坪内つぼうち

  •  
  •  


信長のシェフ


織田信長に関係したエピソードの中に、坪内某という料理人が登場する。(坪内石斎という名前とする説もあるようだが、ここでは単に坪内と記載することにする)
この坪内という人物を基にした、『信長のシェフ』という漫画もあり、実写化されたドラマも放送されている。この坪内が実在の人物であったのかどうかについては定かではないが、信長についての面白いエピソードではあることは間違いない。よって、ここでは坪内が実際に存在したのか、さらにはこのエピソードが事実なのかも含めて少し分析してみることにしたい。


『常山紀談』によると


坪内はもともと三好氏の料理人であった。しかし織田信長に敗れて三好氏が滅ぼされると坪内も捕えられ囚人となる。その後、料理人として召し抱えられる機会を得ることになり、信長のもとに連れてこられるのであるが、その時のエピソードが『常山紀談』にあるので、以下に引用しておきたい。

【 常山紀談 】現代文
三好家が滅んだとき、料理や包丁さばきの名人として名高い坪内なんとかという者が生け捕りになった。彼は※放し囚人(めしうど)になっていたのだが、数年経って、菅谷九右衛門の賄い係として仕えたいと申し出た。

市原五右衛門が「坪内は鶴・鯉料理は言うに及ばず、七、五、三の饗膳の儀式もよく知る男です。そのうえ坪内の子供二人は既に当家に奉公しております。坪内を赦して厨房を担当させましょう」と言うのを信長が聞いて、「明朝、その男に料理をさせよ。召し抱えるかどうかは、その料理の出来による」ということになった。

そういうわけで、坪内が料理をして、信長は出された膳に口をつけた。
だが信長は「水っぽくてとても食べられたものではない。そいつを殺せ」と怒った。
坪内は「かしこまりまして、承知いたしました。しかしもう一度私に料理を作らせて下さい。その料理もお口に合いませんでしたら、この腹を切りましょう」と言った。
信長はその申し出を聞き入れた。

そうしてその翌日に坪内は膳を出したのだが、味が予想外によかったので、信長は喜んで禄を与えた。
坪内は、もったいなく感謝に堪えないと礼を述べ、「ところで昨日の料理は三好家風の味加減でした。しかし今朝のは下品な三流料理の味付けです。三好家は長輝から五代続いて将軍家のお世話をし、日本国の政治を取り計らってきたので、何事にも品があります。今朝の風味は下品で卑しい田舎風の味付けでしたので、お口にお合いになったのです」と言ったので、これを聞く人は「信長に恥辱を与えた坪内の言葉だ」と言い合った。


引用した『常山紀談』は江戸時代(1739年)に成立した書物で、痛快なうえ、読みやすい文章なので当時は大変な人気を得ていたようである。『美味求真』には、この坪内の話が「人口に膾炙」されたエピソードであると紹介されている。実際にこのエピソードは昔は教科書も取り上げられていたようで、多くの人の知っているなじみ深い話だった。だが現代になると、時代にそぐわなくなったのか、この坪内のエピソードも含めて『常山紀談』自体があまり引用されてはいない。
その理由は様々あると思うが、ひとつは、昔と比べると現代は織田信長の評価が高くなってきており、評判を落とすことになるようなエピソードが取り上げられなくなっていることがある。
さらに、『常山紀談』は読み物としては面白いが、歴史家からは史料的価値は低いという評価にある。この坪内のエピソードも信長の生きていた時代の出典が存在しておらず、後世になって書かれた創作的要素の強い話であると見なされている。こうした理由も、現代ではあまり取り上げなくなってしまった要因だと言えるだろう。


武辺咄聞書ぶへんばなしききがき』によると


『常山紀談』と同じ、料理人の坪内の話が『武辺咄聞書』にある。以下その内容を引用しておく。

【 武辺咄聞書 】
信長公天下を治給ふ砌、三好長慶の台所人坪内某を生捕る。元来庖丁人の事なれは誅戮にも不及、放囚人にて四、五年も居。
信長公出頭人菅谷九右衛門へ、御賄頭の市原五右衛門申は囚人の坪内は三好家の料理人にて、鶴鯉の庖丁は不及申、七五三の饗の膳、何にても公方家の法式を不存と云事なし。其上子供弐人は皆御台所にて被召仕候なれは、最早不苦事に存候。御料理人に致候ては如何」と申。菅谷則申上る。
信長公「尤也。料理させ聞し召、其出来不出来にて其訳を可被仰付」とて、其晩の御料理を坪内に被仰付。坪内畏て御料理を仕立、不残其身鬼取して御膳を上る。菅谷罷出る。信長公料理御上り、以の外御気色替り「さん/\の塩梅。水くさくして中々沙汰の限也。扨々悪き次第也。其坪内め首を刎よ」と御怒り被成。
其段申聞せ候へは、坪内承り「左候はゝ、明朝の御料理を今一度仕、夫にても御意に不叶候はゝ切腹可仕」と訟る。菅谷此旨申上る。暫く御思案有て「左あらは明朝の料理可申付」と被仰出。坪内翌朝又々御料理を仕立上るに、中々塩梅風味の能事、兔角不被申。

信長御感不斜、坪内を御家人に被召出由被仰付。其段申聞候へは、坪内畏て「昨晩の御膳の塩梅は御意に不叶筈にて候。三好家の塩梅にて仕立候。今日の塩梅は第三番通の塩梅に仕立、御意に入筈にて候。三好家は筑前守長輝。


1680年(延宝八年)、国枝清軒によって編纂された戦国武将の逸話集が『武辺咄聞書』であるのだが、その内容は先に引用した『常山紀談』とまったく同じである。しかし年代的に見ると、『武辺咄聞書』の方が古い時代に書かれた書物なので、『常山紀談』の坪内のエピソードは『武辺咄聞書』を基にして書かれたと考えられる。


坪内に対する分析


ここで『武辺咄聞書』および『常山紀談』に書かれている内容から、坪内がどのような人物であったのかを、まとめておきたい。

  ① 坪内は、京の料理を理解する料理人であった
  ② 坪内は、鶴鯉の庖丁を行う者であった
  ③ 坪内は、七五三の饗膳に通じていた
  ④ 坪内は、三好氏に5代に亘り仕えた

上記4つの点を考慮し、坪内という人物がどのような者であったのかを分析し、明らかにしてみることにしたい。


① 坪内は、京の料理を理解する料理人であった


坪内は京の料理を理解する料理人であった。それもそのはずで、坪内は京に拠点を置く三好氏にずっと仕えていたからである。室町時代には「御成おなり」と呼ばれる、家臣が、君主である将軍を自邸に招いてもてなす饗応が行われていた。
御成には、詳細な決まりごとがあり、その手続きに則って料理が準備され、食事が供されることになっていた。また料理だけでなく、能も演じられ、贈り物がなされることになる。こうした一連のすべてが包括されて御成として成立していたのである。
このことは京料理を知っていると言っても、単に京風の味付けを知っているということだけでは不十分であるということを示している。味付けに対する理解はもちろん、様々なしきたりや、それにまつわる故実についても通じていなければ京の料理を理解している者であるとは言えなかったのである。


② 坪内は、鶴鯉の庖丁を行う者であった


料理人と庖丁人は同じではない。その事は 庖丁人 の項で既に説明してあるので、詳細はそこを見て頂くと良いと思うが、以下にそのことが記されている『四條流秘伝抄』を引用しておく。

【 四條流秘伝抄 】
現今庖丁人と料理人とは古来両者の間には厳然たる区別のあるものなり。庖丁人は庖丁式から料理義礼式一切を弁へ司り、板元料理人の教導訓育の任に当たる役なり。
古来料理人は板元に配属し、板元は庖丁人の教示により調膳を司る者にして、更に料理人は板元の指図に従い料理の雑事に専念するものなり。


ここでは庖丁人と料理人は、全く違うと述べられている。しかもそれだけでなく、階級が分かれていて庖丁人は料理人よりの上に位置しており、料理人は庖丁人の指図のもと調理を行う人であるとしている。またそれ以外にも、庖丁人は、貴族階級あるいは殿上人といった、位の高い人々が学び、それを行う儀礼であることが述べられている。

さらに秘伝を見てゆくと、鳥の最上のものは「鶴」、魚の最上のものは「鯉」と定められていた。よって鶴鯉の庖丁を行うことは、庖丁式のことを意味していると考えるべきだろう。庖丁式とは、刀のような庖丁と真魚箸と呼ばれる長い箸だけで、手で素材に触れずに捌く儀式の事である。
坪内はこうした庖丁式にも通じており、鯉や鶴を儀礼に則った方法で捌くことが出来る人物であったという事になるだろう。庖丁式を行うには、流派があり、そのどれかに属する必要があると考えられるので、坪内もその当時に存在していた、四條流、あるは武家の流派である大草流進士流のどれかに属していたと推測すべきである。


③ 坪内は、七五三の饗膳に通じていた


饗応に際して、最も格式の高いのは七五三本膳料理というスタイルであり、こうした料理法・饗応法に、坪内は通じていたというようである。特に将軍を招いての御成では七五三の本膳料理で饗応されることになっていた。

本膳料理は主に式三献、雑煮、本膳、二の膳、三の膳、から七の膳までで構成される料理である。雑煮は初献に記されることがあるが、式三献と雑煮以下は場所を移している記録があることから別物との説もある。しかし本膳料理という限定的な意味では含まれていないとしても、御成においては饗応のすべてが含まれて始めて成立するので、これを準備するものは式三献についても当然、知識をもっていなければならなかった。

本膳料理は七五三の膳を正式な形式としており、ゆえに七五三本膳料理と呼ばれる。「七五三」の意味は本膳に7、二の膳に5、三の膳に3の菜が盛られる菜の陰陽五行に基づいた数を示しているからである。「七五三」については他にも説があり、江戸時代の有職故実の専門家・伊勢貞丈は『貞丈雑記』で、これは膳の数を表しているのであると説明している。
いずれにしても、七五三本膳料理には複雑な儀礼的な要素と、陰陽五行に基づいたセオリーと、有職故実に関する知識が求められたことは間違いない。

三好氏は有力な武家として度々、将軍を招いて御成を行っており、三好氏の料理人ということであれば、坪内も当然、こうした料理に携わっていたものと考えるべきであろう。


④ 坪内は、三好氏に5代に亘り仕えた


三好氏は、戦国時代に畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた一族である。坪内は三好之長から5代に仕えたと述べている。以下にその名前を記しておく。

 三好之長 (1458年 - 1520年)
 三好長秀 (1479年 - 1509年)
 三好元長 (1501年 - 1532年)
 三好長慶 (1522年 - 1564年)
 三好義継 (1549年 - 1573年)

最初に仕えた三好之長の年を、死亡年の1520年としても、5代目の三好義継が信長に滅ぼされて自害した1573年まで、最低でも53年間、坪内は三好氏に仕えたことになる。坪内の生涯年数は分からないが、まだかなり若い時代から三好氏に仕えていたとするならば期間的には可能であるように思える。


坪内は実在した人物だったのか?


さて『常山紀談』,『武辺咄聞書』に出てくる坪内某なる人物は歴史的に見ても実在の人物だったと言えるのだろうか?さらにこのエピソード自体、事実と見なすに足りうる根拠があるのだろうか?

『続群書類従』には「永録四年三好亭御成記」が残されており、かつて御成がどのように行われていたのかをうかがい知ることが出来る。1561年(永禄4年)3月30日に、将軍義輝が長慶父子の屋敷を訪れた際の御成の詳細記録が、ここには収められているが、この料理を取り仕切ったのは進士流の頭であり、奉公衆でもあった進士晴舎であった。
 他にもこの御成の記録には、それに関係した様々な人物名が記されているが、坪内の名前はどこにも記されていない。また三好氏の家臣の名簿を見ても坪内という姓は含まれていない。

坪内が、単なる料理人であれば、家臣としての名前が挙げられていない事に不信感を持つ必要はない。しかし坪内は、鶴や鯉を捌く庖丁人であったとされているならば話は別である。先にも述べたように、庖丁人と料理人はその根本において異なっているからである。室町時代になり、武家での料理の需要が高くなると、それまでの朝廷に仕えていた高橋氏や、公家の四条流とは異なる、武家のための庖丁流派が生まれるようになった。それが、「大草流」であり、また「進士流」であった。
よって室町時代の庖丁人とは、現場で料理を行う者というよりは、むしろ足利幕府を支える上級武士として、戦があれば参戦して戦い、領地を有する当主として地方を治めるという武士たちであったということを理解していなければならない。

庖丁人は、自らが料理を手掛ける料理人であるという訳ではない。彼らは、有職故実に通じて、庖丁式をおこなったり、饗応料理のマネジメントを行い、饗応料理を慣例に沿って万事つつがなく供することが求められる立場の人物であった。

こうした観点から俯瞰して見ると、坪内という人物は、庖丁人のようでもあり、また料理人のようでもある。つまり立場がはっきりしない人物なのである。
だが囚人として預かりの身となっていた数年後に信長の元に引き出されたということであれば、坪内はそれなりの人物だったということになる。そうであれば単なる料理人ではなかったと考えるべきだろう。しかし、そうであれば家臣団に名前が含まれていないことや、記録がないこと、さらには御成の手配も手掛けた実績がどこにも残されていないのは不審な点となる。

こうした不確定要素を考慮すると、坪内は実在していなかった人物であると考えるべきであろう。よって坪内が信長に料理を出したエピソードも史実に基づいたものではなかったはずである。そもそも、このエピソードの出典である『武辺咄聞書』は信長の死後100年ぐらい後、また『常山紀談』は約200年後になって書かれた書物である。しかもこれらの本は痛快さを特徴とした読み物だったので、物語としてのインパクトを重視する傾向にあったはずであることを考えると、やはり史実性には乏しいと言わざるを得ない。


司馬遼太郎が描いた坪内


司馬遼太郎は『国取り物語(四)』の中で、坪内のエピソードを小説として書いている。しかも司馬遼太郎は小説家なので想像力を膨らませて『常山紀談』,『武辺咄聞書』に書かれている以上のことまで描いてある。以下、その箇所を引用しておく。

『国取り物語(四)』
「最初の膳こそ、わが腕によりをかけ料理参らせた京の味よ」 だから薄味であった。なるべく材料そのものの味を生かし、塩、醤などの調味料で殺さない。すらりとした風味をこそ、都の貴顕紳士は好むのである。
ところが、二度目に信長のお気に召した料理こそ、厚化粧をしたような濃味で、塩や醤や甘味料をたっぷり加え、芋なども色が変わるほどに煮しめてある。
「田舎風に仕立てたのよ」
(坪内)石斎はいった。所詮は信長は尾張の土豪出身の田舎者にすぎぬということを、(坪内)石斎は暗に言いたかったのである。 この噂が、まわりまわって信長の耳にとどいた。

意外にも信長は怒らなかった。
「あたりまえだ」
と、信長はいった。
この男は、都の味を知らずに言ったわけではなく、将軍の義昭や公卿、医師、茶人などにつきあってかれらの馳走にもあずかり、その経験でよく知っている。知っているだけでなくそのばかばかしいほどの薄味を、信長は憎悪していた。
だからこそ(坪内)石斎の薄味を舌にのせたとき、
(あいつもこうか)
と腹を立て、殺せといった。理由は無能だというのである。いかに京洛随一の料理人でも、信長の役に立たねば無能でしかない。

「おれの料理人ではないか」
信長の舌を悦ばせ、信長の食慾をそそり、その血肉を作るに役立ってこそ信長の料理人として有能なのである。
「翌朝、味を変えた。それでこそ(坪内)石斎はおれのもとで働きうる」 信長はいった。


上記のように司馬遼太郎は想像に基づいて、信長の見解までもを加筆している。確かに、このような見解を信長は持ったかもしれないと思わせられるところもあるが、そもそも実際の坪内に関するエピソード自体が、史実に基づいてる訳ではないので、司馬遼太郎の記述が正しい見解だとは簡単に明言は出来ない。それでも信長ならばそういう言動もあったのではないだろうか...と読者に思わせるところが司馬遼太郎の上手さである。

ただ細部を読み込むと、司馬遼太郎も、坪内という人物のあるべきポジションを上手く設定できていないように感じられるところが2つある。

  ㈠ 料理人と庖丁人の違いが明確にされていない
  ㈡ 庖丁人は信長の日常食の為のお抱え料理人ではない

㈠ について言えば、司馬遼太郎は、どうも料理人も庖丁人も混同して扱っているような感じがする。坪内は数年間、囚人となり、信長の前に引き出される程であったので武将としてもそれなりの人物であったに違いない。しかしここでは、単なる料理人のように扱われていないだろうか。
もし坪内が庖丁人であるとするならば、簡単には味を変えることをしなかったに違いない。なぜならば、庖丁人が生み出さなければならない料理は、日常の食ではなく、饗応における儀礼に従った「食」だからである。
どのような文化圏でも、特別な日には、特別な料理を食べることが形式的に行われている。それはその料理が単に美味いからという訳ではなく、一種のコードのようなものとして社会に組み込まれ、その共同社会を共有する者たちが、仲間意識や互いの価値観を確認し合うような行為となっているとも言える。故に我々日本人は正月に餅や雑煮を食べ、イギリス人はクリスマスに七面鳥を食べるのである。
庖丁人の生み出す料理は、こうした儀礼に基づいた料理でなければならず、個人の好みが優先されるものではない。もしそのような時でも自分の食べたいものだけを要求するならば、それは公式の晩餐会に出席していながら、マクドナルドのハンバーガーを所望するような行為であると言えるのかもしれない。司馬遼太郎の描いた信長像は、「食」という面においては、そういう愚かな人物に堕してしまってはいないだろか。


これが ㈡ のような日常食の為のお抱え料理人であれば問題ない。信長は好きな時に、好きなものだけを、好きなだけ食べていれば良いだろう。司馬遼太郎は、濃い味を好み、それを押し通そうとする信長を描くことで、天下人たる、確固たる自分をもった、強い信長像を描き出したかったのではなかったかと思われる。
だがそのような食事は、お子様の「食」とまったく同じである。
事実、食べるという行為は、社会的な意味においては、好きなものだけ食い散らかすような行為を意味するのではなく、むしろ、互いの関係を築く為の行為でもあるはずである。そしてそれが政治的な意味を持つのであれば、その要素は一層色濃くならざるを得ない。

かつてフランスの政治家であり、かつ美食家でもあったブリア=サヴァランは『美味礼賛』の中で、「国々の命運はその食事の仕方によって左右される」と述べたが、食事が国益を左右する事もあることを考えると、この言葉は正に至言なのである。

坪内は、料理人ではなく、武将でありかつ庖丁人であったに違いないので、司馬遼太郎が描いたような坪内像に対する信長の心境は、ちぐはぐで決して成立し得ないようなものになってしまっている。饗応における料理の意味や、庖丁人とはどのような者であったのかを司馬遼太郎がもう少し理解していれば、決してこのような信長の心情の描き方は行わなかったことだろう。


坪内のエピソードが生まれたのは...


改めていろいろと分析してみると、『常山紀談』,『武辺咄聞書』に書かれている坪内が実在したのかについては大いに疑問である。ではなぜ、後世になってこのような創作されたエピソードが加えられたのだろうか?この点について私なりの推測を述べてみたいと思う。

『常山紀談』,『武辺咄聞書』ともに書かれたのは江戸時代になってからである。徳川家康が江戸に幕府を開き、伝統ある京と、新興都市の江戸は互いに異なる価値観を持ちながら、それぞれが日本の東西二大都市として存在するようになっていた。

 京都は公家が文化の担い手であり、昔から雅な薄味を好んでいた。それに対して、武家の文化に根差した江戸は、濃い味が好まれる傾向にあった。

もともと平安時代頃は、料理には味付けがされていない、素のままのものが食卓に載せられ、脇には塩や酢や酒、そしてひしお(魚醤)が添えられていたので、食事をするときには、食材と調味料を口の中で合わせて食べる「口内調味」という方法がとられていた。
京の料理はこうした背景があった為、もともと素材の味を味わうという部分において繊細であったのかもしれない。また当然、公家たちは、武士のように力を使う仕事を日常的に行っていなかったことも、薄味(塩分が少ない)嗜好を促進したと考えられる。

先に調味料について述べたが、現代では一番身近な調味料のひとつになっている醤油は、やっと室町時代になってから作られ、広まるようになった調味料のひとつである。江戸時代になり、江戸や野田で醤油が沢山作られるようになるが、この醤油の嗜好こそが、京都と江戸の味の差をもたらしたとも言えるのかもしれない。

関西は薄口しょうゆを、関東は濃い口醤油を好むが、こうした嗜好の違いが生じたのも歴史的あるいは文化的背景から考えると必然的であったと考えられる。今でも関西のうどんと、関東のうどんは色が違う。醤油の種類と濃さが違っている。それは関西では出汁を味わおうとするのに対して、関東では醤油(塩分)を味わおうとするためである。
また江戸では良く蕎麦が食べられていたが、そのつゆはかなり濃く、箸の下三分の一しか浸さない(蕎麦を全部浸してはダメ)のである。濃い蕎麦つゆも、関東の濃い味を好む嗜好をよく表していると言えるだろう。

坪内が2回目につくり、信長が気に入った料理について、坪内が述べた「今朝の風味は下品で卑しい田舎風の味付けでしたので、お口にお合いになったのです」という言葉は、信長を揶揄するために取り上げたというよりも、うがった見方をすると、江戸時代になり、京を凌ぐほど急速に発展して日本の中心地になりつつあった成り上がりの江戸に対する、京文化からの冷ややかな揶揄を込めた感情の表明であったのかもしれない。

現代、世界の中心的な国に成長したアメリカの代表料理、たっぷりのケチャップとマスタードを付けて食べる大統領の愛するハンバーガーにも、冷ややかな揶揄を込めた敬意を表しつつ、ここで筆を置くことにしたい。





参考文献


『常山紀談』  湯浅常山

『武辺咄聞書』  国枝清軒

『国取り物語(四)』  司馬遼太郎