高橋宗直たかはしむねなお


故実家の高橋宗直


 高橋宗直(1703年10月6日 - 1785年3月5日)は、江戸時代に日々の天皇の料理を準備する御厨子所で「あずかり」という役職を世襲する高橋家に生まれた。高橋家は料理を含め、様々な有職故実に通じた氏族であり、有名な故実学者だった高橋宗恒の孫にあたる。

 有職故実ゆうそくこじつとは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束・料理などのことや、こうしたものを研究することを言う。

高橋宗直
(1703年10月6日 - 1785年3月5日)


 系図によると武内宿禰の子孫が高橋家であるとされている。(詳しくは「天皇の料理に関係する高橋氏家系」から、家系図を参照のこと)
 武内宿禰は、300年間に渡って5代の天皇に仕えたとされている伝説上の人物であり、この人物の家系からは、紀氏高橋家が出ただけでなく、巨勢氏、平群氏、葛城氏、蘇我氏などの中央有力豪族が排出されているので、その祖を、武内宿禰とする高橋家も、謂れの在る一族だったことが分かるだろう。
 この紀氏高橋は、御厨子所預を世襲していた為に、料理を中心とした朝廷儀礼における多くの故実に関する情報を蓄積していた。こうした知識は高橋家の財産となり、またその知識のゆえにこそ高橋家は朝廷内において尊重されていたのである。
 高橋宗直はこうした知識を編纂し、書物に残した。こうした高橋宗直の功績によって現代の我々は宮廷での生活や儀礼の詳細を知ることが出来るのである。よって高橋宗直が残したのは、単に故実としての知識であるというだけでなく、歴史的に高い価値を有した史料であったと言えるだろう。


高橋宗直のバックグランド


 高橋宗直の父親は高橋親宗という人物である。だがその父の高橋親宗は、祖父の高橋宗恒ほど故実における事績・資料は残されておらず、むしろ息子の高橋宗直に対する評価の方が圧倒的に高い。よって歴史的に見て高橋家の有名な故実家というと、高橋宗恒と高橋宗直というふたりと言うことになる。『国学者伝記集成』には、高橋xx宗直は、高橋宗恒の子であると説明されているが、これは間違えた説明であって、高橋宗直は、高橋宗恒の孫というのが正しい説明である。これは高橋宗恒と高橋宗直という故実に通じた人物が高橋家から排出されたことから、それを親子関係とする誤解が生じたことが原因であると考えられる。

 高橋宗直は長男ではなかったので、本来は当主となるはずではなかった。嫡男は中正であり、この人物は9歳で御厨子所預に就任している。しかし中正が11歳と早くに死亡してしまった為に、宗直は家督を継ぐことになった。
 こうした経緯で次男の高橋宗直が18歳の時に御厨子所預に就任し、その後高橋家の当主となる。高橋宗直は祖父の宗恒に影響を受けたのか、故実に関する研鑽を重ね、その故実の研究を通して、かなり多くの著作を残している。以下、高橋宗直の著作のいくつかを取上げて説明を加えてみることにしたい。


高橋宗直の著作


 高橋宗直の著作はかなり多く存在しており、宮内庁書陵部や、大学図書館などに所蔵されているものを幾つか確認することが出来る。こうした著作や編纂した書物、あるいは写本であっても、高橋宗直が直筆で書いているという意味ではかなり貴重である。


『朝餉大床子等御膳図』

 高橋宗直の著作に『朝餉大床子等御膳図』があるが、これは天皇の毎日の食事の儀礼について、図解されている書である。天皇は一日に何回か食事を取ることが決め事としてあり、それが儀礼というかたちで毎日行われていた。『朝餉大床子等御膳図』というタイトルを分かり易く言うと、「朝餉と大床子などの御膳の図」ということになる。まずは朝餉と大床子の違いを説明しておきたい。


朝餉あさがれい

 朝餉御膳は、内膳司と御厨子所が調進したものを女官が取り次ぎ、上臈の女房(高級女官)が奉仕する食事のことである。毎日、朝と夕に行われていたが、後に朝夕二度を一度に供じられるようになる。
 この朝餉は儀礼であって食べる為の食事ではない。天皇は朝餉を前に箸を手にすることで、それを食べたことにするという見立てで終えられた。つまり朝餉の料理は食べられない料理である。

朝餉 : 一御膳と二御膳


 清涼殿西廂(にしびさし)の一区画に2間を占めるスペースが「朝餉の間」と呼ばれる場所であり、ここで毎日、朝餉の儀が行われていた。このスペースに朝餉の料理が準備され、天皇は毎日2回、料理を前に席につくことになっていたのである。


大床子の御物だいしょうじのおもの

 「大床子の御物」とは、宮中の清涼殿の母舎(もや)の大床子に着座してとる天皇の正式の食事の事である。『京都御所略解』によると、大床子とは、木地塗螺鈿の床子(4本脚の腰掛け)を二つ並べ、そこに高麗縁が敷かれ、その上に管圓座が置かれた天皇の食事のための座であることが説明されている。この大床子の上に座って天皇は食事を行った。
 大床子の前には長方形で4脚の台盤が据えられ、座敷に座り座卓で食事をするというイメージで考えて頂ければ良いだろう。この当時は一人づつ膳に食事が載せられたものを食べていたので、大きなテーブルに食事が載っているのは天皇の食事ならではの特別な印象だったということになるだろう。大床子の御物の時には臣下が陪膳することになっていたという点でも、朝餉とは対照的である。

大床子御膳の図:東京国立博物館より


 東京国立博物館に所蔵されている『旧儀式図画帖』には、大床子の御物の準備が行われている様子が描かれていて大変に興味深い。先に引用した『大床子御膳の図』のようにふたつの机が並べられ、天皇は毎日の実際の食事を行っていたと考えて良いだろう。

旧儀式図画帖:東京国立博物館より


 こうした朝餉、および大床子の御物の儀礼的な手配を、高橋宗直は『朝餉大床子等御膳図』で記録・編纂し後世に貴重な資料を残している。


その他の著作

 以下に、調査して分かる範囲で64タイトルの高橋宗直の著作があるので、これらを以下に挙げておく。

【 高橋宗直 著作 】
 1 『朝餉大床子等御膳図』
 2 『御祠堂御膳之書』
 3 『紀宗直詠歌留』
 4 『紀宗藤記』
 5 『婚礼床飾』
 6 『清紫両殿別勘』
 7 『大嘗会神饌調度之図』
 8 『莛響録』
 9 『寶石類書』
 10 『舞楽図』
 11 『定基卿問答記』
 12 『清涼殿之図』
 13 『太政官廳圖考證』
 14 『熊野新宮神寳図』
 15 『白川家秘記 : 神祇部類』

 ここからの著作は書籍案内のみ

 16 『曲水宴肴物調進図』
 17 『九条殿亭御幸御膳図』
 18 『巻纓之事』
 19 『見聞雑録』
 20 『元文二年/凶事御膳次第』
 21 『桜町天皇御即位礼服紋図』
 22 『紫宸清涼及太政官図』
 23 『紫清両殿図別勘』
 24 『祠堂供膳図』
 25 『正月三節御膳之図次第』
 26 『清紫図考』
 27 『清紫両殿考』
 28 『清紫両殿図考証』
 30 『節会御膳内々御覧之記』
 31 『大床子御膳供進記』
 32 『大嘗会鮮味図』
 33 『大嘗会新嘗会御再興記』
 34 『大嘗会本柏之図』
 35 『大嘗会悠紀主基御次第』
 36 『太政官庁図考証』
 37 『内裏御殿図』
 38 『厨具図』
 39 『厨具類纂』
 40 『厨署類琳』
 41 『桃華蘂葉中八条之辨』
 42 『唐菓子作り様』
 43 『当家年中行事』
 44 『床飾正誤』
 45 『白烏御祝の記』
 46 『伯鯉抄』
 47 『八種唐菓子之事』
 48 『晴庖丁極秘五ケ条』
 49 『晴庖丁次第』
 50 『冠装官器図識』
 51 『庖丁簡要抄』
 52 『庖丁譜類聚』
 53 『御厨子所預家記目録』
 54 『御厨子所預蔵書雑文書』
 55 『御厨子所門弟連名』
 56 『礼服着用記』
 57 『礼服着用故実抄』
 58 『諒闇類聚并関東之儀』
 59 『大床子朝餉等御膳之図』
 60 『戴餅之図』
 61 『市之餅供進図』
 62 『旧内裏殿舎考』
 63 『京極宮姫宮有馬家へ御婚礼御膳』
 64 『凶事御膳次第』


 リストにあるように高橋宗直は、数多くの著作を残しており、祖父にあたる高橋宗恒と同様に、有職故実の専門家として認められている。
 『国学者伝記集成』には、高橋宗直について説明してる項があり、そこでは高橋宗直が、高橋宗恒の子であると説明されているが、これは間違えであり、実際には高橋宗直は高橋宗恒の孫である。そしてこの本には幾つかの高橋宗直についてのエピソードが載せられている。
 例えば、六人のひとのために、高橋宗直が鯉を六当分すると、それぞれが寸分違わず同じ分量だったことから、御厨子所預であるので包丁さばきにおいても勝っていたと述べている。
 また宝暦13年に高橋宗直が白鳥包丁(白鳥を捌く包丁式)を披露して禄を賜る際に、笏がなかったので、懐にたたんであった紙を笏にみたてて使ったことから、学に通じた人はそれを見て感じ入ったとあり、これも高橋宗直が故実に通じていたことの証である。


かんざしを発明した高橋宗直

 他にも意外なところで高橋宗直の残したものがある。それはかんざしである。もともと簪とは、こうがいに耳掻きをつけたことから始まった。簪になぜ耳掻きをつけるようになったのかについては諸説あるが、そのひとつに元禄時代に贅沢禁止令から逃れるためというものがある。つまり金をかけたきらびやかな簪であっても、耳かきを着けることで、贅沢品ではなく、実用品であると言い訳するためであったとされている。
 これには高橋宗直も関係していて、宗直がある商人に耳掻きをつけると簪が流行すると助言し、それを試しに作ってみたところ大流行したとされている。

簪(かんざし)には耳かきが付いている


 簪については、祖父の高橋宗恒が発明したとしている説もあるが、いずれにしても御厨子所預の高橋氏がそれを発案したことには間違いなく、故実家の持つ知識が女性の美容にも関係したことは興味深い。これも高橋宗恒・宗直が、故実のジャンルとして、食事だけにとどまらず、装束や道具に至るまで調査し、図画として記録に留めるという試みがもたらしたものだろう。


第115代 桜町天皇の大嘗祭


 第103代の御土御門天皇の大嘗祭を最後に、江戸時代の東山天皇の即位した貞享4年(1687)8月13日に大嘗会が簡略な形で復興されるまでの 240年間も大嘗祭が中断されていた。この長期にわたるブランクの期間に大嘗祭に関する有職故実に関する知識は研究家によって保たれてきた。その一人が高橋宗恒であり、高橋宗恒は大嘗祭の復興において大きな役割を果たしている。

 その後、第115代の桜町天皇が元文3年(1738)に大嘗祭を復活するが、この再興に、高橋宗直の有職故実に関する知識が重要な役割を果たしたと考えられる。故実研究家として、高橋家の果たした朝廷における役割は重要なものであったと改めて理解する事ができるだろう。






参考資料


『魚菜文庫(旧称石泰文庫)目録』  慶應義塾図書館

『高橋宗恒・高橋宗直 笄と簪を発案した有職故実の学者たち』  鈴木昌子

『宮廷の食事様式(幕末・用治)』  児玉定子

『桜町天皇の大嘗祭』  佐野真人

『天皇・幕府の料理集』  山下光雄, 野口孝則 監修