豊宇気比売神トヨウケヒメノカミ

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穀物神の二神について



 大宜津比売神オオゲツヒメノカミ豊宇気比売神トヨウケヒメカミは『古事記』にのみ記されている穀物神である。(この両神についての言及は『日本書紀』にはない)
 美味求真にはこの二神を、日本食物の元祖と食物調理の神であると述べている。この項では豊宇気比売神を取上げて、掘り下げて述べることにしたい。大宜津比売神オオゲツヒメノカミ五穀も、これと関連する記事となっているので参考にして頂ければ幸いである。


豊宇気比売神トヨウケヒメノカミ



 豊宇気比売神(以降、トヨウケと記述する)は、『古事記』のなかで稚産霊(ワクムスビ)の娘として登場する。トヨウケという神名に含まれている「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神であることを示している。トヨウケがなぜ食物・穀物を司るのかについては、父親のワクムスビがどのような神であるのかをまず理解する必要があるだろう。父親のワクムスビはイザナミが火の神のカグツチを産んだ為に苦しみながら排泄したもののなかから生まれた神々の一柱である。以下にワクムスビがどのように誕生したのかについて『古事記』から引用しておくことにしたい。

【 古事記 】
 次生神名、鳥之石楠船神、亦名謂天鳥船。次生大宜都比賣神。次生火之夜藝速男神、亦名謂火之炫毘古神、亦名謂火之迦具土神。因生此子、美蕃登、見炙而病臥在。多具理邇、生神名、金山毘古神、次金山毘賣神。次於屎成神名、波邇夜須毘古神、次波邇夜須毘賣神。次於尿成神名、彌都波能賣神、次和久產巢日神、此神之子、謂豐宇氣毘賣神。故、伊邪那美神者、因生火神、遂神避坐也。凡伊邪那岐、伊邪那美二神、共所生嶋壹拾肆嶋、神參拾伍神。

【 訳文 】
 次に生んだ神の名は、鳥之石楠船神、またの名は天鳥船という。次に大宜津比売神オオゲツヒメノカミを生み、次に火之夜芸速男神を生んだ。またの名は火之炫毘古神といい、またの名は火之迦具土神という。この御子神を生んだため、伊邪那美命は女陰を焼かれて病に伏した。その時、吐瀉物に成った神の名は金山毘古神、次に金山毘売神。次に、糞に成った神の名は波邇夜須毘古神、次に波邇夜須毘売神。次に、尿に成った神の名は彌都波能売神、次に和久産巣日神。この神の子を豊宇気毘売神という。そして伊邪那美神は、火の神を生んだことで、ついに神避ってしまった。天鳥船から豊宇気毘売神まで合わせて八柱の神。全部で、伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神が共に生んだ島は十四島、神は三十五柱である。


 ここでは、まずイザナミの尿からワクムスビが生まれたとあり、その後、このワクムスビの娘となったのがトヨウケであると述べられている。しかし分かりにくいことに、この文脈からするとトヨウケもイザナミの子であるかのようにも読める。イザナギとイザナミの産んだ神々は35柱という説明になっているが、実際に数えてみると40柱であり、この数の整合性に関しては様々な意見がある。 (関心ある方は「記上巻における神々の総数記事-「參拾伍神」に及ぶ-」戸谷高明を参照のこと)
 しかし数え方によっては、トヨウケが生前、最後に産んだ神という位置付けになる為、それもトヨウケという女神の特異性を示す要素となっているように考えることもできる。


トヨウケの父、和久産巣日ワクムスビ



 トヨウケの父神、ワクムスビは、『古事記』ではイザナミの尿から生まれたとされているが、『日本書紀』ではイザナミが死んだ原因となった火の神カグツチ(火之迦具土)と、イザナミの糞から生まれた土の神ハニヤマヒメ(彌都波能売)との間に生まれたとも言われている。
 この辺りの出自の違いが、神の数を数える際の難しさになっているのかもしれないが、火の神と、土の神(土器)を表す神々から、穀物を表す神であるワクムスビが生まれたというのも「食」という観点からは非常に象徴的なものであるように思われる。

 ワクムスビは良く、オオゲツヒメとウケモチと一緒に語られる事がある。これはそれぞれの神がいづれも食物や穀類と関係した神であるとされているだけでなく、その体から、穀類や蚕が生じるようになったことに起因している為である。ただそれは必ずしもオオゲツヒメやウケモチと同じ背景にあるという意味ではない。
 例えばワクムスビは男神であるのに対し、オオゲツヒメとウケモチは女神である。またオオゲツヒメとウケモチは殺されて、その屍体から穀類が生み出されるようになったのに対して、ワクムスビについては殺されたという記述はなく、ただ以下のように述べられているだけである。

【 日本書紀 】
 卽軻遇突智カグツチ、娶、埴山姫ハニヤマヒメ、生、稚産靈ワクムスビ。此神頭上、生蠶與桑。臍中生五穀。罔象、此云美都波。

【 訳文 】
 カグツチがハニヤマヒメを娶って稚産霊(ワクムスヒ・ワクムスビ)が生まれた。 ワクムスビの頭から蚕と桑が生まれ、へそから五穀が生まれた。


 先に述べたように『古事記』では、ワクムスビはイザナミの子とされているが、『日本書紀』は、それとは異なりワクムスビはカグツチとハニヤマヒメの子であるとしてある。そしてワクムスビの頭から蚕と桑が、へそから五穀が生まれたとある。このワクムスビの話も、ハイヌヴォレ型神話に分類されるが、ここにはオオゲツヒメとウケモチのように殺されたという記述は含まれていない。
 この違いは、ワクムスビが男神であったからだと考えられる。大宜津比売神オオゲツヒメノカミの項でも説明したように、神話学者のアードルフ・E・イェンゼン "Adolf Ellegard Jensen"(1899-1965)は『殺された女神』のなかで、女神が殺され、その死によって穀物が豊穣に実るようになるという、死と再生の神話型類型を示している。女神は大地を象徴し、殺されるというその死の過程を経て、農作物の豊かな実りに寄与するのである。

 それに対してワクムスビは男神であるので、殺害されて、穀類として再生されるというプロセスが省かれ、ただ頭から蚕と桑が、へそから五穀が生まれと記述されているのではないだろうか。よってむしろこの違いは、女神は豊穣さをもたらす為には、必ず殺されなければならない事を逆に暗示しているようにも私には思える。
 それは民族・神話学者の大林太良や、吉田敦彦が、「豊穣さを表す女性を型どった土偶は必ず破壊されており、その破片を統合してもそれだけでは全体を再生できないようになっているが、これは意図的に復元できないようにしているのである」という指摘とも符合しているように思われる。


ワクムスビと五穀


 ここからトヨウケの父とされているワクムスビについて、もう少し詳しく、ハイヌヴォレ型神話との関係を紐解いてみたい。
 オオゲツヒメとウケモチ、そしてワクムスビの類似点、あるいは相違点について述べてきたが、民俗学者の伊藤清司は、オオゲツヒメとウケモチよりも、オオゲツヒメはワクムスビとの相似しているという興味深い説明を述べている。その理由を、オオゲツヒメの神話も、ワクムスビの神話も共に、稲ではなく、焼畑で粟に代表される穀類や豆などを栽培する農作の起源を説明することを主眼としているからであるとしている。
 オオゲツヒメは、その死体から、稲、粟、小豆、麦、大豆を生み出したと記されている。それに対してワクムスビはそのヘソから五穀を生じたとだけあり、その五穀の詳細は記載されていない。しかし、稲、粟、小豆、麦、大豆が、その五穀であったとするならば、オオゲツヒメとワクムスビの結びつきはより強くなるように思われる。

 しかし、大宜津比売神オオゲツヒメノカミの項でも既に説明したように、「稲」は、ニニギが天孫降臨によって後代になって始めて地上にもたらしたものであって、オオゲツヒメは「稲」を生み出したものの、稲を生産する神であるのかどうかについては、分けて考慮されるべきである。ワクムスビについても同様で、生み出した五穀の中に実際には「稲」が含まれていたのかどうかという部分についても、検討を要する余地が存在するだろう。伊藤清司は五穀の定義が大陸においては稲を含まないもの(その種類については是非とも五穀の項を参照して頂きたい)であることを引用して、オオゲツヒメもワクムスビも共に、「粟」を中心とした農耕に関係した神としての存在を表すものとして指摘している。

 そしてこのことは『日本書紀』の中でアマテラスが、陸田種子はたつものを粟・稗・麦・豆であるとし、水田種子たなつものを稲と定めたという記述にも共通していると言える。つまり、稲を地上に導入した天津神以前の、オオゲツヒメもワクムスビも陸田種子によって分類されるタイプの穀物神であり、それ故に、太古から行われてきた農耕である火を用いた焼畑との関係が色濃く感じさせる性質を持っている。つまり水田種子(稲)は高天原からもたらされた特別なものとして取り分けられ、アマテラスのような天津神によって地上にもたらされる穀物でなければならなかったのである。

 ワクムスビが火と関係している穀物神であるとする主張を補強する考えとして『日本書紀』で述べられているワクムスビの出自にも注目することができる。ワクムスビは、火の神カグツチ(火之迦具土)と、土の神ハニヤマヒメ(彌都波能売)との間に生まれたという記述があり、それは「火」と「土」の関係、つまり焼畑という農耕手段を示すものとなっていると言えるだろう。

 ワクムスビとは、このような穀物神としての背景を持った神であり、その延長線上に食物神としての娘のトヨウケが存在している事を理解しておく必要がある。ではここで再びワクムスビの娘としての立場としてのトヨウケに立ち返り、その食物神としての役割に注目してみたい。


御饌神のトヨウケ



 ここまでトヨウケの父神であるワクムスビを見てきたが、この親子神は、穀物、特に、粟、稗、小豆、麦、大豆といった陸の作物と関連が強い神であることが理解いただけたと思う。
 こうした食物神としての役割からか、ワクムスビの娘である豊宇気比売(トヨウケビメ)は、伊勢神宮の外宮に祀られている天照大神の食事を司る豊受大神(トヨウケオオミカミ)と同じ文脈のなかで同じ神として説明されていることが多い。この二柱の神々は同じ神のように語られているが、本当に同じ神であるのか、それとも異なる神なのかについては非常に分かりにくくなっている。なぜならば、伊勢神宮に祀られる豊受大神と、穀物神であるトヨウケとのつながりは明確に『古事記』にも『日本書紀』からも読み取ることが出来ないからである。

 ただ『古事記』には、ニニギが天孫降臨の際に付き従っていた神に関する記述の中で、豊受大御神(トヨウケオオミカミ)へのつながりを感じさせる記述も存在していなくもない。それは『古事記』にある以下の一文である。

【 古事記 上-6 邇邇芸命 】
 次登由宇氣神、此者坐外宮之度相神者也

【 訳文 】
 次に登由宇気とようけ神、此は外宮の度相に座す神ぞ


 しかしこれは唐突で不可解な説明であると言わざるを得無い。
 なぜなら突然にこのトヨウケは『古事記』のこの文脈の中に出てきただけでなく、伊勢神宮(度相)の外宮にいる神であると説明されている。しかし古事記が記されたのは西暦712年であり、伊勢神宮において外宮という表現が使われるようになったのは平安時代中期頃からであるので、まずここに矛盾が存在する。よってこの一文は、外宮に関係した人物が後世に挿入したものではないかと見なされているのである。
 それでも、同じく『古事記』に記述されている登由宇気トヨウケ豊宇気比売トヨウケヒメとの関係については、相互の関係について言及した記述が無いために同じ神であるかどうかは分からない。
 このように伊勢神宮の豊受大神、登由宇気と、さらにはイザナミの神産みで生まれたワクムスビの娘であるトヨウケビメ(豊宇気比売)が同一であるのかについては、はっきりとしたことが言えないのである。(ただこれらの神々をひとつの神とする見方をする場合もある)

 しかし伊勢神宮の外宮の見方は、はっきりしており、豊受トヨウケ大神と『古事記』に登場するトヨウケビメ(豊宇気比売)は、根本的に全く異なる神であるという考え方をしている。
 というのは伊勢神宮の外宮である「豊受大神宮」の縁起において、『古事記』のことは一切触れられておらず、豊受大御神は丹波の真名井から呼び寄せられて、伊勢神宮に祀られたことのみが記されているからである。
 ではなぜ伊勢神宮の外宮は、同じ食物神であるワクムスビの娘のトヨウケビメ(豊宇気比売)と、豊受大御神が異なる神であるとするのか、また御饌の神としてトヨウケがどのようにして伊勢神宮、特に外宮において重要視されるようになったのかを述べておくことにしたい。


豊受大御神トヨウケオオミカミの成立


 豊受大御神は伊勢神宮の外宮の本殿で祀られる主神である。伊勢神宮の外宮は「豊受大神宮」というのがその正式名称である。内宮は天照大御神(アマテラスオオミカミ)が祀られており、それと対をなすようにして外宮では豊受大神(トヨウケオオミカミ)として祀られている。
 しかし実際にはこのトヨウケは『日本書紀』に登場するどころか、その名前さえも記載されていない。また古事記』においても大した事績が記されていない女神である。ではどうして、この女神が突然に重要視されるようになっていったのだろうか。それはトヨウケが伊勢に祀られるようになった経緯に理由がある。

 伊勢神宮外宮の社伝である『止由気宮儀式帳』では、トヨウケが伊勢神宮の外宮に祀られるようになった理由を以下のように記している。

【 止由気宮儀式帳 】
 天照坐皇大神、始巻向玉城宮(垂仁)御宇天皇御世、國國處處大宮處求賜時、度會(乃)宇治(乃)伊須須(乃)河上(爾)大宮供奉。爾時、大長谷天皇(雄略)御夢(爾)誨覺賜(久)、吾高天原坐(弖)見(志)眞岐賜(志)處(爾)志都眞利坐(奴)。然吾一所耳坐(波)甚苦。加以大御饌(毛)安不聞食坐故(爾)、丹波國比治(乃)眞奈井(爾)坐我御饌都神、等由氣大神(乎)、我許欲(止)誨覺奉(支)。
 爾時、天皇驚悟賜(弖)、即従丹波國令行幸(弖)、度會(乃)山田原(乃)下石根(爾)宮柱太知立、高天原(爾)比疑高知(弖)、宮定齋仕奉始(支)。是以、御饌殿造奉(弖)天照坐皇大神(乃)朝(乃)大御饌夕(乃)大御饌(乎)日別供奉。

【 訳文 】
 垂仁天皇の御世に天照大神は漂泊の後、度會の宇治の五十鈴の河上に鎮座されたが、雄略天皇の夢に現れて「自らのみ鎮座するのは耐え難くつらいし、食事をするのも容易ではないから、丹波の比治の真奈井に鎮座している御饌都神、等由氣大神を我が許に呼ぶように」と宣われた。
 雄略天皇は驚き、丹波の国から等由氣大神をお呼びし、度會の山田原に宮を建てた。このようにして、御饌殿を造り、天照大神の朝夕の日ごとの大御饌を作り供え奉ったのである。


 雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、御饌の神であるトヨウケを近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったという経緯が記載されている。つまりアマテラスの要望によりトヨウケは丹波から伊勢神宮に移動させられ、外宮に祀られ、主要な神として格上げされることになったのである。


豊受トヨウケが重要視された根拠


 鎌倉時代・室町時代になると、外宮の豊受大神宮で神職を務めていた、度会家行(わたらい いえゆき)が伊勢神道(度会神道)を確立してゆく。
 この中世の時代、伊勢神道を奉じる外宮の神官たちが『神道五部書』を根拠に、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同じ神であって、この世に最初に現れた始源神であるため、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上であると主張し始めるようになる。つまりアマテラスよりも、トヨウケは神格の高い神であり、よって外宮は内宮よりも格式が高いという主張である。

 ではその根拠となる『神道五部書』とは一体どのような書物だったのだろうか。かつて『神道五部書』は、禁河の書、つまり極秘の書として扱われ、持ち出すことも、あるいは六十歳以下の者が『神道五部書』とそれに関連した書物を読むことも禁じられていた。つまりごく一部の人にだけ許された極秘の知識であったという訳である。

 『神道五部書』は以下の5つである。
 ①『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記・次第記)
 ②『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記・伝記)
 ③『豊受皇太神御鎮座本紀』(御鎮座本紀・本紀)
 ④『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
 ⑤『倭姫命世記』

 実際に『神道五部書』のひとつである『豊受皇太神御鎮座本紀』には、「豊」は、天之御中主神の本当の名前であり、「受」は、国之常立神の尊んで呼ぶ名前である。よって豊受とは、この二柱の神の名前の総称であると述べている。
 先に「ウケ」とは、食物のことを示し、よってトヨウケとは食物神のことであると述べたが、伊勢神道は神格を上げるために、ウケの部分を国之常立神と結びつける極端でトリッキーな解釈と主張をでもって内宮に対抗しようとし始めたのである。

 こうした主張の根源は、伊勢神宮における内宮と外宮の関係性にある。豊受大御神を祀る外宮の神官を世襲的していた度会氏は、豊受大御神が、単なる御饌を司る神としてではなく、むしろ天照大御神よりも高い神格を有する神とすることにより、度会氏の立場をより有利なものとしたいうという意図があった。そのために作り上げられたのが『神道五部書』である。では『神道五部書』がどのような書であったのかについてもその詳細に目を向けておきたい。


『神道五部書』の正確性について

 ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』では中世の修道院の中に秘匿されてきた書物が描かれていたが、それと同じように、中世の日本(伊勢神宮)でも『神道五部書』のような秘文書が存在し、それを読むことはかなり制限されていたのは先に述べた通りである。しかし現代では、どんな人でも望めば公開されているそれらの全ての書を読むことが可能になっている。そして神学の分野ではこれらの書に対する研究が江戸時代から行われてきた。

 そうした研究を通して、『神道五部書』は、始めに④の宝基本記が書かれ、その後に⑤の倭姫命世記が書かれたこと。そしてこの二書を参考にして②の御鎮座伝記が書かれ、更に、御鎮座伝記を基にして、残りの二書の①次第記、③の本紀が成立したということが明らかになった。

 またこれらの書は、相互の書物での記述を参照して書かれている為に、転用重複部分が多く、鎌倉時代の前期頃は、後から出された①②③を『三部書』と云っていたが、鎌倉時代の後期になると④⑤の書を加え全体として『神道五部書』と呼ばれるようになった。
 先に挙げた『豊受皇太神御鎮座本紀』もそうだが、これらの書は、飛鳥時代に成立した書であるかの説明書き、あるいは奥付があるが、実際には鎌倉時代になって成立した書であり、そういう意味においてもこれらは偽撰の書である。
 実際に『神道五部書』は、研究が進んだ江戸の中期以後、特に偽書として糾弾されるようになる。これらは昔に書かれたように装ってはいるが、その内容は後世に出された『古事記』,『日本書紀』や『皇大神宮儀式帳』,『延喜式』,『古語拾遺』といった古文献から書き写した箇所の寄せ集めであることが分かってきたからである。『神道五部書』は飛鳥時代に成立したことをその書自身のなかで述べているが、実際には、後代の奈良時代に書かれたこれらの書が引用されていることでパラドックスが生じている。このように内容の面においても『神道五部書』が後世に書かれた偽書であることが明かされていったのである。
 以下、『神道五部書』が江戸時代以降にどのように批判されるようになったかを、ひとりひとりの学者名を挙げて述べておきたい。


天野信景あまのさだかげ (1663〜1733)

 天野信景は尾張藩士の江戸時代中期の国学者であった。博覧強記の人物であったとされている天野信景は、その後の本居宣長や伴信友、平田篤胤などに強い影響を与えた人物であった。その著書である随筆の『塩尻』において、彼は早期から『神道五部書』は偽書であると述べている。
 天野信景は国典を伊勢神道の再興者とされる度会延佳(わたらい のぶよし)から譲られたとされており、その中に『神道五部書』も含まれていたと思われる。よってそれを読んだうえで偽書である判断したのではないだろうか。実際にそうであれば外宮の渡会氏が自ら首を絞めたことになるので、何とも皮肉な話ではある。


吉見幸和よしみゆきかず (1673〜1761)

 名古屋東照宮祠官の吉見幸和は『五部書説辨』を著し、『神道五部書』が偽書である事を暴いた人物であった。『五部書説辨』には「古語拾遺ノ文多ク盗取ルコト五部書皆同ジ」あるいは「五部書ノ文飾ニシテ欺瞞多コトヲ知ルベシ」と述べてあり『神道五部書』は偽書であると批判している。
 この批判に対して外宮側は大いに怒ったそうであるが、吉見幸和は名古屋東照宮の祠官である。つまり背後には、徳川御三家の尾張が控えているので泣き寝入りとなり、外宮は狼狽し面目を失ったと『類聚伝記大日本史. 第八卷』には記されている。


御巫清直みかんなぎきよなお (1812〜1894)

 幕末・明治の神道家で、神宮の禰宜でもあった、御巫清直が著した『太神宮本紀帰正鈔だいじんぐうほんぎきせいしょう』で、「太神宮本記ノ散片ヲ得テ、前後ヲ潤色シ、倭姫命世記ト偽作シヌラムトソ思ハルル」あるいは「信従スルニ足ラズ」と述べており、『神道五部書』は後代に作られた偽書であると述べている。しかし御巫清直は伊勢神宮の外宮の方の神職であったことを考えると、結果的に自らの神宮の権威のよりどころとされていた『神道五部書』を皮肉にも内部から否定したことになる。
 もしかすると、ここには世襲的に外宮の神職を務めてきた渡会氏との何らかの確執が、外宮の内部には存在していたのかもしれず、その権力を解体するために『神道五部書』批判は行われたのかもしれない。


現代の『神道五部書』の評価

 現代では『神道五部書』は偽書であるというのが定説となっている。岩波大系本の解説においても『神道五部書』は偽書であることが次のように述べられている。

【 第二部 研究・受容の沿革(日本古典文学大系「岩波」より抜粋)】
 中世に入って、大陸思想を付会した伊勢神道・吉田神道・山王一実神道・唯一神道等の神道教義がはじめて成立し、神道五部書等の「神典」が新しく偽作されると同時に、『書紀』もまた神典として尊重されるようになるのであった。とくに神代紀がほかの諸巻とは格別の取り扱いを受け、注釈書が数多く出現したが、すべて空理空論で埋められており、『書紀』の学問的研究のために、今日読むに値するものはないと云っても過言ではない。


 ここでも『神道五部書』は偽書であり、学問的研究のために、今日読むに値するものはないと述べている。実際にこれらの書は、内宮に対して格下となる外宮の神職を務めてきた渡会わたらい氏が捏造したものだからである。
 鎌倉時代に、伊勢神宮の外宮から伊勢神道が確立されてゆくが、その過程のなかで、度会行忠わたらいゆきただ(1236年 - 1306年)がこれらの神道五部書を執筆し、その後、度会家行わたらいいえゆきが、度会神道、あるいは伊勢神道と呼ばれる中世的な神道を確立したのである。

 なぜ度会氏が、こうした偽書を作り、それに基づく神道教義を体系化していったのか。その理由は、伊勢神宮の内宮の祠官は明治時代まで荒木田氏によって世襲されてきたのに対して、外宮の祠官は明治時代まで度会氏によって世襲され、内宮と外宮における優位性が常に議論されてきたところにある。伊勢神宮では天照大神を祀る内宮に対して、豊受(トヨウケ)を主神とするのが外宮である。しかし『古事記』や『日本書紀』の双方の神々の事績を見ると、圧倒的にアマテラスの方が上位にある神として描かれており、豊受(トヨウケ)に関する記述はほとんど無い。トヨウケは、アマテラスの為の食事を準備する神としてしか捉えられておらず、明らかに格下の神として見られているのである。
 こうした現状に対しての不満から、度会氏は内宮の荒木田氏に対抗する為に、トヨウケの神格を高め、アマテラスよりも上位に存在する神であること示そうとした。その為に、『神道五部書』を作成し、奈良時代に書かれた古書(実際は鎌倉時代になって執筆された)であるように装うことで、伊勢神道・渡会神道を正当化しようとしたのである。このように中世において発展を遂げた伊勢神道の目的は、内宮に対して、外宮が内宮より優位な立場を得ることに他ならない。そしてその為に『神道五部書』を作成し、それを根拠にトヨウケは、アマテラスよりも先に存在した、天之御中主神と同神であり、外宮こそが内宮よりも立場が上であると主張したのである。

 少し脱線するが、かつて平安時代に内膳部で料理を司っていた高橋氏と、安曇氏が、祭祀の際にどちらが先に並ぶべきかということから、大きな論争に発展し、偽の氏文によって互いの格式や、その正当性が激しく争われたことを述べた。(包丁人)

 それと似た状況が、伊勢神宮の内宮と外宮の間でも起きている。
 『皇字沙汰文』によると、1296年(永仁4年)に伊勢国員弁郡石河の御厨から年貢米が送られてこなったことを受け、伊勢神宮が2月11日に訴状を提出した事が述べられている。しかし、その両宮の禰宜の出した注進書に、外宮は「豊受皇太神宮」と署名を行っている。 今までは内宮だけが「皇太神宮」として「皇」の字を用い、外宮は「豊受大神宮」として「皇」の字を用いてこなかったのであるが、その時には外宮は「皇」の字を入れ「豊受皇太神宮」として文書を提出してきたことに内宮側は大いに不満を示す。数日後になってその事に気付いた内宮は「皇」の字は使わないようにと2月15日の文書で外宮に撤回を申し入れるが、それに外宮側は反論し、その根拠として『神道五部書』の存在が明かされることになったのである。その後も論争は続き、内宮と外宮の神官たちによって互いの不備を批判し合うネガティブキャンペーンという事態にへと発展してゆく。

 こうした些細なことが、大きな論争に発展して行く様は非常に興味深い。こうした小さな表面上のいざこざは、実は氷山の一角のようなものであり、実はその水面下にこそ大きな権力・利権の問題が潜んでおり、問題の本質は正にそこに存在しているからである。
 さて1296年ということは、度会行忠が外宮の禰宜を務めていた時代で、実際に『皇字沙汰文』で、提出された文書を見ると彼の名前が記されている。この論争が始まる前に度会行忠は『神道五部書』を執筆し、こうした根拠としての偽書でもって体系的な論理武装した上で、意図的に「豊受太神宮」という内宮にしか許されない皇の字を名乗ることで、自分たちの優位性を主張し、内宮の上に立とうとしたものと考えられる。


戦国時代の内宮と外宮の対立

 その後も内宮と外宮の確執は激しくなり対立を深めてゆく。『宇治山田市史. 下巻』には、応仁の乱以降の戦後時代に突入すると「宇治山田の合戦」という内宮と外宮との対立が引き起こした争いによって多くの犠牲が出ることになった経緯が記載されている。

 その対立の原因は些細なことで、内宮側が「こちらには美しい五十鈴川が流れている」と言えば、外宮側は「こちらにも宮川がある」と言い返す。
 また外宮は内宮への道を塞いで、内宮には参拝者を通さず、関所の通行料を外宮だけの造営費にしたとか、あるいは荒木田にも度会にも属さない異姓の神役人が、内宮側の家に禁止されている破風をつけていると外宮側が言いがかりをつけたり、外宮の案内人が内宮の一の鳥居内まで案内するのは借越であるとして喧嘩になり、外宮の案内人の2人が殺害されるという事件から大きな争いに発展している。

 この争いは更に激化して、本格的な合戦になり、互いに火をかけて内宮、および外宮とも火災により神殿が焼け落ちたり、死者を出したりする程、その対立は非常に激しいものであった。



御饌はどのように供されてきたのか


 さて本来、トヨウケの役割である、神饌を司どるという役割は、どのように行われてきたのだろうか。まずはその祭祀がどのようなものであったのかを明らかにするところから、その本質を紐解いてみることにしたい。

 伊勢神宮では日別朝夕大御饌祭ひごとあさゆうおおみけさいという祭祀が毎日行われている。これは別名で常典御饌じょうてんみけとも呼ばれる祭祀である。
 伊勢神宮の外宮では、朝と夕の二度、外宮の御饌殿で御飯、御水、御塩などをアマテラスに捧げることが1500年間に渡って行われ続けてきた。


 日別朝夕大御饌祭は、禰宜1名、権禰宜1名、宮掌1名、出仕2名によって、毎日、朝と夕の二度行われている。
 早朝、前夜から斎館に籠り潔斎し身を清めた神職によって神饌は調理される。その神饌が調理されるのは、外宮内にある忌火屋殿に於いてである。神に奉る神饌は特別におこした火で調理されなければならない事になっており、その火は清浄な火という意味で忌火と呼ばれている。
 忌火は神職が古代さながらに、ヤマビワの木の棒で作られた火鑚具ひきりぐを用いておこされ、御水は外宮神域内にある上御井神社から毎日汲んで供えられている。


御飯おんいい


 この火と水を用いて神饌は調理される。飯は神宮の神田で作られた米である。これを煙突もない古式の竃で、甑(こしき)をかけてお米を蒸して強飯にする。蒸しあがったお米はカワラケという素焼きの土の皿に盛られるが、このカワラケの上には、トクラベという木の葉を敷くことになっている。トクラベは和名をミミズバイと言い、ハイノキ科の常緑高木で、一年中いつでも入手しやすい常緑の葉である。葉は土器のサイズに合せて適宜に切って用いられ、2枚をカワラケの上に敷き、その上に御飯が盛られる。


御水みもい


 御水は外宮神域内にある上御井神社から毎日汲まれることに定められている。神職は毎朝、上御井から桶1杯分の水を汲み上げるが、御井に自分の姿を映してはならないと言い伝えられてきたため、神職が覆屋の御扉の鍵を開け、片側の御扉のみを開けた状態で柄の長い柄杓を用いて手桶に水を汲む。

 『止由気宮儀式帳』には「御井二所」という記述があり、これが上御井と下御井を表すものと思われる。『風雅和歌集』には度会延誠わたらいのぶとも

  「世々を経て 汲むとも尽きじ 久方の
          天より移す をしほ井の水」

という短歌があり、この「をしほ井の水」(忍穂井の水)というのは上御井かみのみいの水のことである。上御井は伊勢神宮の外宮のなかにあり、ここで神饌のための水が毎日汲まれている。
 ここに「天より移す」とあるのは、外宮の度会氏の遠祖が高天原から日向国高千穂峰に持ち下った水と繋がっているからであるとされている。つまりこの歌は「天から移した上御井は尽きることがない」ということを詠っているのである。

 外宮の神官は度会氏が明治時代まで世襲で務めてきたが、その度会氏は「水」との関連が非常に深いと考えられてきた。なぜなら『先代旧事本紀』には、度会氏は、天孫降臨の際にニニギに付き従って降りてきた32柱の神々のなかの天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)という神の子孫であるとされおり、この天牟羅雲命が、高天原より水を地上にもたらしたとされているからである。『神宮雑例集』所載「大同本記」はその謂れについて次のように述べている。

『神宮雑例集』
 降臨に際して皇孫命(すめみまのみこと)は、度会神主の先祖=天牟羅雲命(天村雲命)を召して詔した。「治める国(食国(おすくに))の水は熟していず、荒い水である。また水も忘れてきてしまった。だから御祖命(みおやのみこと)のもとに参ってこの由を申せ」。
 そこで天牟羅雲命は御祖命の所に上り、詳しく事の次第を述べた。すると御祖命は詔した。 「さまざまの政(まつりごと)を天下に伝えたが、水取(もいと)りの政は、逸してしまった。どの神を下そうかと思っていたところ、勇ましくもやってきたことだよ。忍穂井の水を取り持ってゆき、八盛(やもり)に盛って奉れ。その残りを食国の水に灌(そそ)ぎ、和らげよ。また降臨にお伴する八十人の従者たちにも、この水を飲ませよ」。こう詔して、神は神宝(かんだから)と清らかな水を授けた。
 天牟羅雲命が水を持参して奉ると、皇孫命は「どの道より参ったか」と尋ねた。そこで 「大橋は、皇太神と皇孫命が天降りする橋なのではばかり、後ろの小橋より参上しました」 と申しあげた。すると皇孫命は、「慎しみを示して、後ろで奉仕したのはすばらしい」と言って、天牟羅雲命に「天二登命(あめのふたのぼりのみこと)」、「後小橋命(うしろのこはしのみこと)」という名をお与えになった。
 かの朝夕の御饌に供える御水は、豊受大神宮(=外宮)の未申の方角に当たる岡に御井を掘り、汲んで供奉する。その水は旱魃にも涸れることはない。


 このように、『先代旧事本紀』で、度会氏の先祖とされている天牟羅雲命が、水を高千穂にもたらしたという経緯の説明が語られている。その後、この水は丹波国天の真名井に移され、豊受大神の伊勢国への鎮座に伴い、一緒に移ってきたという伝承へと繋がってゆく。そしてその水こそが上御井神社で汲まれる水なのである。


豊受と水と度会

 ここまで見ると「水」を軸とした、外宮における豊受と度会の結びつきと縁起に頷かされるところなのであるが、実は話はそう単純では無い。

 神話学者の山本ひろ子は、その著書『中世神道』のなかで、この下りに関して大変興味深い言及をしている。山本ひろ子は「屹立する水の神」という章で、度会氏がなぜ「水」という要素に接近し、一族の歴史と水との関連を強調しようとしていたのかについて説明を述べている。
 先にも述べたように、外宮の度会氏は、中世になると伊勢神道を確立して、豊受は、天之御中主神と同神であると主張し始める。その天之御中主神らは、この地の開闢(かいびゃく。世界の始まり。天地の開け始め。)について語られるなかで登場する神であり、そこではまだ何も生み出されて無い、水に覆われているイメージだけが存在する状態である。
 天照大神を太陽の神とするならば、それに対して豊受は水の神という相対する要素を獲得し、度会氏はそれによって豊受は天之御中主神と同格あるいはそれ以上の神格を持つ神であると主張しようとしたのである。つまりこうした過程においては、水との結びつきは、その後の論理展開において非常に重要な要素となったに違い無い。

 よって『先代旧事本紀』の中でのみ記されている、高天原から天牟羅雲命が水を地上にもたらし、その子孫が度会一族であるという部分は、豊受=天之御中主神という結びつきを主張する上においては重要な要素になってくる。

 しかし、山本ひろ子は、その関係性についても疑問視している。何故ならば『先代旧事本紀』 に記されている、天牟羅雲命→度会一族という繋がりは、後から挿入された可能性があるからである。

 『先代旧事本紀』の序文には「大臣蘇我馬子宿禰等が勅を奉じて修撰したものであり、この『先代旧事本紀』聖徳太子が且つて撰された所のものである」と記されている。しかし、後世の学者たち(御巫清直、伊勢貞丈など)はいずれも、この部分は事実ではなく、よって『先代旧事本紀』は偽書ではないかという見方をしている。つまり、もともと信憑性を問われている書である。そこにさらに天牟羅雲命についての部分も後に書き足したか、あるいは改竄された可能性があるという指摘である。
 その事を、山本ひろ子は『中世神道』のなかで次のように説明する。

『中世神道』 山本ひろ子
 天牟羅雲命を「度会神主の祖」とし、供奉神の一人とするのは『先代旧事本紀』の伝本のうち、伊勢本系(また伊勢神道)のみがもつもので、他の伝本には記載がない。つまり度会氏によって改竄・挿入された可能性が高いのである。
 江戸時代には「天牟羅雲命=度会神主の祖」の記事をもつ出口延佳のぶよし本が流布した。出口延佳(本姓:度会。1615−1690年)は外宮神官で、江戸時代前期を代表する神学者である。内宮神官・薗田守良(本姓:荒木田。1785–1840年)は、もとは「額田部宿禰祖....」とあったのを、出口延佳が削って書き改めたものと論難している(『神宮典略』)。
 このように度会氏は、「天牟羅雲命」という神名を古典から目的意識的に取り出して、『先代旧事本紀』の本文を操作し、系図に挿入して遠祖に仕立てた。おそらくそれは、この神が水にちなむ名称をもっていたからであろう。


 ここで指摘されているように『先代旧事本紀』は、伊勢系の写本にだけ、天牟羅雲命が度会の祖という記述が存在する。つまりこれは後世に水との関連性を強調するために度会延佳が改竄したものであると見なすべきであろう。しかもその改竄を、内宮の神職を務める荒木田(薗田守良)が暴いているのも興味深い。
 実際に現在、国立国会図書館でデジタル公開されている江戸時代に記された『先代旧事本紀』を見ると確かに不自然な記載となっているのが分かる。

『先代旧事本紀』 編纂者不明 [寛永21 (1644) 出版]
 赤字で、天牟羅雲命と、度会神主の祖が書き加えられている。

『先代旧事本紀』 出版社:前川茂右衛門 [寛永21 (1644) 出版]
 赤字で、天牟羅雲命と、度会神主の祖が書き加えられている。

『難註先代旧事本紀』 著者:寂顕 [正確な写本作成年不明、18世紀]
 写本であり、天牟羅雲命と、それが度会神主の祖であることが書かれている。またそこには他の32神には無い多めの注釈が書かれており、天牟羅雲命は香具山命の子であり、おそらくは32神に列せられていないことや、天牟羅雲命が度会の祖であることを、先に改竄したと指摘した度会延佳(出口延佳)[1615~1690]がこれらの事を挙げたと、注釈している著者の日初寂顕[1701-1770]は記してある。

 度会氏が、中世の伊勢神道を通して確立しようとされてきた豊受=天之御中主神という主張の故に、「御水」もまた、それに関係する重要な要素であるとして、それに纏わるあらゆる部分にも、曲解や改竄が加えられてきたことが分かってくる。
 こうなってくると、天之御中主神が水徳の神であり、それ故に度会の第一祖としたことや、水とのつながりを強めるために天牟羅雲命を度会神主の祖であるとした改竄も、結局は、山本ひろ子が指摘した「豊受大神をなかだちとした、水への原始の希求という神話的思考に他ならない」という見解の通りであると言えるだろう。

 このように実質的には繋がっていなくても、伊勢神宮:外宮(度会氏)の水に対する強い意識と、様々な見解や改竄を行ってまでも、あくまでもそこに繋がろうとする意思は、伊勢神宮における度会氏の立場や権威付けにおいて、その勢力を強める為には非常に重要な要素であったからに違いない。単に「御水」と言ってもその根本に存在する意味付けは非常に根深いのである。


御塩みしお


 御塩は古代の製法そのままに、五十鈴川の河口近くの二見町にある御塩殿(みしおでん) で作られる。この場所は倭姫命が定めたと伝えられている。現在でも古式の入浜式塩田が続けられており、その工程は、①採鹹作業、②荒塩作り、③御塩焼固の三つからなる。

採鹹さいかん作業

毎年7月下旬から8月上旬の土用頃、御塩浜で鹹水と呼ばれる高濃度の塩水を塩田から1週間かけて採取。

荒塩作り

鹹水は御塩汲入所に運ばれ、すぐ隣にある御塩焼所において鉄の平釜で炊き上げて荒塩にする。

御塩焼固みしおやきがため

毎年10月5日に御塩殿神社において御塩殿祭が行われ、その後5日間にわたって焼固が行われる。荒塩は御塩殿で三角錐の土器につめて焼き固め、堅塩に仕上げられる。 御塩焼固は10月と3月の2回行われる。


御贄みにえ


 延暦年間(782〜806)に記された『止由気宮儀式帳とゆけのみやぎしきちょう』に、御饌は、先に述べた御飯、御塩、御水の3品が基本であるとし、これを御物おものと言うとある。これに加えて「時に御贄を供える」とある。御贄とは上記3品ではない、他の食材による神饌である。ここで言う、時に、というのは節旬など特別な日のことで、正月7日は新蔬菜羹(わかなのあつもの)、同15日は御粥、3月3日は新草餅(はつくさもち)、5月5日は菖蒲御饌といって香魚(アユ)が供えられていた。
 現代の御饌においては、御贄は特別な日だけでなく、毎日供えられていて、それには鰹節、魚、海草、野菜、果物が含まれる。以下、御贄として奉られてる食材の幾つかを挙げておく。


野菜類

 野菜と果物は、かつては三重県度会郡であったが、現在は合併統合されて伊勢市となっている二見町にある神宮御園(みその)で、白衣を着げて身を清めた神宮職員が栽培したものが捧げられる。


あわび

 アワビは朝廷や神宮で非常に重要な神饌とされている。伊勢神宮で用いられるアワビは2000年前からずっと、鳥羽市国崎(くざき)から供進されることになっている。
 鰒は生アワビ、乾アワビに加えて、加工された熨斗鰒が用いられる。これらのアワビは国崎にある伊勢神宮御料鰒調製所で作られる。
 使用するアワビの種類は身質の柔らかいメガイアワビ・マダカアワビが適しているとされているが、マダカアワビは収穫量が減っており。現在ではメガイアワビが主として調進されている。加工は毎年6月から8月にかけて行われ、一回に使われる鮑は200kg、年間約4000~4500個の生アワビが加工されている。

 熨斗鰒の作りかたは、まずは殻・腸(わた)や触手部分(ミミ)等を除外する。むき身になったアワビを、熨斗刀 と呼ばれる半月状の包丁で身を剥く五mmほどの一定の厚みで、切れないように両剥き(二ジョウ剥きとも言う)という方法で、3〜4mの長さに桂剥(かつらむ)きにする。薄く紐状になった身を、棹に懸けて吊し干しにし、自重で引き伸ばす。こうして乾燥するとアワビは半透明の飴色となり干した形のまま固くなる。
 奉納の二週間前に水戻しして竹筒でコロ調製をして平らにして、それを小口切りにする。それから熨斗鰒を献上するために以下の3つの種類に加工することが『国崎神戸誌』には記されている。


大身取鰒おおみとりあわび

 長さ4寸五分 幅、八分
 紐状になった乾燥アワビの、幅広となる中央部。片連十枚、双連で二十枚をまとめたもの。


小身取鰒こみとりあわび

 長さ四寸五分 幅、四分
 乾燥アワビの外側の細い箇所。片連三枚と二枚、合わせて五枚を藁紐で綴って一連としてもの。

玉貫鰒たまぬきあわび<

 長さ二寸五分 幅、三分
 乾燥アワビの両端部付近の部分。編んだ藁紐に片連十二枚、 双連で二十四枚を格子状に横にはさんで一連としたもの。

神宮御饌料熨斗鰒ノ図 『国崎神戸誌』より
左から、玉貫鰒、小身取鰒、大身取鰒


 現在、伊勢神宮では年間、生アワビは1380貝、乾アワビは238貝、 大小身取鰒は1047連、玉貫鰒は336連が供えられている。このようにアワビは祭祀における主要な産物となっているのである。


御贄鯛おんべたい

 篠島にある中手島なかてじま伊勢神宮御贄干鯛調製所いせじんぐみにえひだいちょうせいしょで、干鯛がつくられて伊勢神宮に納められている。この干鯛のことは御贄鯛と呼ばれている。

 篠島は愛知県の知多半島の先端の先に位置する島である。もともと篠島は、中手島、小磯島と3島に分かれていたが、1976年に埋め立てられて篠島本島と陸続きになった。干鯛調製所は島の北部に位置する中手島にある。

 篠島の鯛が伊勢神宮に奉じられるようになったのには謂れがある。伊勢神宮に天照大神を祀った倭姫命ヤマトヒメノミコトが、篠島に立ち寄った際、この地で獲れる鯛をとても気に入り、御贄所おんにえどころ(伊勢神宮に食べ物を奉納するよう指示された場所)と定められ、伊勢神宮に奉納することになったという伝承がそれである。また1192年に荒木田忠仲によって書かれた『皇太神宮年中行事』には「篠嶋御賛. 干鯛四十二隻」の記述があり、この当時から篠島から鯛が収められていたことが分かる。いつから献上されていたのかは定かではないようだが、1000年以上は前から行われていたものと考えられている。

 鯛は、中手島の調製所で塩漬けに加工される。この島は伊勢神宮が所有・管理しており、鯛の加工に使われる包丁や、加工の際に身に纏う白装束は、すべて伊勢神宮から贈られたものが用いられる。
 神様へお供えする鯛であることから、極力血が流れないようにするため素早く鯛は絞められ、すぐに冷たい海水に漬けられる。中手島の海岸で鯛の臓物をきれいに取り除き、海水で洗われる。海水で身を洗った鯛にはいっぱいの塩を塗り込み、樽に詰め込んで重しを乗せ、中手島に建てられた保管所でおよそ10日間、静かに寝かせられる。樽から出した鯛は再び海岸に運ばれ海水で塩を落とす。これを天日で2日干した物が「おんべ鯛」として伊勢神宮に奉納される。

 伊勢神宮で行われる10月の神嘗祭と6・12月の月次祭には、篠島から調進される干鯛「御贄鯛(おんべ鯛)」がお供えされることになっている。
 篠島は年間508匹の干鯛(おんべ鯛)が作られている。
 毎年10月12日になると、篠島中手島の御贄干鯛調製所から運び出された干鯛は「太一御用」の旗をかかげた奉納船団6隻によって伊勢神宮へ奉納される。太一たいいつとは伊勢神宮・内宮の天照大御神のことで、北極星をも意味する名称である。


日別朝夕大御饌祭ひごとあさゆうおおみけさいの手順


 毎日、「朝御饌(あさみけ)」は朝8時に神事が開始され、「夕御饌(ゆうみけ)」の神事は夕方16時に執り行われている。ただし冬季は日の入りと日没の時間帯が短くなるため、「朝御饌」は朝9時から開始、「夕御饌」は夕方15時に執り行われる。

 神饌として供する品目は決められており、御飯三盛、鰹節、魚、海草、野菜、果物、御塩、御水、御酒三献。それに御箸が添えられてる。これらは忌火屋殿で準備され、調理には1時間半ほどを要する。

日別朝夕大御饌祭の御饌

 こうして準備された神饌は、忌火屋殿の祓所で辛櫃に納められ、御塩を振りかけて清められた後、同じ外宮にある御饌殿に運ばれることになる。神饌は御饌殿の中で天照大御神、豊受大神、そして両宮の祭神に供えられる。禰宜が御饌殿の前で祝詞を奏上し、このようにして日別朝夕大御饌祭は執り行われているのである。

日別朝夕大御饌祭の御饌の供え方
数字はお供えする順序

 御饌殿のなかでは、上記の図の配列で順番に、まずは天照大御神から並べて供えられる。一通り供えられると、今度は豊受大神のために同じ手順が繰り返される。そして最後に両宮の祭神へのお供えが、また同じ手順で行われる。
 お供えが終わると、今度は禰宜によって祝詞が奏上される。その内容は豊受大御神が天照大御神の食事を司るために伊勢に来る事になった由来から、皇室の安泰、国家の繁栄、五穀の豊かな実りについての祈りである。一回の御饌を供えて祝詞を奏上するのには40分ほどの儀式となっているが、食事を供えるのにも時間を要するので、前の準備を含めると毎日5時間程を要する儀式となっている。

 こうした祭祀は1500年続けられてきたが、御巫清直が記した『御饌殿事類抄』の「御飯」の項などをみると、かつて御飯は天照大御神、豊受大神にはそれぞれ8つ供されていたことが分かる。しかし、現代では神饌の量はかなり少なくなっていて、それぞれ3つの御飯だけが供されてるようになっている。
 明治時代に行われた神祇制度の改革によって、調理方法やお供えの方法などが大きく変わり古い姿は消えてしまったとされている。 例えば、それまで魚は干物だけが使われていたが、明治時代以降は生の魚(生鯛)も供えるようになっている。。
 こうした御饌の在り方も、制度の改革や時代によって様変わりしてしまったのかもしれない。しかしその祭祀の本質は絶える事なく今でも続けられていると言える。


由貴大御饌ゆきのおおみけ



 由貴大御饌とは、1年に3度の大祭である神嘗祭と6 月・12 月の月次祭のお祭りの際に準備される食事である。由貴とは最高に貴いという意味であり、1年のなかでも特別な日である。

 午後10時の由貴夕大御饌(ゆきのゆうべのおおみけ)と、午前2 時の由貴朝大御饌(ゆきのあしたのおおみけ)と2回行われ、いずれも深夜であり公開されていないので神職しか見ることは出来ない。

 その様子について、伊勢神宮の禰宜だった矢野憲一は『伊勢神宮の神饌』の中で以下のように記している。

【 伊勢神宮の神饌 】 矢野憲一
 祭典は奉仕者一同があやまちなくご奉仕できるようにと祈ることからはじまり、奉仕する神職が罪穢(つみけがれ)なく神の御心にかなうかどうか占う御卜(みうら)の神事があり、神饌は祭典の2日前からお調理がはじまる。奉仕者は祭主、大宮司はじめ40数名が純白の装束で、松明に照らされてアワビを代表とする神饌、約30品目をお供えする。
 闇の中には楽師がかなでる音楽が静かに流れ、庭火がほのかにゆらめく。広い御垣の内はびっしりと白石が敷かれている。御正殿は闇の中に荘厳に大きく、その御前にはヒノキ造りの素木(しらき)の案(あん)とよぶ机がすえられ左右に一対の燈火がともされる。純白の斎服を着た禰宜4人が進み、まず御箸、御飯、御餅、鰒(アワビ)、鯛、伊勢海老、サザエ、アユ、カツオ節、干鮫(サメのタレ)、海参(イリコ)、野鳥、水鳥、昆布、紫海苔、胡蘿蔔(コラフク=人参)、大根、柿、梨などと野菜・果物など海川山野の30種の品々、そして白酒(しろき)、黒酒(くろき)、醴酒(れいしゅ)、清酒の4種類の神酒もお供えされる。そこで大宮司が祝詞、全員が八度拝、さらに二献、三献の神酒と続くのである。


 このような手順で由貴大御饌は行われると記されている。供される御饌の数も、日別朝夕大御饌祭と比べてかなり多く約30品目になっている。

由貴大御饌の供え方

 内訳をみてゆくと興味深いことに、さすがに四つ足の獣は含まれてはいないが、それでも野鳥や、水鳥、乾鮫などの肉も含まれていることが分かる。中世においては仏教と神道の融合が進むことになったが、お供え物においては、精進料理のように肉を廃したものではなく、鳥肉や、鮫肉が供えられていることには注目すべき点であると思われる。  鮫肉に関してであるが、記録によっては、乾鮫の代わりに「さめのたれ」と表記されている場合がある。これは鮫の干物のことで、昔は塩味の鮫の干物を神饌に用いていたようである。今では味醂味の鮫の干物も加わっているようで、伊勢では単にこれを「さめ」とだけ呼んでいる。
 804年に書かれた『止由気宮儀式帳』を見ると、神饌のなかには何度も鶏の雄雌2羽が供されている。大和朝廷の誕生から奈良時代にかけて、日本人には鶏の鳴き声は「カケ」と聞こえていたようで、鶏の古名は「カケ」であった。『止由気宮儀式帳』のフリガナを確認すると確かにカケと書かれている。

 天武4年(675年)4月17日に、天武天皇によって最初の肉食禁止令が発布されてから、日本は、一応ではあるが表立っては、明治4年(1871年)12月17日に禁が解かれるまで、実に1200年間、肉食を忌避する文化にあったと言えるだろう。
 それでも由貴大御饌のお供えもの詳細を見てゆくと、必ずしも肉食が全面的に行われていなかったと言えるのではないだろうか。伊勢神宮だけでなく、全国にある神社のなかでも御饌に肉をお供えするところは少なくない。

 もしかすると、ある人は、「それらは神にだけ捧げるものであり、人はそれを食べることは無い」と考えるかもしれないが、それは間違いである。なぜなら神道には「直会なおらい」と言って、奉げられものを、その後、皆で食べる事で神と共飲共食儀礼するという習慣があるからである。

 日本は、天皇を中心とした稲作による国家形成の過程で肉食が排除されてきたかのような意見もあるが、天皇の奉じる中心地である伊勢神宮においても肉の存在は、神饌に必要なものであった。
 肉食の排除は、どちらかといと仏教の伝来による影響が強く、神道は仏教ほどは肉食を排除してこなかったのではないかと思われる。


伊勢に至るまでの、天照大御神の遍歴


 伊勢神宮の外宮の神官たちが推し進めた伊勢神道は、偽書を基にしてトヨウケの神格を押し上げようという試みであったが、古文書をみるとトヨウケはやはり、アマテラスに追従する神として認識されるべきであるように思われる。

※ ただし内宮が上か、あるいは外宮が上かに関しては、伊勢神宮にアマテラスが祭られ、そこに礎が置かれたのかの過程をみると拙速な判断は出来ないようにも思われる。

 天照大御神と豊受大神の関係を理解するにあたり、どのような過程を経て、伊勢神宮が始まったかを知ることは重要だろう。『日本書紀』には、いつ、そしてどのように現在の伊勢に天照大御神が鎮座することになったのかについての説明が記されている。

 もともと天照大御神は、現在のの奈良盆地を中心とする大和地方の倭国(大和朝廷)の天皇の大殿内に祀られていた。つまりそれまで天照大御神は、天皇と「同床共殿」であったと伝えられる。しかし10代 崇神天皇の時代に転機が訪れた。その時のことを『日本書記は以下のように記している。

【 日本書紀 】
 五年、国內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。
 六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。

【 訳文 】
 崇神天皇即位5年。国内に疫病が多く発生して、民の大半が死亡した。
 即位6年。百姓は流浪し、反逆するものまであり、その勢いはすさまじく、徳を持って治めることは難しいほどであった。そこで眠らず朝まで神祇によって疫病がやむようにお願いをしたのである。
 これまでは天照大神と、倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二柱の神は天皇が住む宮殿の中に並べて祀られていた。そうするとこの二柱の神の勢いが強く畏れ多いために、共に住ことは不安となった。
 そこで天照大神に、崇神天皇の娘である豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)を付けて、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀りました。そして磯堅城シカタキ神籬ヒモロキを立てたのである。


 10代 崇神天皇の時代、天照大神と、倭大国魂を一緒の場所で祀るのは宜しいくないとして、天照大神を笠縫邑へと移動して祀るようになったことがわかる。そのために、まずは豊鍬入姫命が巫女的な役割をなし、天皇から離れた場所で祀られるようになったとある。
 しかしこれによって天照大御神は現在の伊勢神宮に落ち着くまで、非常に長い期間、遍歴を繰り返す事になる。その間に巫女は、豊鍬入姫命から倭姫命に代わり、天照大御神の御杖となって各地を転々としている。そのことを『日本書記』は、以下のように述べている。

【 日本書紀 】
 垂仁天皇二十五年....三月丁亥朔丙申、離天照大神於豐耜入姬命、託于倭姬命。爰倭姬命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡筱、此云佐佐、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國。時、天照大神誨倭姬命曰「是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也。欲居是國。」故、隨大神教、其祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。

【 訳文 】
 (垂仁天皇即位25年)3月10日。 天照大神を、豊耜入姫命から離して、倭姫命をつけた。倭姫命は天照大神が鎮座する場所を求めて、菟田ウダ筱幡ササハタに至りました。さらにそこから引き返して近江国へと入り、東の美濃を巡って、伊勢国に至ったときに天照大神は倭姫命に言った。
「この神風カムカゼ(伊勢の枕詞)の伊勢国は、常世の国からやってくる浪が、重浪しきなみ(繰り返し繰り返し浪がくること)する国である。傍国カタクニ(側の国…大和のそばの国)で、可怜国ウマシクニです。この国にいたいと思う」
 そこで天照大神の教えた通りに祠を伊勢国に立てた。それで斎宮を五十鈴川の川上に立てた。それを磯宮と言う。天照大神が初めて天よりこの場所に降りたのである。


 垂仁天皇即位25年に天照大御神が伊勢に留まるという神託を発したことで、ようやく鎮座する場所が定められ、これが伊勢神宮の始まりとなる。

 ここで注目すべき点は、天照大神の祭祀役が豊鋤入姫命から倭姫命に代わって以降も、鎮座する場所が定まらず、各地を遍歴したという記録である。
 『日本書紀』では8カ所の変遷が記されている。その遍歴の跡は、笠縫邑 → 磯城厳橿之本 → 莵田の筱幡ささはた → 近江国 → 美濃国 → 伊勢国 → 磯宮 → 渡遇宮(現在の伊勢神宮)である。

 この巡幸譚は『倭姫命世紀』ではさらに詳しく28ヵ所にも足跡を残す遍歴として描かれている。こうした一時的に天照大神が祀られた遍歴の跡地は元伊勢と呼ばれている。以下に『倭姫命世紀』に記されている「元伊勢」28ヵ所をリスト化しておく。

 まずは、豊鍬入姫命の巡歴である( )の数字は滞在年数。

  大和国   笠縫邑(33年)
  丹波国   吉佐宮(4年)
  大和国   伊豆加志本宮(8年)
  紀伊国   奈久佐浜宮(3年)
  吉備国   名方浜宮(4年)
  大和国   弥和乃御室嶺上宮(2年)

 倭姫命の巡歴は以下の通りである。

  大和国   弥和乃御室嶺上宮
        宇多秋宮(4年)
        佐佐波多宮
  伊賀国   隠市守宮(2年)
        穴穂宮(4年)
        敢都美恵宮(2年)
  近江国   甲可日雲宮(4年)
        坂田宮(2年)
  美濃国   伊久良河宮(4年)
  尾張国   中島宮
  伊勢国   桑名野代宮(4年)
        奈其波志忍山宮
        阿野国
        阿佐加 藤方片樋宮(4年)
        飯野高宮(高丘宮)(4年)
        佐佐牟江宮
        伊蘓宮
        大河之滝原之国
        矢田宮
        家田々上宮
        奈尾之根宮
        五十鈴宮(五十鈴川上宮)

 『日本書紀』巻第六 垂仁天皇紀には、垂仁天皇即位26年10月に、天照大海神は、渡遇(度会)宮に遷し祀られたとある。よって天照太神と神体である八咫鏡は、皇女を御杖に80年ものあいだ、各地を廻ったことになる。第11代 垂仁天皇の26年秋になってやっと、現在の伊勢神宮(内宮)に鎮座することが出来たのである。
 そして神宮の創立日こそが神嘗祭の日であり、現代でも途絶えることなく毎年その祭祀は続けられている。神嘗祭とは単に米の収穫の祭祀というだけでなく、伊勢神宮では天照大御神に、今年も米を約束とおりに作りましたと報告する役割を果たしているのである。また神嘗祭は伊勢神宮では正月に相当し、その日が一年の始まりとなるのである。


神嘗祭かんなめさい



 神嘗祭が旧暦の9月15日~17日に行われているのには理由がある。なぜならその期間に北斗七星が西北の空に最も低い高度になり、地上に触れるぐらいにまで近づくからである。そこで、その日にはまず西北を負う豊受大神である穀神・北斗に新穀が捧げられ、捧げられた神饌は豊受大神からさらに太一たいいつとして表わされる、東南を負う天照太神に供されるのである。つまり北斗の斗を通して供進された神饌が、太一として表わされる天照大御神=北極星に届くという訳である。

北斗と太一

 神宮のお祭りは、外宮先祭といってまず外宮で祭儀が行われる習わしとなっている。よって神嘗祭はまず外宮から始められなければならない。旧暦の9月15日亥の刻(午後10時)から行われるのが、由貴夕大御饌(ゆきのゆうべのおおみけ)であり、翌16日丑の刻(午前2時)から行われるのが、由貴朝大御饌(ゆきのあしたのおおみけ)である。
 こうした2回の供饌が深夜をまたいで行われることになる。

 その翌日、内宮でも同様に、旧暦の9月16日亥の刻(午後10時)から行われるのが、由貴夕大御饌(ゆきのゆうべのおおみけ)であり、翌17日丑の刻(午前2時)から行われるのが、由貴朝大御饌(ゆきのあしたのおおみけ)となる。

 伊勢神宮では必ず、外宮先祭で神事が行われることになっているが、その順番の根拠は、北斗(北斗七星)と、太一(北極星)という星の移動に関係するものと考えられる。つまり北斗として表わされる御饌神の豊受大神に神饌が満たされることによって始めて、太一として表わされる天照大御神に神饌が供されるからである。神嘗祭は伊勢神宮においては最も重要な神事である。よって神嘗祭が星の運行に大きな影響を及ぼしているのであれば、やはり星の動きこそが、伊勢神宮での外宮先祭を決定付けた重要な要素となっていると考えるべきではないだろうか。

 星の運行が大きく影響しているのは由貴大御饌の儀だけではない。神嘗祭では、由貴大御饌の行われた翌昼(午後12時)に奉幣ほうへいの儀が行われることになっているが、これも神嘗祭における重要な祭祀の一部である。この奉幣の儀は、由貴大御饌の儀の後、昼の午後12時に行われるようになっているが、その時刻に行われることも星の動きが根拠となっている。


 まず北極星は太一たいいつと呼ばれているが、さらに別名で、「の星」とも呼ばれる。子の刻(深夜0時)を中心として、その2時間前と、2時間後に行われる由貴大御饌の儀の時間、つまり子の刻に北斗の剣先は、丁度、の方向(真北)を指していることになる。
 それから12時間後、つまり昼12時の「子の刻」に奉幣の儀が行われる時間、北斗の剣先は午(真南)を指すことになる。つまり外宮においても内宮においても、深夜に行われる由貴大御饌の儀と対称的になるように、外宮においても内宮において奉幣の儀は、真昼(子の刻)に行われるよう設定されているという訳である。


 しかし、こうした星の運行を重視する見方は、日本的というよりはむしろ大陸的な思想であると言わざるを得ない。太陽ではなく、太一(北極星)を中心に据える見方は中国の王朝がとってきた天子に対する見方である。本来は太陽神としての天照大御神を、太一に重ねるというのは、その影響であると思われる。
 また北斗七星に対する見方は、陰陽五行や道教における影響である。そこには夏の天子であった禹の北斗七星を踏む歩き方の「禹歩」のような思想の影響もあるのではないかと思われる。


日本神話の混濁


 『日本書紀』が編纂されたのは、中国にならって律令制度を導入し、日本という国としての歩みを進めるにあたり、日本における大和政権の正統性と歴史的な根拠を示すためのものであった。すべて漢意によって書かれた『日本書紀』は、明らかに中国という大国に対しての大和国の存在のアピールであり、その権威の正統性を認めさせることを目的としていたと言っても良いだろう。
 日本の神話は、稲と太陽を中心にして国家のシンボルを据えたものであるが、それは中国の天子がそのシンボルを太一に据えているのに配慮し、中華思想との重複、あるいは中国に盾突く事を避けていたからとも考えらる。しかし後代、特に中世になると伊勢神道は、北極星である太一を、太陽神である天照大御神にもオーバーラップさせて行く。

 また中世は、本地垂迹ほんじすいじゃく)説に基づき、特に仏教との融合が行われた時代でもあった。本地垂迹説とは、日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする考えである。
 この本地垂迹説に対しても、中世の伊勢神道は、神こそが主で仏が従うべきであるとする神主仏従説を主張することになる。その為に、儒教・仏教・陰陽五行説などを援用しながら、複雑な体系を構築し、従来の本地垂迹説を否定し、神主仏従説を主張し始める。
 その過程においては陰陽五行だけでなく、陰陽道や、異神とも言える様々な神々との融合も行ってきたが、これは言ってみれば「毒をもって、毒を制する」ような行為であったと言えるのかもしれない。仏教に抗して神道の力を強める為に、更に仏教や、異教の神々が取り込まれていったのである。こうした過程の故に、魔多羅神、宇賀神や牛頭天王などの異神が、かつての神と融合して神道のなかに取り込まれたのである。

 こうした背景を経て中世には『神道五部書』のようなものが作られ、伊勢神宮の祭祀に確実に浸透していった。こうした体系を創り出した、伊勢神宮外宮の禰宜を務めていた渡会氏(行忠~家行)は、内においては、内宮の荒木田氏との争いがあり、また外においては本地垂迹説に基づいた仏教との争いがあったと考えられる。
 こうした正統性や、優位性の主張という過程のなかで、伊勢神宮における豊受大神の神格が高められて行った、否、彼らは何としても高めざるを得なかったのであると結論付けることが出来る。ただしそうした主張は、江戸時代になり、悉く様々な国学者に否定されてゆくことになるのだが...。

 その中のひとりに本居宣長がいた。
 宣長は『日本書紀』ではなく、『古事記』に立ち返り、日本史観や日本としての在り方を再考しようとした試みた。なぜ『古事記』だったのか。それは『日本書紀』を始めとする註釈書および偽書が複雑に絡み合った神学体系や、それに纏わる勢力争いを払拭して、純粋に日本的な価値観に基づき、日本的な思想に至ろうとしたからである。その試みのゆえに、宣長は『古事記』への再評価を行い、その註釈を通して「大和心」に至ったのである。つまりそれは混濁した日本神話のフィルターを廃して、純粋に日本的なものに向き合おうとしたという事になるだろう。


最後に...


 トヨウケにまつわる様々な事柄を、ペダンテックな知識も含めて綴ってきたが、こうした神話の部分には必ず「食」に関する事績や祭祀が含まれているのは大変興味深い。なぜなら「食」とは人間の根源的な部分であり、生命維持の本質だからである。
 こうした「食」における本質が、地域や民族の違いによって様々にカタチを変えて神話として現代でも脈々と息づいていることは驚嘆すべきことである。いやむしろ、そこに真実が含まれているからこそ、神話のという衣を纏いながら現代まで伝えられてきたのであると捉えるべきなのであろう。そしてさらに、逆に考えるならば、そうした神話的なものに眼を背けているならば、「食」を語るにおいても決して本質的なものに至る事はないと言うことになるのだろう。

 『美味求真』の註釈は、「食」について語ることを目的としたものではあるが、紆余曲折しながら、あるいは脱線しながら「食」の周辺について語っているのは、そうした部分にこそ物事の本質的が含まれているからであると、その理由を述べておきたい。表面的に「食」について語り、考察すること以上のものを目指したいと望むわたしの拙文が、真摯に「食」における文化、思想、精神について考察する人々にもし届いているようなことがあれば幸いである。





参考文献


『読み替えられた日本神話』  斎藤英喜

『日本神話における稲作と焼畑』 吉田敦彦

『中世神話』  山本ひろ子

『異神』  山本ひろ子


神道五部書

 ①『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』
 ②『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』
 ③『豊受皇太神御鎮座本紀』
 ④『造伊勢二所太神宮宝基本記』
 ⑤『倭姫命世記』

『中世伊勢神宮史の研究』  平泉隆房

『櫛田神社考』  木下清隆

『『延喜式(えんぎしき)』にみえるアワビに関する復元資料』  清武 雄二

『ノシアワビのこと』  鳥羽市

『鮑(ものと人間の文化史 62)』  矢野憲一

『伊勢神宮の神饌』  矢野憲一

『陰陽五行思想からみた日本の祭』  吉野裕子

『篠島』  篠島まちづくり会

『禹歩・反閇から身固めへ : 日本陰陽道展開の一端 として』  深澤瞳