上に達するものがいるとも言う。これは俗に亀は万年と称されていることが多少の関係しているのではないだろうか。九州地方では時として1.2~1.5kgにもなるものがある。

 鼈は水陸両生類であるが、平常時は主として水中にいる。温暖な水を好む為に、なるべく冷水を避けているようである。したがって鼈が川を水源まで遡ろうとすることは稀である。また塩水を嫌がるので海に近い下流に生息するのも非常に稀である。故に普通は河川の中程で繁殖をしている。
 鼈の多くは川底に潜んでいて、魚類甲殻類を食べている。感覚、視力は共に鋭敏で、また非常に用心深い。水の表面にほんの少しのさざ波があっても素早く身を隠してしまう為に捕まえることは容易ではない。もし鼈が敵に追い詰められ、窮地に陥れば、いわゆる窮鼠の勢いを発揮し、その剃刀のような顎で噛みついてくる。そして一旦食い付かれると執拗ためた容易には放そうとせず、頭を切り落としても、なお離れ落ちない。これは俗に言う牡牛が子を産まない以上は、その子を放そうとしないという程までである。よって良く指をかみ切られたなどの大怪我をする事がある。
 もし噛みつかれた場合に鼈を放すには、直ちに水につけ、鼈に一筋の活路を与えてやるしかなく、力づくで離そうとするのは不可能である。持ち方については、鼈の取り扱いに慣れている人ならば掴みどころを心得ているので少しも危険ではないが、素人であっても、腹の方、後ろ足に付け根の俗に「ちょこちょこ」と呼ばれる窪みを堅く掴めば安全に掴むことが出来る。鼈の頸は長く伸びるが「ちょこちょこ」に迄は届かないので、噛みつかれる心配は全くない。
 また冬眠中であれば空気中の酸素を直接吸い込む必要はないが、夏中には活発に活動し、餌を貪り食っている為、酸素を必要とする事が多く、時々水面に浮かび、鼻先を水面から出して呼吸をしている。また夏の時期、快晴で灼熱の日に、日向ぼっこをするのを好み、害敵の恐れが無いと安心した場合には、川の中の岩石の上に登って、甲羅を日光に当てながら長々と昼寝をしている事がある。これはいわゆる鼈の甲羅干しである。

 夏期は、時々、水面に鼻を出して空気を吸い込いんでいると述べた通り、鼈は決していつも砂泥の中に潜んでいる訳では無い。(夏期に砂泥の中にいるのは、一時的に敵を避けるためである)休息は必ず岸辺の穴の中で取る。穴の入り口は水底にあるが、その奥は斜上に向かっていて、時々水面に首を出して、呼吸できるようその棲家は作られている。4本の足と、各足には5つの爪を持ち(2爪は覆われている)顎には角質の嘴を持ち、口は長く突き出していて、その先端に鼻孔がある。オスは体が薄く、尻尾の端が甲の縁の後方に少し出ているが、メスは体が丸く、尻尾はへりで覆われているので一見してオスメスの区別を見分けることが出来る。体色は保護色になるので、生育する場所の色は異なるが、九州地方のものの多くは若草色である。甲羅はスイカのような色であり、足のつけ根は淡黄色で金属製の光沢があるのが上等であるとされる。山陰北陸地方の鼈は茶褐色のものが多い。養殖鼈は甲は暗黒色、足は青白く光沢がなく、下等品であるとされる。日本の温暖な地方であれば、至る所で生息しているが、今ではほとんど捕獲され尽してしまい、天然産のものを得ることは稀である。北海道、東北、中山道には天然産のものはほとんど居ない。鼈の修正に関しては種々の注意すべき特徴が多い。便宜上、次項の漁法の部でそれを説明する事とする。




第三項 漁法




△はえ縄漁

 窮迫すると人を咬むほど凶暴なでありながら、自身の口腔内の苦痛に対する忍耐力が弱いのは驚きである。これは口内の神経が非常に過敏であることが原因である。鋭利で剃刀のようなアゴであれば一本の釣り糸を咬みきることなど簡単であるはずなのに、針が一旦腔内にかかってしまうと、どんな大物であっても糸一本で深い水底から簡単に岸辺に引き寄せられるのが非常に面白い。しかし針を外すとたちまち持ち前の凶暴性を発揮し狼藉を極め、近寄りがたいほど危険である為、袋に入れるまでは決してつり針を外してはならない。鼈を入れておくのは魚のように竹籠でなく、普通は縄で組んだ袋が良い。

 鼈を釣る餌には、鰻、または鮪の肉のような脂肪が乗ったものが最上である。本縄に2m位の間隔で約500本の針を付け、薄暮れに鼈の居そうな淵に入れておいて、翌朝の未明に縄の端から手繰りあげると、大抵は2,3匹位はぶら下がっている。これをはえ縄釣と言う。鼈が餌を漁るのは主に夜間である。しかし降雨によって水が濁っている場合は、昼でも餌を探しているので、雨を利用して昼間にはえ縄を行っても良い。


△穴探り

 鼈が砂泥の中に潜むのは、10月から翌年3月末頃までの冬眠中だけであり、夏期は岸辺の岩石間にある格好の隠れ場所か、または岸辺の土砂に横穴を掘った所か、あるいは自然の小洞穴を利用して加工して自分の住居にした穴の中に大抵昼間は潜伏していて、夜になると出てきて餌を漁るのである。時には昼間も餌を探しに出てくる事があるが、休養する時は必ず穴に帰る。

 鼈の穴は奥が深く巧みに掘られている。ただかなり簡単に即席で作られているものもあり、その設計は必ずしもどれも同じものではないようである。もし鼈が自分で住みたい永久的な棲家を探し出せない時には、一時的な仮穴に住んでも平然としている。人間がその住宅の大小によってほぼ主人の財産の大小を推測できるように、その穴によって鼈の大きさはおおむね一致している。つまりある淵のある穴で、3kg程の鼈を捉まえたとすると、次にその穴を占領して代わりの新主人になるのは必ず前の主人と大体同じ大きさのものとなる。ゆえに穴を見て鼈の大きさを大体推測することが出来るのである。

 ここで穴を探る方法を説明すると、まず水底に横穴を見つけたとする。手を入れてみると、奥行きが横に直っすぐか、あるいは下方に向かっているようであればこれは鼈の棲家ではない。鼈の穴は必ず上向きだからである。もし深い所であれば潜って穴の入り口を調べてみると良い。穴の付近に田螺の殻が散らばっていれば、これは必ず鼈の住居穴である。中を探ってもし鼈がいなくても、これは空き家ではなく主人が一時的に外出しているだけなので、翌日の正午に再び探ってみると良い。正午の時間は特別に事情が無い限り、必ず穴に戻る習性がある。また穴の中で、午前中は首を奥に向けているが、午後は外側に向けている場合が多い。中国の『埤雅』という書には「鼈伏隨日謂隨日光所轉朝首東鄉秉百西鄉也」とある。これは前に述べたように、鼈が午前と午後に出口に向かって方向を変える習性を知り、日光にしたがって方向を変えているのだと考えたからである。

 また『本草網目』( ※ 本草網目にはこの記述は見当たらず『埤雅』にこれに関する記述があった:本草網目からの引用と言うのは間違いであると思われる )に、鼈が水中にいれば必ずその上に泡がある。これは鼈津べっしんと言い、これを目印に鼈がいるかどうかを見極め捉まえるとある。つまり鼈が陸上から水中にもぐる時に、空気を吐き出すので水上に泡が浮き上がってくるが、それが消え去って跡が無くなっても、浮沫になって残るので鼈を見つけられるというのである。しかしこれはあまり確かな情報とは言えないだろう。しかしながらスッポン狩りで長年の経験を積めばある種の特殊な技術を得ることができる。それは深淵を前にして試しにひとすくいの水を飲んでみると一種の直感によってその界隈に鼈が居るか居ないかを監視できるようになり、それを間違えることがないというものである。これは理論的に説明することは出来ず、言葉で伝えることも出来ないのだが、この方法による判断はかなり正確である。この方法で十分な自信をもって淵に入り、岸辺にある鼈の穴を隈なく探すと良いだろう。そして穴を見つけたのであれば、まずは左手で穴の入り口を塞いで防備を固める。鼈がもし穴の口から飛び出したならば自由俊敏に逃げ回り、いかに熟練した人でも捕まえることは出来ない。穴の中にいて外敵の侵入を感知すると鼈はおめおめと穴の底に逃げ込むことはせず、むしろ前面に飛び出してくる恐れがある。その為に左手で堅く穴の入り口を塞ぎ、右手を深く穴に差し入れ、鼈に触れたならばその前面に手を当てて、上下両方の甲の先端を握るのである。そうすればその頭は甲の内に引っ込められるので、唯一の武器である嘴は封じ込められ全く危険ではなくなる。そのまま力を入れて前方に引き出して、左手でも鼈をつかみ、両手で抱え上げる。鼈がもし出口の方に向かってきた時は、右手を鼈の後縁にかけて、前に引き出して左の手の掌を逆さにして直角に鼈の前方をつかみ、同時に上下両甲の前端を掴んで抱え上げる。
 もし7~10kgぐらいの大きいものに出会った場合は、鼈も相当強力であるので、鼈との格闘を水中で行うこともあるが、熟練したひとは、水底に潜りながら上手く鼈の急所をつかんで急所を押さえることが出来るので決して取り逃すことは無い。鼈は穴の中に入っいるときに人に襲われると、時として最後の手段である得意の噛みつきを試みることがあるが、甲羅から頭の出るところは右手のひらで抑えられていれば、頭は空しく掌に当たるだけで、流石の剃刀顎も全く使えないのである。ただし、この時にもし慌てて掌の握りを緩めたり、または鼈の横を掴んでしまう様な事があれば、たちまち噛みつかれてしまい思わぬ不覚を取ることになるので、穴探しは相当の熟練と落ち着きが必要であることを理解しておかなければならない。

 こうして鼈を水中から引き上げたならば、先ず鼈の甲羅の下を覆っている裾の裏を確かめる。メス鼈ならば交接の際に、オスの噛んだ跡が残っており、オスならば相互の噛み合いによる歯今痕が残っているはずである。その歯痕は大きいものも小さいものも入り混じっているが、玄人であればそれを一見してこの界隈に大小幾匹かの鼈がいるのかを知ることができる。そして漏れなくすべてを捕まえることに専念し、岸辺の至る所残らず土を分け、石を割ってでもその隠れ場を突き止める。こうして最後には最初に予想した通りの数の鼈を捕らえてしまうのである。
 もしかなりの大物そうな歯痕を捕らえた鼈に見つけても、淵が深く、穴の所在も判明せず、常套手段では捕まえられないような難しい場所に潜んでいると思われる場合には、最後の手段として鉄砲の力を借りるしかないだろう。


△銃猟

 鼈の銃猟は前夜の雨で川の水が濁っている快晴の日が理想である。その日は早朝から小銃を携えて、昼飯を腰にぶら下げ、朝の8時頃までには目的地に到着しておく。なるべくその淵全体を見下ろせる高台に位置を定め、岩石の連なる間、または淵の際にある大樹の根元に身を寄せて、茂った木の枝を組み合わせて遮蔽物をつくりその陰に隠れながら、川の流れが緩やかで水の淀んでいる方向を油断なく注意深く見張っていなければならない。
 空は8月、太陽が輝いて水面を照らす時、淵から少し下流でかつ流れが緩やかな辺りに、時々水底からあぶくの立ち昇るのが見えたなら注意してそこから眼を離してはいけない。約10分ぐらい後、その場所に棒のようなものが水面に現れる。しかも瞬間にして消え失せるが、この棒状のものが間もなく二度、三度現れて来て、やがてこの位置に黒い影のようなものが浮動してくる。これこそ目指す獲物であり、例の甲羅干しを行い、かつ充分に空気を吸い込もうとしつつある時である。鼈はかなり用心深い動物なので、最初は少しだけ鼻先だけを出し、3回これを試みた後、幾分か安心するようになると、4,5回後からは首だけを水面に出し、上下左右を念入りに見回して周囲に異常がなく外敵が居ないのを確認して始めて少しづつ水面に浮かび上がってくるのである。段々と安心が増すにつれて浮いてる時間も長くなり、遂には5,6分は浮かんだままになる。こうなるとチャンスは近づいており、鼈が一旦沈むのを待ってから、手早く銃を構え、狙いを定めて再び出てくるのを待つ。そうすると再び浮上したら既に照準に入っているので、その機会を逃さずに一撃を打ち込むのである。

 ただしこの場合のやっかいな問題は、鼈に銃弾が命中しても沈み、命中していなくても沈むので、銃の撃ち手は当たったかどうかの成否を直ぐに知ることが出来ない。ただ熟練した撃ち手はその微妙なコツと手応えで、必ず命中したかどうかを正しく判断し見誤らないと言われている。もし命中したとしてもその地点があまりにも水深があるならば獲物を探すのが困難である。あるいはその地点がはるにか淵の下の方にあって、猟手が淵に飛び込む隙も無く、川流で流されてしまい獲物を亡失してしまう懸念があるならば、我慢して好機の再来を待つべきか、獲物はともかく、せめて射撃のしてみようと無理してでも発射すべきか、ここは一段の考慮を必要とするところかもしれない。この場合、もし淵のどこかに日光の直射する岩石があり、しかも午前中をから鼈が少しも不安を抱いていなのであれば、午後には必ずまたこの岩石に乗っかり、甲羅干しを行い始めるはずなので、一旦我慢してその機会を待つ方が得策であるかもしれない。この成功は忍耐にある。勝利を得るのに急いではいけない。つまり持ってきた弁当を食べ、銃を横たえてのんびりとその時が来るのを待ち続けるのである。やがて午後になれば太陽光は一層の熱を加え、初夏の陽炎が淵の前面に立ち昇る中、まぶたを凝らして注視すれば、岩石の周囲に浮動する形があり、それはさながら影のようでもある。
 こうして例の棒状のものが水面に突き出されては、瞬間で消え、これを何回か繰り返すようになる。その後に、鼈はまず半身を岩に乗り上げ、首を伸ばして入念に周囲を見回し、念をいれて警戒した後に、何も危険がないように見えれば、やおら全身を石の上に乗り上げて、最も日当たりの良い場所に頭を伸ばし、四肢をだらりと垂らして、悠々と日向ぼっこをしながら気持ちよさそうに安眠を貪るのである。その様子はいかにもたわいなく、また滑稽である。ただし眠そうに微睡んでいても、その感覚は極度に鋭敏であるので、少しでも物音があれば電光、一躍水中に潜り込んでしまうので、ここでかなりの注意をしなければ「流星光底長蛇を逸す」( ※ 頼山陽の詩からのことわざ )の言葉の通りに鼈を逃してしまい、チャンスは二度と戻ってこないのである。よって銃手は立ち騒ぐ心臓の鼓動を鎮めて、狙いを定めての一撃を試みなければならない。的は甲羅の真ん中を狙う人もいるが、経験のある銃手は甲羅は狙わず、頭を撃たず、鼻先の前方の4,5cmの岩面の一点を狙って撃つ。銃声一発で鼈はもんどり打って水面に落ちる。この時に銃手は少しの躊躇もなく水中に躍り込み獲物を捕らえるべきである。少しでも手間取れば獲物は蘇生するかあるいは川に流されて、居場所が分からなくなってしまうからである。こうして捕獲された鼈は、体に銃弾の傷はないが、鼻孔から少しの出血があるのが見える。これは鼈の少し前の岩を撃った銃弾の反響によって脳震盪を起こして倒れたものである。


扠突やすつき

 『諸艶大鑑』に、「世渡りとて丸魚突きになって天満におはしける、其の絵をみるにヤスをもて突いて取るなり」と記されている。丸魚まるとは鼈の上方かみがた言葉であり、同地方に鼈の多くいた頃はこの方法で生活の糧を得ていたものと思われる。鼈の扠突は冬眠中に行なわれる。鼈を探すには2m弱の竹の柄に扠を付けたものを持ち、小舟から、あるいは岸辺から綿密に砂の中を突きながら漁る。砂泥の中の30、40cm位のあたりに何か扠の鉾先に触れるものがあれば、これは石ではなく、木でもなく、土塊でもない。流石は長年の経験で感じですぐに鼈と分かるのである。つまり綿密に体全体を探り、まず頭の向いている方向を確かめ、次に甲羅の後部のにある柔らかい裾に扠を突き刺し、そのまま跳ね上げるのある。もしかなりの大物に出会い、扠の力では跳ね上げられない時は、水に入って砂を掻き分けて手で抱き上げる方法しかない。ここで注意するべき事は、その界隈の鼈は大小とも同じひとつの場所に集合しており、ある一点を中心にして円形になって冬眠している事が多い。そこでまず一匹を見つけ出し、頭の方向を確かめ、それから直線で延長した場所を扠で突けば、他の一匹に突き当たるはずなので、その直線の中心を定めて、それから円形を描きつつ扠を入れれば、大抵は残りなく取りつくすことが出来る。

【 備 考 】
 『周官』には魚鼈を取る方法が書かれていて、「或いは簗を作り、或いは籍を為す」とある。註釈には籍とは扠で泥中を刺し、捕獲することを言うとあるので、扠突きは周の時代から行われていたと思われる。そうすれば我国の扠突きも中国からの伝来であるのかもしれない。




第四項 品質の鑑別



△品質の鑑別

 鼈料理で第一に注意するべきなのは品質の選択である。すべて食品は同種のものであっても、その品質によって食味に大きな差異があるのは言うまでも無い。その中でも鼈はその差が最も著しく、上等品は脂身が軽甘で香気があるが中国や朝鮮からの輸入品、養殖鼈の下等品になると、悪臭があり味も悪い。一度茹でてから臭気を除いた後に、補助味の出汁で調理行うのでなければ到底口にすることが出来ない。ゆえに料理に関して鼈の鑑別は非常に重要である。試しに品質鑑別の標準を上げると以下のようになる。

  第一 背甲の色を見る事
  第二 腹甲の色 特に足のつけ根を確かめる事
  第三 四肢の爪先を確かめる事
  第四 全体に丸みを帯びたものである事
  第五 身が厚くかつ裾の厚いものである事

 つまり背甲の色は青緑色のものを選ぶべきであり、茶褐色はその次で、暗黒色を帯びたものは最下等である。腹甲は足のつけ根の色が黄色いものが特に良く、赤味を帯びたものもあるが、青白色のものが最下等である。ただし鼈は保護色を現すので、上等品でも時として茶褐色をしていることもある。
 腹甲の色も同じように保護色によって多少の変化をきたすので単に色合いだけで鑑別するならば見誤ってしまうことがあるので、腹甲の光沢に関しては十分な注意を払う必要がある。腹甲は金属性の光沢に欠けたものを最下等とし、黄金色の光沢があるものが、鼈の中の最上位にあるものとする。次は腹甲に赤味があって足のつけ根に黄金色の光沢があるものを良しとする。
 なお他の鑑別法は爪先を調べる事である。四足の爪先がきりのように尖っていて鋭いものは落第品であり、むしろその爪先が摩耗してスリコギ状になっているのが上等品である。爪先が自然のままに鋭く尖り、伸び放題に伸びているものは、泥土の緩い水の中で安楽として生活し続けていた証拠であり、激流、深淵の中、岩石のある場所で努力ある生活を行ってきたものは爪先が自然に摩耗しているのが常である。腹甲に黄金色の光沢のあるものは、必ずその爪先が摩耗していて、背甲は青緑色である。なおその形状が全体において丸味を帯びており、身が厚く、裾が厚いものが上物である。大きさは1.5kg位でメスの方が良い。

 以上の条件を備えているものであれば香味もあり最上品であることは疑うまでもない。池沼泥土の中での気楽な生活に慣れているものは、爪先は伸びており皮膚に光沢が無く、肥満しているので外見上は立派に見えるが、食味はかなり劣る。特に養殖鼈に至っては、食味は最も劣るものであると知っていなければならない。養殖鼈の爪先は鋭利な刀剣のようにとがっているのが普通である。『養小録』に「甲作西爪皮色脚根淡黄、河産也脂味殊勝、甲粗黒爪尖脚根淡青、塘産也些臭」とあり 羽倉簡堂 もまた、そのように鼈の品質について語っている。

 先述したように優良鼈が生息する環境は、大体次の条件を備えた所である。

第一 水流の勢いは問題ではないが、それが単調でないのは必要である。つまり流れの早い淵や、深い淵があり、浅瀬もある等の種々の変化がある事。

第二 川岸および川底は、半分は岩石、半分は砂地である必要がある。泥土は良くない。

第三 気候が温暖でかつ流れが清く、水温が高い所である事。

第四 海水を嫌うのでなるべく海から遠いところが良い。冷水や軟水を嫌う為に、水源地に近くない所。

第五 鼈の好物である蜷、田螺がたくさん居る所。

 なお同一の河川の流域でも、泥土に居るものや水田に潜んでいるもの、池沼に潜っているものは、光沢や爪先の条件において不合格であるのは勿論であるが、養殖池で人工的に養殖されたものに比べれば少々は品質が良い。中国と朝鮮の鼈は劣等であるが、これも天然産であれば、養殖鼈よりは品質が良い。よって今のところは養殖産の鼈が最下等品であるということを理解しておく必要がある。




第五項 裂き方



誤った方法

 東京にある割烹店の鼈料理を見ると、まず左手の親指と中指を、後ろ足の付け根に入れて鼈を掴み、右手でその甲を抑えて俎板に載せる。鼈が怒って口を開けて人を咬もうとする時には布巾の端または棒切れなどを食いつかせ、一人は鼈をかたく抑えつけ、もう一人は力を込めてその棒を引っ張れば、鼈は「雄牛は孕むまで放さない」と言われるのと同じくらい強情者である。その首は、次第に引き出されてゆくのである。こうして十分に伸びたところを、鋭い刃で一閃のもとに叩き切って、その切り口から流れ出る血を器に受ける。一方で湯を沸騰させておいて、首の無い鼈を湯に入れてすぐに引き上げ、白くただれている上皮を剥ぎ取り、その後に甲羅の周りに刃を入れ、甲羅を剥ぎ取り、腸を取り除き、次に腹甲を取り除き、小口から肉を小切れにして、水で洗う。それからこれを煮てその汁を捨て、別に鍋に昆布を敷き、七輪にかけて煮え立ったならばそこに鼈肉を入る。また鰹の出汁を混ぜて、煮えた頃に塩と醤油で味を付け、薑を添えて羹を作る。

 ただ、この方法は、煮方においても割き方においても本書の主張する方法とその主旨が全く異っている言わざるを得ない。
 まずは煮方について見ると、鼈の味を下茹でしたものを、昆布と鰹の混成汁で煮るようなことは、完全に鼈の本味を滅亡させる行為である。鼈の本味を知らせようとするならば、これらの補助味を必要としない優等品を選ぶことが第一であり、決して鰹節、昆布のようなもので味を混濁させるようなことはすべきでない。特に切った肉を水で洗い、また鼈の汁を捨てる事は、もったいなくも天の恵みを無視した行為であると言わざるを得ない。もし汚れが肉に付着して洗う必要が生じたのならば、それは捌き方の失敗である。洗う必要がないように捌くのが重要な方法である。
 また捌き方について見ると、頭を引っぱり出して切り離すような方法は、料理法として見ても非常に不合理である。まず頭を落とさなければ噛みつかれてしまうと恐れるのは、全くスッポンの扱いを知らない者のやり方であるとしか言いようがない。その扱い方を誤らなければ噛みつかれることは無い。

 すべて動物は口と肛門とは唯一本の管、つまり食道と腸によってつながっているので、料理するにあたり、このつながりを中断するのは決してやってはいけない方法である。これは自然の組織に従うという主義であるだけでない。管の切断を避けるのは、汚物を肉に付着させない為である。もし肉に血液の付着することがあっても気にする必要は無い。血液は汚物ではなく、取り去る必要はない。鍋に入れて煮え立った時に、褐色の泡となって表面に浮いてくるのでこの時にすくって取って捨て去れば良い。


正しい方法

 ここでひとつの正しい鼈の料理法を述べる。まず前述した品質基準の標準によって諸条件をクリアしたものを手に入れる。その鼈を俎板に置いて、腹を上向きにする。鼈はこのような不自然な姿勢では一時も安心できない習性なので、すぐにでも本来の姿勢に戻ろうとして、首を長く伸ばし、鼻先の先端を地面につけてそれをテコにして跳ね起きようとするので、その時に躊躇なく首の付け根を手できつく掴むのである。そしてそのままぶら下げれば、流石のしたたか者も空しく四つ足でもがくしかなく、生きている提灯をぶら下げているのと同じように、何の抵抗力も無くなる。このようにしてから塩で体全体をよく擦り、よく洗って出来る限り清潔にしててから、鼈の尻を俎板につけて尻餅をついたような姿勢で抑えておいて、首を少し前方に歪めて引き出し、首だけで体全体を抑えるようにしておいて、一刀を首の付け根に差し込み、深く切り込んで甲羅の内部に付いている首の根元の骨を離す。そのまま右手で鼈の尻を抱えて、鼈の体を逆さまにして血を捨て去る。さらに腹と背を抑えて、血を十分に絞り出してから、握っていた首から手を離す。すでに首の付け根を切り離してあるので、ここからは何の危険もない。そのまま甲羅の周囲にある柔らかい裾をまるく刃を廻して切り取り、甲羅を剥ぎ取れば、内臓全体が露出することになる。もしメス鼈で卵があれば、まずその卵だけを取って皿に入る。膀胱と胆嚢を傷つけないように注意しながら腹壁から内臓を取り外し、腸管とつながったままで肛門を切り離し、そこから首の下にある皮が腹甲に付いているところに刃を入れて、首と腹甲の皮を切り離せば、口から肛門までが分断されることなく、しかも何らかの汚物を出さずに、肉および腹甲から取り外せるのである。首の下にある魚のえらの形をした軟骨が皮の内側に包まれているが、この骨は口腔部に付けたまま捨て去る。『禮記』に鼈を食べる際には醜を取り除くとあるが、それはこの骨の事でもある。

 口と肛門とをつないでいる内臓全体をそのまま離した後、腹甲に付いている四つ足の付け根を切り離し、肉を太めに横切りにして皿に盛る。次に気管と食道は腸の一部として、同じように口腔部と繋がったまま、首の喉元の所を離し、首骨と首皮を取って、肉と同じ皿に盛る。あまり旨くないが肝臓は切り取って肉と一緒に煮ると良い。また鼈が最上等ならばその腸管も食用としても良い。その場合は肉の捌きを一通り終えた後に、腸管を長く断ち切って、塩でよく揉み、水で塩と汚物を洗い流し、4,5cmぐらいに横切りにして、肉と一緒に煮ても良い。口腔部と肛門は無用なので捨て去る。『禮記』に鼈は醜を取り除くとあるのはこの部分でもある。
 ここで注意すべきなのは鼈の生き腐りといって、鼈には生きながらもすぐに腐敗する特性のあるので、捌いたらすぐに煮るべきであり、また煮たならば直ちに食べなければならない。鳥獣の肉はもちらん魚類であってもあまり新鮮すぎるものは好ましくないが、鼈だけは例外で最も新鮮さを必要とする食材なのである。『隨園食單』の現殺、現烹、現喫の言葉は、鼈料理において最も適切なのであることを覚えておきたい。




第六項 鼈の煮方



 古来中国では鼈の肉味を貴んでいた。『周官』には春献鼈蜃とあって周代王室の食卓に供されることが定められており、『食物本草會纂』には鹹平無毒とあり、人体の効用の説明が非常に綿密である。『韓非子』には乙子の妻が市に行って鼈を買うという記載がある。また『春秋左傳』には鄭の子公が指を鍋に付けて、鼈の羹をなめて鄭公の怒りをかってしまったとある。これらの記録からも中国では太古から鼈の類が重んじられていた事は云うまでもない。

 中国の一地方では鼈を食べるのを忌む風潮があるが、それは北方の一地方に限られており、しかもそれは中世以降の事である。南方の人は今でも盛んに鼈を賞味している。南京料理で水魚または圑魚と呼ばれているのは鼈料理の事である。我国でも中世以降から鼈が尊ばれており、強壮剤として薬用に用いられるようになった。『魚鑑』という本には「常に鼈を食べれば一生白髪は生えず、皺もよらず肌うるおい少年のようである」として、今でも若返りの方法に関する効用を説明する内容とほとんど同じことを述べている。また貝原益軒の『大和本草』に鼈肉は下垂症状をや下痢を止め、下血や脱肛を治す。夏日土用に捕まえて塩漬けにすると美味であることまでは本草に記載されていない。ただ、この頭を陰干しにしたものは脱肛や陰脱を治療する方法であること、水生物であるが、体温保持に優れ、本草では滋養強壮の効果もあるとしている。これを見ても益軒がいかに鼈を重んじていたかを知ることが出来る。我国で鼈を最も早くから食べ始めたのは九州地方であり、関西がそれに続き、関東地方は最も遅れて食べられるようになった。現在の東京では、鼈の羹が料理に欠かすことができないものとなっているが、これは明治の中頃以降になってからの事である。  柳酋悦 やなぎならよし『山陰落栗』に、昔は東海道の看付けの宿で土鼈を調理して売る家があり、そこだけで他には売る家もなく、それを食う人もいなかったとある。

 鼈の料理法として主要なものを以下に挙げる。

△鼈の包み焼

 この料理はおそらく中国から伝わったものであろう。包み焼は中国では炮と云い、『古史考』で炮は燧人氏が教えたとある。『周禮』には炮豚という料理が 周代八珍 のひとつに挙げられておりその料理は世界に有名である。(第五章の王朝時代の模範食を参照)『事物紺珠』には炮鼈、炙鼈の文字が見られ、日本の包み焼はこれらと同様のものである。まず鼈の300日位のものを籠に入れて1週間程、流水の中で飼い、それを取って塩でこすり、体の外部をよく洗い、水で濡らした白木綿で頭も四肢も幾重にも巻きながら鼈の丸団子を作り、蓬のむしろでその上を包む。一方で炭火を起こし、熱っした中にその丸団子を埋め込み、上から大きな鉄火鉢で強く抑える。一時は灰の中で団子は激しく暴れるが少しづつ衰え遂には全く息の根が途絶えてしまう。それから火鉢を離して、なお30~40分経過して白木綿が黒焦げになった頃、団子を火から取り出して、水で灰を洗い流し、皿に盛って、刃を使うことなく、各自が箸で甲羅を取り除いて焼きたての肉を取り、醤油に付けて食べる。肉と骨がほぐれ易いのは鼈肉の特徴である。よって肉を取るのに刃やフォークは不要である。

 11月から3月頃までは冬眠期であり鼈は全く餌を取ってない、よって内臓もそのまま箸で取って食べる人もある。これは料理としては原始的であるが鼈の本味を理解しようとするのであればこの方法に勝るものは無い。これにより素材の本味を尊重し、なるべく人工と補助味を省いて、可能な限り自然の方法に従うのである。(醤油におろした薑を添えるのも可である。それ以外は砂糖、味醂等の一切を加えることは不要である)


△鼈の甘煮①

 鼈の肉を大きめに切り、胡麻油でよく炒め、これに薑、こんにゃく、焼豆腐を入れ、良質の日本酒(シェリー酒ならばさらに良い)醤油と砂糖で味付けをしながら、弱火で長時間よく煮る。


△鼈の甘煮②

 湯を沸かしてそこに鼈の肉を入れる。再び沸騰する時に湯の表面に茶褐色の泡が浮くので、丁寧にすくって捨てる。味醂、砂糖を加えて煮立て、醤油で適宜味を付ける。野菜やその他のものは入れない方が良い。


△鼈の羹

 湯を沸騰させ、鼈の肉を入れ、表面に浮かぶ泡を捨て、茗荷または芹などを添え、塩と醤油で味を付ける。または鼈の味噌汁を作ることもある。

【 註 】
 天然産ではなく養殖の場合は、料理した肉を湯引きにし、その汁を捨て、別に昆布出汁と大豆の割り下で味を付け、おろし薑を添える。鰹節や鶏汁は鼈の味には調和しない。



△鼈の卵

 特別に美味なものであり、他の卵のなかでこれに比較できるものはない。6,7月頃のメス鼈は、時として卵巣に100個近い卵を孕んでいることがある。卵の殻はかなり柔いので、熱湯の中に急に入れるなら殻が破裂するため、肉と一緒に煮るのは禁物である。よって卵だけは冷水に入れておき、これを煮立てたあとから肉に混ぜて一緒に味付けを行う。この卵は不思議にも如何に強火で煮ても、決して白身が固まる事が無い。これを見た人は、往々にしてまだ煮えてないと誤解するのだが、そんなことはない。卵を食べるには殻が柔らかいので、殻のまま口に入れて噛み破り、殻だけを吐き出すようにする。これは葡萄を食べて果肉を食べて皮を出すのと同じである。あるいはそのまま殻も食べてもよい。黄味はざらついていて舌触りがよく、非常に美味である。卵料理としては茶碗蒸しが一番である。


△鼈の茶碗蒸し

 鼈卵の茶碗蒸しは、最も贅沢な料理のひとつに数えられるだろう。大豆の割し下に鰹節の出汁をつくり、その出汁一碗につき、卵を6,7個の割合で入れ、その汁をよく混ぜ合わせる。別に味をつけた鼈の肉一切れと軟骨一切れを入れて、弱火で一時間ぐらい蒸す。味は普通の茶碗蒸しと違い、味も香味とも最も秀でたものとなる。

 鼈は東洋特産のように考えている人あるが、ヨーロッパやアメリカ等でも地方によって食べるところも少ないない。ただし好んで食用としている様子はなく、その多くは単にスープとして食されている。いわゆるタートルスープとは鼈肉のスープの事であり、西洋では最高の宴会でのみ供されている。

 中国ではスッポンを水魚または甲魚という。ここでその料理方法の興味深いものを2種類を挙げる。

一、湯煨甲魚(すっぽんの吸物)
 材料
   スッポン600g位のもの
   鶏汁2合
   酒100mℓ
   醤油50mℓ
   片栗粉(少量)
   葱一本(細かく刻む)
   生薑(細かく刻む)
   胡椒(少量)

 鍋にスッポンを入れて白湯を加えてフタをし、ぬる火で2時間以上煮てから、スッポンをすくい出して骨を取り、肉を細かく刻み、前の湯を捨てて綺麗に洗って鼈を入れ、鶏汁、醤油、酒を加えてフタをして、ぬる火で1時間位煮て、さらに葱、薑、片栗粉を入れてからまた20分程煮て、椀にもって胡椒を入れて膳に出す。

一、燉水魚(すっぽんの煮込み)
 スッポンを丸のまま熱湯で洗い、腹を縦に裂いて臓物を取り去る。綺麗に内部を洗い、小切りにし、薑の汁と酒でかるく炒めておき、一方で鍋に少々多めの水を入れ、そこに2杯ほどの酒を入れ、先に炒めておいたスッポンの肉を、豚の腹の焼肉、筍、椎茸、栗、豆油等を入れて混ぜ、柔らかくなるまで長く煮る。そして塩と醤油で味を付ける。




第七項 鼈の養殖



 養殖のものは味悪く、悪臭があるので、調味料の補助が無ければ食用にすることは堪えられない。よって食味論として養殖鼈を説明することは本意ではないが、近ごろ天然産の鼈が年々減少しており国産の一級品は手に入れることが至難な状況になっている。その半面、鼈の需要は非常に盛んであり、遠く朝鮮や中国からも輸入されているが、到底一般の需要に応じられるものとはなっていない。こうした輸入された悪品すらも価格は値上がりしている為、養殖を広げて需要に応じるようになっているのもやむを得ない事でもある。

 鼈の性質または自然の生活状態を研究し、その自然に従って適当な養殖の方法を計測すれば、相当な佳品を産出することができるのだが、ビジネスに重きをおいた事業であれば、鼈の習性や自然生活等に適合した設計を施すことは難しいだろう。しかし幸い鼈はその生活力が非常に強く、どのような不自然な逆境にも抵抗して良く生育する力があるので、養殖場においても見かけはかなり良い鼈を作れるようになってきている。

 養殖池は100坪位までのもので、水深は通常60cmぐらいで良い。池の底は可成砂質のものを選び、泥質を避ける。そして鼈の脱出を防ぐため、池の周囲に水辺から1m位の間隔をおいて板で囲い、板の上の方を内側に向かって15cm位の打ち返し板を付けておく。なお養殖池の外に産卵池を作るようにするのだが、これは板囲いの内側に沿って、幅15cm位の緩やかな勾配をつけて、その上に厚さが40cm位の砂を敷き、鼈の産卵場にする。場所は最も日当たりの良い場所を選び、親鼈一匹に付き一坪位の広さを割り当てる。

 飼育池は数個が必要である。なぜならば2才、3才、4才、5才位までの鼈を各池に分けて飼育しなければ、互いに噛みつき合って傷つき死ぬものが多くなるからである。冬眠中は餌を与える必要はないが、3月下旬頃から水中で活発に活動するようになるので、その時期は十分に鼈の好む餌を与えることが必要である。また夏季の炎天下で甲羅干しすることを好むので、池の日当たりの良い場所には岩石を置き、それが水面から出るように設置しておく。


△産卵と羽化

 親鼈は通常では10才から20才までのもので、体形は優美で甲は丸く、その中央にある縦の溝状の窪みが深いものが良い。4,5月頃に産卵池を掃除した後、親鼈をここに放せば、オス・メス水面に浮かび出て交尾する。その後、2週間で第一回の産卵が終わり、さらに2,3週間後にまた産卵する。なおこれを4,5回繰り返すものとする。オス・メスの割合は通常はオス10匹にメス5匹である。

 こうして親鼈の産卵した場所は金網で覆い、蛇や鼠等の侵害を防ぎ、産卵月日と番号を付けた目標を立てて置く。やがて50~60日が過ぎれば孵化するので、その子鼈が産卵池に入る事を防ぐために、幅30cm程の竹簾で産卵場を囲む。一方の口を開いておいて、素焼きの大瓶を埋設して水を入れておけば、しばらくして這い出てきた稚鼈は全て瓶の中に落ち込むので、それらを捕らえて該当する年齢の鼈の池に移して飼育する。


△飼育および飼料

 孵化してすぐはコイン位の大きさで、重量は4g以内である。生育は非常に遅く、5年目位にようやく0.75kgぐらいに達するに過ぎない。この頃からオス・メスは交接を始めるが、これらはまだ成熟期に達したものではない。重量が2.5kgから3.5kgに達するようになるのは約20年を経てからであり、この位になると完全に成熟している。池の広さと放養数の割合は1才は池1坪に10匹、2才は6匹、3才は4匹、4才は3匹、5才は2匹、6才は1匹位の割合とする。飼料は動物の肉および内臓、蜆、田螺、鳥貝、海老などである。生きたままの餌を好むので、なるべくそのまま与えるようにする。カイコは飼料として安価であるので経済的な飼料であると言えるだろう。

 鼈を運搬には、浅い木箱を使う。箱の四隅に小さな穴を開け空気が通るようにしておき、1日に2,3回水を注ぐ。水がかけられなくても1週間くらい死ぬことは無い。

【 備 考 】
 養殖場で上等品を作ろうとするならば、温暖な九州地方の気候が良い。浜辺に近くない所を選び、川から水を引いて常に流れを作っておく。水底には岩石と砂泥を混ぜ合わせておく。鼈一匹に5坪位の割合の広さにし、飼料は生きた蜷、田螺、小魚類を与えれば、天然産に近い品質を得ることは出来るだろう。ただ川からの水を引き込んで流れる設備を取ると同時に、洪水を予想して充分な防備を施して置かなければならない。ただこの方法は経済的な面から考えると引き合わない方法のように思える。




人魚 山椒魚


 古来から人魚に関する種々様々な伝説が、ヨーロッパにも中国にも日本にもある。ヨーロッパではバビロン、アッシリアで太古の時代にすでに人魚に関する思想が始まっているのを見ることができる。原始民族の崇拝していたエア(Ea)と称する神は半人半漁の海神であり、海洋から来て人間に学問と美術を教えたとされている。 また ダゴン (Dagon)と称する神は頭および肩まで魚鱗で覆われている。 ギリシャ神話に現れる海神のトリトン(Triton)は上半身は人の姿をしているが下半身の先は魚の尾であり、尾の先はひろがlって耳に似た形をしている。後代になりトリトンは諸海神の護衛を行う一族の名前になり、その姿かたちは人身魚尾で、しかも馬の前足も持つような姿として考えられるようになった。これは所謂 イクテュオケンタウロス (Ichthyocentaurs)と呼ばれるものである。同じくギリシャ神話中にグラアカスという漁夫が人魚になってシラー海の海神の姫に恋をした事も伝えられている。

 後代になるとエジプトのクレオパトラがシドナス河を遡ってローマの大将マルクス・アントニウスを訪問した時に、船の両側面には黄金がちりばめられ、絹に銀糸でミヤコソウの刺繍が施された帆を張り、白銀製の櫂を手にした漕ぎ手たちは人魚の装いをした花の乙女たちであった。 またクレオパトラがアレキサンドリアのトレミー王宮のテラスで、波が光る地中海を眺めながら数多くの侍女に取り巻かれて回述する話は人魚に関する事でもちきりであったと述べられている。
 またコロンブスの航海記にはアフリカの海岸で人魚を3度発見したことが記載されており、西暦1413年にはオランダの漁師が人魚を捕らえ、ハーレムで養っていると、糸をつむぐことを覚えたばかりか、宗教上の信仰も持つようになったと伝えている。

 中国における人魚についての記述は『洽聞記』『広東新語』等に見られる。『洽聞記』によれば「人魚は東海に棲んでおり、大きなものは2m程、その形状はまったく人間のようであり、眉目、口鼻、手や爪、頭などすべて美しく女性としての特徴を兼ね備えている。皮膚は白玉のようで鱗はない。五色の細毛は長さが4~5cm、非常に軽く柔らかい。髪は馬尾に似ており長さが2m程もある。陰部も男女とも人間と違いがない。海辺に住むやもめ達はそれを捕まえて池沼で養っている。性交の際も人と変わるところも無く、また人には毒がない」と、まるで見てきたかのように無造作に解説している。また『広東新語』には、「大風雨時,有海怪被發紅面,乘魚而往來。乘魚者亦魚也,謂之人魚。人魚雄者為海和尚,雌者為海女,能為舶祟。火長有祝云:「毋逢海女,毋見人魚。」人魚之種族有盧亭者,新安大魚山與南亭竹沒老萬山多有之。其長如人,有牝牡,毛髮焦黃而短,眼睛亦貢,面黧黑,尾長寸許,見人則驚怖入水,往往隨波飄至,人以為怪,競逐之。有得其牝者,與之婬,不能言語,惟笑而已。久之,能著衣,食五穀。攜至大魚山,仍沒入水。蓋人魚之無害於人者。人魚長六七尺,體發牝牡亦人,惟背有短鬣微紅,知其為魚。間出沙炳能媚人,舶行遇者,必作法禳厭。海和尚多人首鱉身,足差長無甲」と記している。

【広東新語 内容説明】
 大風雨の時、海の怪物が現れる。被髪紅面で魚に乗って往來し、その魚に乗る者もまた魚であり。これを人魚という。この人魚の雄は海和尚、雌は海女と呼ばれており、これらは舶に災いをもたらす。よって船長は祝いの席で「海女に逢ふなかれ」「人魚を見ることなかれ」と祝辞を述べる。人魚の種族には盧亭魚人といものがあり、新安大魚山と南亭竹没老萬山とに多く生息している。その身長は人のようでオス・メスがある。毛髪は黄色く干からびていて短く、その眼もまた黄色をしている。顔は黒ずんでおり、尾がある。人を見れば驚怖して水に逃げ込む。よく波間を飄っているので、人はこの怪物を競って捕らえようとする。メスを捕まえ交わった者もいる。上手く言葉を話せず、ただ笑ふだけである。しばらくすると衣を着て、五穀を食べる。それでも大魚山に連れてゆくと水に入ろうとする。人魚の身長は2mあまり、人間のようにオス・メスともに体毛がある。ただ背中に背びれのような短い赤い毛が生えており、それで人魚が魚であることがわかる。時折、砂浜に出でてきて人を惑わす。そのため船から見かけた者は、必ず厄除けのための呪文を唱えて災いを避ける。海和尚の多くは人首鱉身ひとくびべつしんであり、足がやや長く、甲羅は無い。

 また『述異記』には「康熙12年春に平湖の乍浦の浜辺である生きものが捕えられた。人のようで、顔や五官四肢は女性のように両乳がある。腹は白色で魚のようであり、背中には青い鬣がある。髪を垂らせば長さは2mぐらい。1~2日で死んでしまう。2年ほど前にも海辺で同じものが獲られたことがある。長さは50cmほどしかなかったが形はまったく同じで人魚であった」と記載されている。ただ以上のような説明だけでは下半身は魚であるのか、あるいはそうではないかの点に関してはっきりしない。しかしながら徐鉉の『稽神録』には、「謝中玉が水中に美人を見たが、腰以下は魚で紅白の鱗があった」と記しており、『徂異志』にも「査道という人物が高麗に遣わされた時に海にいる女性の肘の後ろに赤い鬣のような鰭があるのを見たので、そのことを人に問うと、これは人魚であるという答えだった」という記事がある。(※他にも『稽神録』には「海辺の人」の項中で人魚の特徴を示す逸話が記録されている)

 また秦の始皇帝を驪山りざんに葬った時に、「三泉( 三層の地下水脈 )を貫くほどに深く掘られた場所に遺体は安置され、周囲の地下水が流れ込まないように壁には銅を使い、水銀を満たして人口の川や海が再現され、天井には太陽や月が描かれ、部屋の明かりは人魚の脂を使った蝋燭で灯された」と『史記』は伝えている。これは当時、人魚の油で火を灯せば永久に消えないと信じられていたからである。滝沢馬琴の『八犬伝』にも人魚の油の話があり、その火は太陽や月の光と同じであると述べられているのは恐らくこの始皇帝の故事からきたのだろう。
 我国においては『和名抄』に「兼名宛云人魚一名鯪魚魚身人面者也」(『兼名苑』に曰く、人魚には別名があり鯪魚とされ魚身人面なる者である)と説明されている。『和漢三才図会』には、「推古天皇27年、摂津の堀江で網にかかったものがあったが、その形は幼児のようだが魚のようで人でなく、その名前がわからない。今でも西海大洋の中でよく発見される。頭は女性に似ているがそれより下は魚であり、鱗があって浅黒く、鯉に似ている。尾が分かれていて、両方の鰭に水かきがあり、それが手の様ではあるが足は無い。暴風雨になると発見されるが、猟師は網にかかっても奇怪なのでそれを捕まえることはない」と伝えている。

 また笈埃随筆きゅうあいずいひつの記載によれば、「昔の隠岐の今浜にある洲村にどこからか漁師らしい者が来て住み着いたが、ある日、里の者たちを招き調理をしてもてなしを行った。その時、人の頭のついた魚が料理されているのを見た一座の者たちは、非常に怪しみ、密かに申し合わせて皆帰ってしまった。中に一人の者はその魚を料理したものを袖に入れて持ち帰ったが、それを妻がどのようなものかを知らず食べてしまったのである。数日後、その事を知った夫は驚いて聞いたところ、妻が語るには、食べた時に味は甘露のように感じたが、食後に身体がとろけて夢のようであった。時間が経って醒めたところ、疲れが取れ、眼は良くなり遠くまで見えるようになり、耳はささやかな音が聞き取れるようになり、精神は澄み渡るようになった。その顔色も麗しさが加わった。その後、夫や親族ものたちが皆死んでこの世からいなくなり、7代目の孫の世代になっても、その妻は老化することなく、ついには海仙となって各地を遊行し、若州の小浜に移り住んだ。小浜の付近の空印寺はかつてその人魚が住んでいた場所であったと云われている。その地方の伝説によれば、寺の横に深さがわからない程深い洞穴があった。昔、ここに童顔で長寿の比尼が住んでいたが、人魚を食べて長寿を保っていただけでなく、顔の容貌も少しも老いることがなく、いつも娘のようであると言われていた。さらに隠岐に岩井津という所に老杉があった。これは昔、若狭から人魚を食べたという尼が来て植えたものであり、800歳になった時に再び戻って来て見ると言って去っていったので八百比尼やおびくにの杉と呼ばれた」という伝説が記されている。この伝説は人魚の形状についての説明をしてはいないが、その肉を食べれば長寿を保つことが出来るという極端な俗信は明らかにしている。
 この他にも伊勢の別保で湖に捕らわれていた人魚を、ある人が憐れんで買い戻し水に放したところ、それが一夜にして美女に変わり、その人のもとを訪れて高貴な贈り物をしたとされている。また豊後の佐伯で捕らえられた人魚は、漁師を欺いて海に逃げ帰ったとある。このように人魚に関する伝説は非常に多いのである。

 もともと魚の体に人間の顔のある人魚に関する伝承は、海洋に面した地方では当たり前のように語られてきたものであり、前に述べたような多数の事例に似た事は、水中の怪異として過去幾千年間にわたり、各国で民間伝承として伝えられてきた。
 しかし近代になり動物学者や解剖学者の研究によってその正体が明らかになっている。それは中国語で儒艮じゅごんという海獣の一種であるということで議論が一致したのである。イギリスの有名な解剖学者のリチャード・オーウェンも、人魚の正体はジュゴンであると断言するようになっている。今から約100年前に捕獲された人魚の頭がイギリスのサフォークに保存されているが、これはジュゴンの頭蓋骨であることが明らかになっている。このジュゴンという生物は、熱帯の海中に多く生息し、主にインド洋と紅海と、オーストラリアの海岸に生息するものの三種類に分けられている。日本では沖縄付近に生息している。いつも海藻を食べており、大きさは2.5~3mにもなるものがある。鼻孔は小さく、左右に並び、丸い頭が前方に出ていて、唇は薄く、口は大きくなく、口のまわりには柔らかい髭がある。眼は丸くて愛らしい、肌は非常になめらかで軟毛で覆われていて、背中の色は灰色であり腹部は白色である。尾は新月型に曲がって水平に広がっていて、肩は左右に張り、メスは胸部に丸く膨らんだ乳房がある。時には両鰭で子供を抱いて、その頭と共に上半身を水面から現して、食べ物を前鰭で口に運びながら、浮いたり沈んだりしながら遊泳している様子は、いかにも女性が子供を抱いているかのようである。声を発すると、子供が泣いているように聞こえる。この種属を海で見た航海者は珍しさのあまりに、これが話に聞いた人魚であると想像して、帰国後に、自分はどこどこの海で人魚を見たと吹聴したと考えられる。普通はオスとメスが一緒になって群れを成し、その子供を愛している。もし子供が捕獲されるようなことがあれば、悲しんでその場を去ろうとしないために容易に捕獲されることが多い。

 その肉の味は非常に上等で、江戸時代には干肉として、琉球藩から毎年幕府に献上されていた。肉の繊維は牛肉に似ていて非常に消化も良く、煎って食べれば美味である。オーストラリア人やマレー人は好んでこれを良く食べている。この肉は塩漬けにしても、または味噌漬けにしても良い。また若いジュゴンの赤肉は特に美味なのでヨーロッパでも珍重されていると言われている。近年、その脂肪層から搾取した油は医療用として使用されており、滋養鱈の肝油のような悪臭が無いのでより珍重されるようになっている。しかも皮の下に深く刃を入れても切っても、簡単には肉に達することがないと言われほど脂肪分が多い。
 またその歯牙は彫刻の材料に使用されている。漁師にはジュゴンを捕らえると、海が荒れて災いがあると信じている者がいまだに多くいる。




鯢 魚(山椒魚)

 鯢魚 これは魚ではなく、水陸両棲の獣である。日本では山椒魚と呼ばれている。木に登って山椒の実を食べるためにこの名前が付けられたと言われていたり、皮膚の肌合いが山椒の木の色に似ているからであるとも言われている。山間の綺麗な渓流の水中を好み、崖下の洞窟に潜んでいる。頭と胴は扁平で、成長したものは鰓や鰓孔を持たなくなり、体長は1.5mに達する。外観はとても醜悪である。口先は丸く、口はかなり大きい。鼻孔と眼はかなり小さく上下の両頬には小型であるが鋭い歯を持っていて、噛めば簡単には離れない。美濃、伊賀、伊勢、丹波、丹後および中国、九州の一部の山間渓流に産まれる。大分県の宇佐郡南院内村の渓流の一帯は天然記念物保護法によって、山椒魚の産地として内務省の指定を受けている。ただしこの地方は日本での山椒魚産地の最南端の地域である。

 鯢魚は寒さや熱さ、飢餓に対しても抵抗力が非常に強く、容易に死ぬことが無い。古生代の生物であり、古生代と新生代とを分けている地球の大変動と気候の激変を耐えて、種族を現代まで持続しているのを見ても、その頑強さは容易に推測できる。山椒魚の全身を二つに分断してその半分を水中に放すと、自然に身が生じて再び全身になると言われてることからハンザキという別名もある。日本は世界的に見ても鯢魚の本場であるとされ、学術上で重要な地域であるとされている。かつて太古にはヨーロッパにも生息していたことが、化石の存在により明らかになっている。
 今から2世紀ほど前に、南ドイツのバーデンで始めて鯢魚の化石が発見されたことがあったが、当時は山椒魚の事がまだ西洋では知られていなかった為に、スイスのある薬学者は、これをノアの洪水の時に溺死した人の遺骨であると断定して、その意味のある名前をつけて発表したので、一時期、かなり世界の人々を驚かせたことがあった。しかしその後、日本の山椒魚についての研究が段々と進んだ結果、これが山椒魚の化石であることが分かり、大きな世間の笑い者となった。現在のヨーロッパでも700mから7000mに達する高山において山椒魚に似た生物が発見されることがあるが、その色は黒く、胎児を産むために、日本のものとは異なっている。

 日本以外では中国の一部に鯢魚の生息地がある。李時珍の本草網目ほんぞうこうもくには鯢魚の項目があり、別名として人魚と記されている。また始皇帝陵の驪山りざんで使われていた人魚の油はこの魚の油であるという説明も記し、決水北の方にある洛中に流れ込む岸辺に人魚が生息していて、荊州、臨沮、青渓にも多く生息しているとしている。またこの形は鮎(鯰のことである)に似ていて四つ足である。尾が長く、よく木の上に登り、日照りの時には水を含んで山に登り、草の葉で身を覆い、口を大きく開けて鳥がやって来て水を飲むのを待って、これを食べてしまうとある。また䱱魚の形はカワウソに似ていて四つ足で腹は重く袋のように垂れている。体は紫色を帯びていて、鱗は無く鯰に類している。割いて腹の中を見ると小蟹、小魚、小石が入っていた云々とある。これを人魚としているのは李時珍の間違いである。この描写は鯢魚であることは疑う余地がない。李時珍はジュゴンを知らず、かつジュゴンが人魚の正体であったことは、この時代(明代)には世の中にまだ知られていなかったのでこうした誤りを犯したのだろう。また『物理小識』という書には、閩高山源有黑魚如指大其鱗即皮四足可調粥治小兒疳とある。

【物理小識 内容】
 閩高山の源には黒魚が生息しており、これには鱗がなく皮で四つ足である。粥にして食べさせると子児の疳を治すことが出来る。

 これは日本の箱根の山椒魚と同じ種類のものであり、鯢魚とはその種類が異なっている。

 『蜀志』に、「西山峡谷に鯢魚が生息している。現地の人がこの魚を食べる時は、まず木の上に縛り付けて、鞭でかなりそれを打って、白い汁が皮膚から流れ出るのを待ってから料理して食べる。( ※ 後半の木の上に縛り白い汁という部分の出典は『蜀志』というのは誤りであり、正しくは『酉陽雜俎』からの引用である。)こうしなければ毒に当たる」とある。
 白い汁は特に有毒という訳では無いが、鯢魚が皮膚からそれを出すのは事実である。人間がこれを捕えようとしても、ぬめりのある白色の粘液を多く吹き出すので非常に握りにくい。この白い汁は強い悪臭を放つ。こうしたぬめりと、山椒魚自身の持つ強い生命力のために素人が料理をするのは非常に難しい。

 鯢魚の肉の味に関して中国の正史『説苑』に記されている。その中には「南瑕子過程太子,太子為烹鯢魚。南瑕子曰:「吾聞君子不食鯢魚」とある。ここではせっかく太子から出されたご馳走を、南瑕子が断っているが、君子は鯢魚を食べないというのは南瑕子の屁理屈であって、中国では古代から食品として山椒魚を貴重なものとしていたことが明らかになっている。

 『呂氏春秋』本味論にも美味な食として、醴水の魚で朱鱉といって六本足で珠百碧があるとしている。この朱鱉は鯢魚の事である。このように殷の時代には中国にも鯢魚が多くいたことを知ることが出来るだけでなく、その味も推奨されていた事を知ることが出来る。

 さて山椒魚の料理は、まず籠の中に入れ、外から熱湯を注いでかけて熱殺してから皮を剥ぎ肉を割く方法しかない。中国人はこの方法を知らないので、まずは鞭で打ち殺した上で料理することが『蜀志』(※先に指摘した通り『蜀志』という出典は誤りであり、正しくは『酉陽雜俎』である。)に記載されている。味は魚類よりも獣類に近く、我国では味噌煮、蒲焼、油炒め、煮込み等で調理する。脂肪が多く非常に美味である。九州の一部では山椒魚は滋養強壮を助けるとして、大病の際には滋養食として探してきて与え、山陽・山陰地方では赤痢の妙薬として重んじられている。中国では珍味として山椒魚が貴重なものとされており、高価であること燕の巣や、フカヒレですら及ばないとさえ言われている。
 こうした鯢魚の料理は燉鯢魚と呼ばれ、南京料理では第一の珍味として数えられている。その料理方法は以下である。

一、料理の用意
 山椒魚、豚肉、杏仁(あんずの種)、香信(シイタケ)、塩、醤油、豆油、木生薑、酒など。

二、料理の方法
 山椒魚の腹を割いて、臓物を取り出し、綺麗に内部を洗う。薑汁と酒でよく揉んでから、油で良い加減に炒める。これに水を少々多めに入れて、豚肉は大切りのまま、杏仁、香信と一緒に入れて、さらに酒を一杯ほど加えて柔らかく煮る。二時間くらい煮た後に、塩と醤油を入れて味付けし、中の豚肉を小さく切ってさらに醤油をつけて食する。




註 釈